テクスト研究学会

Japan Society of Text Studies

 

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テクスト研究学会第17回大会プログラム

日時:2017平成29825日(金)10:5017:15(受付10:20から)
会場:佛教大学(二条キャンパス)N1-202教室(控室:N1-202教室後部スペース)
    〒604-8418 京都市中京区西ノ京東栂尾町7   Tel. 075-491-2141(代)
    アクセス:JR京都線「二条」駅、もしくは京都市営地下鉄「二条」駅下車、徒歩1分。
    阪急「大宮」駅下車、京都市バス「四条大宮前」~「二乗駅前」(5分)、徒歩1
    (http://www.bukkyo-u.ac.jp/about/access/nijo
    ※2階以上に入場するには、カードキーが必要です。キャンパス1階の受付にて貸出します。
 
◇受  付:10:201階エントランス)
◇開会の辞:10:50N1-202教室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 井上義夫(会長・一橋大学名誉教授)
◇研究発表:11:00~ (各発表時間:20分、質疑応答:10分)
 午前の部(N1-202教室)➀②:11:0012:00      

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

11:00~ 「『ビルマの日々』における支配被支配構造 ―境界侵犯の試み―」

     神尾春香(京都女子大学大学院(院))

司会:吉村耕治(関西外大名誉教授)

11:30~ 「馬朗『琴を燃やした流浪者』における時間・空間表象とその“現代性”」

                                  田中雄大(東京大学大学院(院))

             
 昼食・休憩12:0013:00
◇研究発表:13:00~ (各発表時間:20分、質疑応答:10分)
 午後の部(N1-202教室)③~⑤:13:0014:30

司会:井上義夫(一橋大学名誉教授)

13:00~ 「架空の冷戦と文化の残骸 ―アンジェラ・カーター『ホフマン博士の地獄の欲望装置』における間テクスト性―」    

              奥畑 豊(ロンドン大学バークベックカレッジ大学院・東京大学大学院(院))

13:30~ 「『大喜びするのに十分な脳が残されたら! ―サミュエル・ベケット『モロイ』の補綴的身体と思考機械―」

戸丸優作(東京大学大学院(院))

司会:武田美保子(京都女子大学名誉教授)

14:00~「散種する<死>、輻輳する記憶 ―小説『かあさんは朝鮮ピーだった』から映画『かあさんは朝鮮ピーだった』へ―」

李 恵慶(大阪経済法科大学客員研究員)

 
   休憩14:3014:45
◇シンポジウム 14:4517:00N1-202教室(発表:100分、休憩:10分、質疑応答:25分)
  テーマ:アダプテーションの「境界」

                                                  司会・講師:片渕 悦久(大阪大学教授)           
講師:鴨川啓信(京都女子大学教授)    
講師:梶原克教(愛知県立大学准教授)

 
◇総  会 17:0017:10N1-202教室)
◇閉会の辞 17:10N1-202教室)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)
◇懇会 17:4019:30  キャンパス内「カフェレストラン あむりた」(会費3,000円)
  *発表者・大会参加者の控室として、N1-202教室の後部スペースと1階ラウンジをご利用ください。
  ※昼食については、1階の「カフェレストラン あむりた」がご利用いただけます。
  *問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(吉村耕治E-mail: p925122[at mark]kansai-u.ac.jp

主催テクスト研究学会



  【発表要旨】
研究発表要旨
①  『ビルマの日々』における支配/被支配構造 ―境界侵犯の試み―

神尾春香(京都女子大学大学院(院))

  Burmese DaysGeorge Orwellが、当時英国統治下にあったビルマでの約5年間の滞在経験を基に執筆されたものであり、この小説のなかでオーウェルは大英帝国による植民地支配を非難し、東洋での白人支配の無益さを具体化させている。オーウェルが駐在していた1920年代のビルマ国内は、反英感情の高まりにより治安が悪化していた。そうした政治的背景のために、植民者である英国人のアイデンティティは確固としたものではなくなりつつあった。支配的イデオロギーが一枚岩的ではなくなり、植民者と被植民者との間にある権力の図式に変化が生じるからである。それに伴い、人種・文化的な二項対立の土台が怪しくなる。そこで本論では『ビルマの日々』にみられる、支配者/被支配者、西洋/東洋、男性/女性といった様々な二項対立が、揺らぎをみせはじめた当時のビルマを背景に、そこで展開される優劣の逆転・反転の可能性に注目し、このテクストの分析を試みる。
 小説における支配者と被支配者の描写に目を向けると、その支配構造は複雑性を帯びていることがわかる。例えば、主人公のJohn Floryは白人社会の価値観や掟に反発すると同時に縛られているため、ビルマにおける立場上の支配者でありながら、内的な自由の剥奪と抑圧を受ける。また、ビルマ人が起こした反乱を契機に、現地のイギリス人たちは身の危険を感じるようになり、支配対象であるはずのビルマ人に対して恐怖を抱く。ここで、絶対的だと思われた白人の権威が揺らぎ、彼らは心理的に被支配者となる。こうした状況により、支配/被支配関係の不安定さが示されている。また、Dr VeraswamiU Po Kyinのような「西洋化されたアジア人」は植民地支配に脅威をもたらす存在として示唆されている。そこで彼らの持つ異種混淆性について、Homi K. Bhabhaが提唱する「擬態」(mimicry)の概念を用いながら考察する。一方、フローリーはイギリス人でありながらビルマの文化や人々に共感を抱いているが、人種間の仲裁者としては機能しない。現地人との交流を通して浮き彫りになる彼の本質や偽善性についても検証する。
 
②馬朗『琴を燃やした流浪者』における時間・空間表象とその“現代性”

田中雄大(東京大学大学院(院))

 馬朗(本名は馬博良、1993-)は一般的に、1950年代に始まる香港“現代主義”(=モダニズム)文学の先駆けと見なされている詩人であるが、その評価の主な根拠となってきたのが彼の主催した雑誌『文藝新潮』である。『文藝新潮』はその発刊の辞において暗黒の時代において新たな楽園を探し求めることを宣言し、また1956年から1959年の停刊までの間に精力的に同時代の海外文芸を紹介するなど、新しさにより既存の文芸の変革を試みようとした雑誌であり、馬朗の後の回想においても繰り返し“現代主義”の陣地であったことが強調されてきた。しかし、その一方で馬朗の詩テクストに関する先行研究は非常に少なく、また数少ない先行研究も馬郎の詩と1930年代・1940年代の中国モダニズム文学とのつながりを指摘したり、テクストと作家のアイデンティティとの関連を指摘したりというように、正面からその“現代主義”文学としての性質を問うてはこなかった。
 そこで、本発表においては、馬郎の初期の詩(1940年代~1960年代)を収録した詩集、『琴を燃やした流浪者』(焚琴的浪子)のテクストにおける時間および空間に関する表象に注目するところから出発し、馬朗のテクストにおける“現代性”を問い直す作業を通じて、改めて香港“現代主義”というある特定のモダニズム文学の独自性の一端を明らかにしたい。『琴を燃やした流浪者』のテクストにおいては、過去の出来事を指す字句と現在の出来事を指す字句とが並置され、その両者が回想や時系列にそった展開を採らず、ただ併存していることが非常に多い。また空間に関しても「茫漠とした」、「濛々と」といった語句が多用され、空間の範囲や境界が指し示されることは極めて少ない。このような漠然とした時間・空間表象は、『文藝新潮』における新しい楽園を追求する力強さと一見相反するように見受けられるが、こうした曖昧さをそのまま提示することが馬朗にとっての“現代性”という新しさの追求であったと仮定するのであれば、香港“現代主義”の核心は中国モダニズム文学や、同時代の海外文藝といった外部的要素との関連に求められるべきではなく、不確定性の享受という新たな文学のあり方にあったのだという解釈を示すことが可能である。
 
②  架空の冷戦と文化の残骸 ―アンジェラ・カーター『ホフマン博士の地獄の欲望装置』における間テクスト性―

奥畑 豊(ロンドン大学バークベックカレッジ大学院・東京大学大学院(院))

 アンジェラ・カーターの長編『ホフマン博士の地獄の欲望装置』(The Infernal Desire Machines of Doctor Hoffman, 1972)は、ジョン・バースが1967年のエッセイで指摘した「尽きの文学」の時代を体現する作品である。バースが賞賛するボルヘスと同様、この小説においてカーターは、多様な形式が既に使い尽くされた状況を逆説的に利用することにより、新たな文学の可能性を切り開こうと試みている。実際,古今東西の文学的ないし哲学的遺産に対する膨大な間テクスト的言及によって成り立つ本作品の中で,カーターはフレドリック・ジェイムソンがポストモダン文学の特徴と位置づけたパスティシュの技法を駆使しつつ、そうした文化的「残骸」や「ガラクタ」の山と美学的に戯れ、ナラティヴ全体の「偽物らしさ」(fakeness)を敢えて強調している。
 もちろん,既に多くの研究が『ホフマン博士』と様々な先行テクストとの関係を論じているが、それらはこの小説の背後に潜む重要な政治的/歴史的な背景を見逃してきた。換言すれば、殆どの批評家たちは、決定省大臣とホフマンによる「リアリティ戦争」を描いたこの物語が、実は現実世界における米ソ冷戦や核軍拡競争の壮大なパスティシュであることを看過してきたのだ。のみならず、彼らは作中で両者が語る思想――無数の「サンプル」と呼ばれる装置の組み合わせにより宇宙の全現象が再現可能であるというもの――が,多様な文化的ガラクタのリサイクルによって架空の冷戦の物語を(再)構築しようとした、作者の文学的挑戦とパラレルの関係にあることをも見落としている。
 こうした観点から、本発表では『ホフマン博士』が持つ間テクスト的な作品構造を、上に挙げた小説全体の政治的側面と結びつけて検討する。ここではまず核や放射能の脅威といった問題を扱ったJG・バラードの短編との共通点を分析した上で、文化的残骸の集合体であるこの「偽物」の歴史物語において、カーターが人間の生命のみならず文化それ自体が本質的価値を失った核時代の現実世界に対して,如何に応答しようとしたのかを考察したい。
 
③  「大喜びするのに十分な脳が残されたら!」 ―サミュエル・ベケット『モロイ』の補綴的身体と思考機械―

戸丸 優作(東京大学大学院(院))

 サミュエル・ベケット作品の中で身体性とそれを補う道具は多くの論を生み出してきた。一例を挙げれば、身体性については、ウルリカ・モード(Ulrika Maude)がベケット作品での身体の強調は精神を重んじる西洋文化の伝統に反していることを指摘している(Ulrika Maude, “Beckett, Body and Mind,” The New Cambridge Companion to Samuel Beckett, 2014)。また、田尻芳樹はベケット作品における補綴的道具に着目し、身体器官そのものが補綴的様態をおびていること、そしてその帰結としての各器官を隔てる境界が曖昧になっていくさまを描出している (Yoshiki Tajiri, Samuel Beckett and the Prosthetic Body, 2007)
 こうした身体性と補綴的道具または機械についてのアプローチを踏まえ、本発表では主に『モロイ』 (Molloy、フランス語による執筆1947、出版1951)を対象とし、まず作中人物の身体と補綴物との関係性を分析する。Tim Armstrong, Modernism, Technology and the Body 1998)などの先行研究を参照しながら、『モロイ』の作中に現れる自転車、松葉杖、おしゃぶり用の小石などといった補綴物と作中人物の身体的変化(主として悪化)あるいはその姿勢・運動との関わりを考察する。その上で、ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(1958)で論じられている「遊び」についての議論を援用し、補綴物と同化した主人公たちの活動を遊びの観点から見ていく。ベケットの他の作品、例えば、英語で書かれた小説『並には勝る女たちの夢』(Dream of Fair to Middling Women, 1934)、『蹴り損の棘もうけ』(More Pricks than Kicks、執筆1932、出版1992)、『マーフィー』(Murphy, 1938)などに登場する遊び(マーフィーのロッキングチェアーが最たる例だろう)との比較を通じて、『モロイ』での遊びの特質を考察する。これらの作業から、補綴された身体が思考と結んでいる関係の一端が明らかになるだろう。また、上記の分析を進める上で、ベケットのフランス語と英語での執筆における文体的差異にも着目し、『モロイ』というテクストの内部でフランス語という(ベケットにとっての)補綴物が果たしている役割を検証する。
 
④  散種する<死>、輻輳する記憶 ―小説『かあさんは朝鮮ピーだった』から映画『かあさんは朝鮮ピーだった』へ―

李 恵慶(大阪経済法科大学・客員研究員/仙台白百合女子大学(非))

 太平洋戦争が終わってすでに70年以上が経った。しかし東アジアはまだ「戦争」の真っ只中にある。歴史認識をめぐる相違が年々顕著となり、諸国家間の摩擦と衝突が絶えない。それに伴った急激な国民感情の悪化と相互不信は、「歴史戦争」をさらに複雑にさせている。こうしたなかで最も敏感でかつ感情的になっている問題が日本軍慰安婦問題である。この問題をめぐる文化空間での動きは大きく変わりつつある。終戦後、東アジアの文化空間において慰安婦が取り上げられることはほとんどなく、韓国と中国では禁忌とされてきた。だが近年、その状況は一変し、特に韓国では慰安婦を主題化した文化生産物があらゆるジャンルから量産され消費されている。なかでも映画や漫画、ドキュメンタリー、アニメーションなどの視覚文化における発信力と社会的影響力は、東アジアの日本軍慰安婦をめぐる歴史戦争をアメリカ化=世界化させながら、これまでにない困難かつ複雑な状況を生み出している。
 とりあえずそうした流れにおける先駆け的な作品が1982年に発表された尹静慕(ユン・ジュンモ)の小説『かあさんは朝鮮ピーだった』である。初版刊行以来、版を重ねながら繰り返し映画化・舞台化され、今なお慰安婦関連文化生産物の(再-)生産に大きな影響を与えている。一般的に小説の映画化・舞台化に伴った翻案・改作・パロディといった広い意味でのテクスト的な引用には必ず原典に対する独自の解釈が行われ、原作に異議申し立てを行いながら新たな読みを可能にする表象と物語の形式が与えられる。『かあさんは朝鮮ピーだった』もその例外ではなく、そのあり様を詳細に検討することが本発表の主な目的である。そのため、特に1991年に映画化された同名の映画に焦点を当てて、映画化に伴った独自の解釈がどのように行われ、原作のエピソードを反復またはずらしているのか、そしてそれらが日本軍慰安婦をめぐる韓国の国民の感情記憶及び被害者意識に貫かれたナショナリズムといかに結び付けられているのか、テクストの政治学に迫ってみたい。
 
シンポジアム要旨
 テーマ:アダプテーションの「境界」

                                                           司会・講師:片渕 悦久(大阪大学教授)           
                                                                    講師:鴨川啓信(京都女子大学教授)    
                                                                    講師:梶原克教(愛知県立大学准教授)

 

司会:片渕悦久(大阪大学教授)

 「アダプテーション」とは何か。少なくとも文学研究に関連する分野では、現在この語は注釈なしに用いられるほど浸透している。だが研究者によりその理解は異なり、議論の余地が残る概念でもある。たとえばアダプテーションをメディアの置き換えを前提とする物語の作り直しとするなら、表現媒体の持つ特質とそれに呼応した物語の形態的相違が主要な論点となるだろう。だがそれでアダプテーションの概念や定義が決まるわけではない。いわゆる実写化やアニメ化と呼ばれる物語の作り直しはアダプテーションなのか。文字媒体のノンフィクションから虚構の物語映画が作られるような場合はどうか。同名のスパイ小説をパロディ的に映像化した1967年の映画『007カジノロワイヤル』などはアダプテーションをめぐる定義の不明瞭さの際立つ事例、映画を元テクストとする小説『2001年宇宙の旅』にいたっては、アダプテーションなのかノヴェライズなのかもはや判然としない事例としてそれぞれ見逃せない。物語の境界線の引き方も問題となるだろう。とりわけ内容の変更や続編等で物語が拡大展開する場合、関連しあう物語群のどこまでを同一である、あるいはアダプテーションとして捉えることができるのか。
 以上のように、アダプテーションに関わる「境界」はさまざまな意味合いで曖昧なままである。このシンポジウムは、「境界」というキーワードを手がかりとして、文字や映像などメディアが持つ性質や、語り直される物語についての考え方等に焦点を当てあらためて議論することで、物語をめぐる現在の文化的状況を整理するための枠組みを提案し、アダプテーションの輪郭に光を当てる試みである。
 
「アダプテーションとして語る限界―『リチャード三世』の多様な語り直しに関して―」

鴨川 啓信(京都女子大学教授)

 アダプテーションをめぐる議論は、表現媒体が異なるテクストを「同じ」物語の対等な別ヴァージョンとして比較分析する道を示した。その一方、多様に展開する間テクスト的物語作品を整理分類するためにこの概念が用いられる場合、それは他の分類概念との間に境界線を引いて差別化を促すものとしても機能する。
 この発表では、シェイクスピアの史劇『リチャード三世』と、ローレンス・オリビエ版映画アダプテーション、1930年代の英国をモデルとした架空の世界に舞台を移したアップデート的映画版、メタフィクションとしての映画『リチャードを探して』、そしてパロディ的コミック版を取り上げ、アダプテーションという概念を、いわゆるジャンルとして捉えるのではなく、関連テクストを結び付けるための根拠とすることで、その関連性の中に浮かび上がる統合的物語の新しい可能性を示す。
 
「文字/言語と映像の境界」

梶原克教(愛知県立大学准教授)

 文学作品を映画にアダプトする場合、そこには越えられない境界がある。それは言語と映像とのメディア差に起因する境界である。たとえば、ジル・ドゥルーズは「映画は普遍的あるいは本来的な言語ではなく言語活動でさえもない」といっている。また、映画作家ジャン=リュック・ゴダールは、「形(フォルム)」を言語化以前の基底に据えて、「ヒッチコックが呪われた詩人として唯一成功したのは、20世紀の最も偉大な形(フォルム)の発明者だからだ」といっている。いっぽう、文学研究者によるアダプテーション論の多くは、原典としての文学作品が持つモチーフやテーマを基準枠として定め、それに従属させる形でのアダプテーション論を展開している。本報告では、コーマック・マッカーシー原作、コーエン兄弟監督の『ノーカントリー』を原典である小説に依存することなく、映像そのものが持つ内在的論理に着目することで、文字/映像メディア間の境界を明示したい。
 
「アダプテーションから物語更新へ」

片渕悦久(大阪大学教授)

 すべてのアダプテーションには物語の更新がともなうが、すべての物語更新がアダプテーションであるとは限らない。そもそもアダプテーションの定義を、原作の明示とメディアの置き換えを前提とした物語の作り変えととらえるだけで十分なのだろうか。原作とそこから派生する物語との関係は多様性をはらんでいる。たとえば、ひとつの原作に複数のリメイク作品が存在する場合はどうだろうか。逆にひとつのアダプテーション作品に複数の原作が想定される場合についてはどう考えればいいのか。さらには通常アダプテーションとはみなされない作品間に物語の更新が観察される場合もある。こうしていくつかの事例を分析することは、アダプテーション理論の限界と物語更新理論の可能性を示唆する。本論では、バズ・ラーマン監督『華麗なるギャツビー』、ロン・ハワード監督『白鯨との闘い』、そして『007』シリーズをとりあげ、アダプテーションと物語更新との間に横たわる「境界」について探ってみたい。
 

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