テクスト研究学会

Japan Society of Text Studies

 

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テクスト研究学会第18回大会プログラム

日時:2018平成308月31日(金)9:5017:40(受付9:20から)
会場:佛教大学(二条キャンパス)N1-202教室(控室:N1-202教室後部スペース)
    〒604-8418 京都市中京区西ノ京東栂尾町7   Tel. 075-491-2141(代)
    アクセス:JR京都線「二条」駅、もしくは京都市営地下鉄「二条」駅下車、徒歩1分。
    阪急「大宮」駅下車、京都市バス「四条大宮前」~「二乗駅前」(5分)、徒歩1
    (http://www.bukkyo-u.ac.jp/about/access/nijo
    ※2階以上に入場するには、カードキーが必要です。キャンパス1階の受付にて貸出します。
 
受  付:9:201階エントランス)
開会の辞:9:50N1-202教室・・・・・・・ 井上 義夫(会長・一橋大学名誉教授)
研究発表:午前の部(N1-202教室10:0012:00(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)

10:00~ 「移動する定点観測者 ―サミュエル・ベケットのフランス語短編小説群の一人称について―」          

戸丸 優作(東京大学(院))

10:30~ 「John DonneLove Elegiesにおける語りのテクニック」

鳥養 志乃(熊本県立大学(院))

司会:武田美保子(京都女子大学名誉教授)

11:00 Frankensteinにおける間テクスト性」

野間 由梨花(武庫川女子大学(院))

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

11:30~ 「If I Die in a Combat Zoneにおける戦争責任を巡る葛藤――Tim O’Brienのヴェトナム戦争と冷戦イデオロギー」

三牧 史奈(熊本県立大学(院))

昼食・休憩12:0013:00
研究発表:午後の部(N1-202教室13:0015:00(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

13:00~ 「『希望や愛や信頼を若い頃に学ばなかった者に哀れみを』―Joseph Conrad, VictoryにおけるHeystを『笑う』ための戦略―」

田中 和也(佛教大学講師)

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

13:30~ 「犬の言葉と犬の苦しみ ―町田康『ホサナ』(2017)論―」

大桃 陶子(藤女子大学准教授)
  
司会:武田美保子(京都女子大学名誉教授)

14:00~ 「読書するヒロイン ―メアリー・シェリーの『マチルダ』を中心に―」

中島正太(徳島文理大学准教授)

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

14:30~ 「隠蔽か合一か ―『贖罪』における《テクストを読む行為》の重ね塗りの倫理―」

宮原 一成(山口大学教授)

  休憩15:0015:20
シンポジウム 15:2017:15N1-202教室(発表:90分、質疑応答:25分)
  テーマ:「テクスト,グラフ,マッピング ―テクストの可視化とデジタル・ヒューマニティーズ―」

司会・講師:鈴木 章能(長崎大学教授)
講師:山根 亮一(東京工業大学准教授)
講師:鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

総  会 17:2017:30N1-202教室)
閉会の辞 17:30N1-202教室)・・・・・・・ 玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)
会 18:0019:30  キャンパス内「カフェレストラン あむりた」(会費3,000円)
*発表者・大会参加者の控室としては、N1-202教室の後部スペースと1階ラウンジをご利用ください。
※昼食については、1階の「カフェレストラン あむりた」がご利用いただけます。
*問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(吉村耕治E-mail: p925122[at mark]kansai-u.ac.jp


【発表要旨】
◇研究発表要旨
① 移動する定点観測者 ―サミュエル・ベケットのフランス語短編小説群の一人称について―

戸丸 優作(東京大学(院))

 サミュエル・ベケットは第二次大戦終結後それまでの創作言語であった英語をフランス語に替えて小説を書き始める。ベケットは言語変更前の最後の英語小説『ワット [Watt]』(執筆1941-44年、初出1953年)で既に一人称の語りを試みているが、英語で小説を書いていた頃は主に全知の語り手を用いていた。しかし、フランス語で書き始めてから本格的に一人称の語りの技法を追求することになる。こうした創作態度の変化を追跡することにより、ベケットがフランス語という言語によって新たな表現を獲得していく過程を記述できる。
 本発表では特に1946年に書かれた3編の短編小説「終わり [La Fin]」(執筆1946年2月-5月、初出1955年)「追い出された男 [L’Expulsé]」(執筆1946年10月、初出1946年12月-1947年1月)「鎮静剤 [Le Calmant]」(執筆1946年12月、初出1955年)を主な対象とする。これらの短編では一人称の語り手「わたし」が自らのあてどない旅の物語を語っている。「終わり」と「追い出された男」の語り手はそれぞれ元いた場所から追い出されるところから語り始め、「鎮静剤」の語り手は自らの死から語り始める。別の人物のようでありまた相互に関連しているようでもあるこれら3作品の「わたし」は、路上の人となっている自らの思索、記憶、あるいは身体の状況などを述べる。しかし、同時に、それぞれが遭遇する他者たちとそこでのやり取り、そして別れについても伝えている。こうした「わたし」の一人称語りの文体を仔細に検討することが今回の作業の目的である。その際、デカルト、ベルクソン、プルーストらについてのベケットの思索を補助線として、自己、他者、場所の移動、時間構造、記憶といった事項に着目する。これらが「わたし」による一人称語りの構築に及ぼした作用を分析することを通じて、その語りの技法の生成過程を観測する。この作業をベケットの他のフランス語散文作品に接続することで、ベケットの模索の痕跡を辿り直すことになるだろう。

② John DonneのLove Elegiesにおける語りのテクニック

鳥養 志乃(熊本県立大学(院))

 John DonneのLove Elegiesは、同時代に流行していたPetrarch的なSonnet Sequenceによく用いられる韻律である弱強五歩脚を採用しておりながら、蔑む女性への求愛に徹するそれらとは異なり、特定の背景を前提とした恋愛における様々な場面を描き出している。そのスタイルは、Robert BrowningのDramatic Monologueの先駆けと見なすこともできる。本発表では語りが特徴的な作品を選び、その語りが個々の恋愛詩にどのような効果や演出が見られるかを検証する。まず、“A Tale of a Citizen and His Wife”において語り手の主張と実際の語りの矛盾について議論し、それにより恋愛詩でありながら風刺詩の要素が見られることを確認する。“Sappho to Philaenis”では語り手が読者の関心をひくために物語中の真実を隠しながら謎明かしをしているかを見ていく。次に、このような語りの意識やテクニックが恋愛のテーマにどのような影響を与えているかを、特にPetrarch的な恋愛詩と対比した上で“Julia”、“The Anagram”、“The Comparison”を論じる。“Julia”においては、語りが「真実の言葉を以て、真実の愛を語る」Petrarch的な恋愛詩の語りの前提を覆している点を見ていく。 “The Anagram”では語り手がPetrarchのblazonの技法を覆すいわゆるcounter-blazonを用いながら、恋愛詩の本筋である女性擁護とは程通い、風刺的なレトリックを描き出していることを確認する。“The Comparison”では語り手が女性二人をblazonとanti-blazonのそれぞれの題材として扱った上で自身の恋人の美の優位性を語るが、実際に最も重視しているのは彼とその友人の男性同士の優劣や友情であることを指摘する。結論として、Love Elegiesの複数の作品においてDonneは特定の背景を持つ劇的独白の要素を利用しながら、恋愛あるいは恋愛観についての両義性を示唆するための、不確かで信用できない語りを確立していることを論じる。最後に、Petrarchの作品の技法や態度を覆す作風がもう一つの代表的な恋愛詩集Songs and Sonnetsにも引き継がれていることも示したい。

Frankensteinにおける間テクスト性

野間 由梨花(武庫川女子大学(院))

『フランケンシュタイン』は19世紀初頭にメアリー・シェリーによって書かれた小説である。物語自体は復讐物語的なおもしろさを持っているが、今、間テクスト性という小説技法の特質に注目したい。この小説における間テクスト性の検証を通して、フランケンシュタイン博士と怪物の関係性を考察する。
 間テクスト性とは、文化や文学などをより深く理解するために重要な要素である。その言葉自体は新しいものであるが、1831年度版の前書きの中でシェリーは創作とは無から生まれるものではないと提言しており、今までの研究からもシェリーは、執筆前に様々な文学作品を読んでいることが明らかになっている。この先行テクストへの強い関心が、間テクスト性という技法の導入に深く関わっていると思われる。物語の中で特にこの関心が反映されていると考えられる3作品を中心に検証を進めたい。
 この小説には、「あるいは現代のプロメテウス」という副題がついている。プロメテウスは、ギリシャ神話においては、人間に火を与え、それがゼウスの逆鱗に触れ、罰され、岩山に縛り付けられ、ゼウスから許されるまで毎日鷹に肝臓を食べられるという絶え間ない苦しみを味わう。副題から予測できるのは、怪物という創造物を作り上げ、それを見放したことにより罰されるフランケンシュタイン博士の姿である。
 次に作中に登場する3冊の本と怪物との関係性に注目する。特にゲーテの『若きウェルテルの悩み』とミルトンの『失楽園』の2冊に焦点を当てる。怪物はこれらの本から様々な感想や考え方を得て、影響を受けたことを博士に説明する。怪物は作中の登場人物に共通点や相違点を見つけて共感し、また落胆する。そして怪物は、自分とは誰なのか、何者なのかと、自問自答を繰り返す。
 間テクスト的に考えると、登場人物たちのキャラクターの間に類似点が出てくるのが興味深い。作中に出てくる3冊の本や副題は登場人物の性格造型とどんな関係があるのか、また怪物とフランケンシュタイン博士のキャラクターがどのように形成されたかを明らかにすることにより、『フランケンシュタイン』において間テクスト性が果たす機能について考えてみたい。

If I Die in a Combat Zoneにおける戦争責任を巡る葛藤 ―Tim O’Brienのヴェトナム戦争と冷戦イデオロギー ―

三牧 史奈(熊本県立大学(院))

 ヴェトナム戦争は米国史上最悪の戦争として米国民の意識に深い傷跡を残した。この忌まわしい記憶に対峙しようとする作家達の懸命な取り組みの結果、1970年代以降の米文学史に「ヴェトナム戦争文学」という新しいジャンルが確立することとなった。ヴェトナム戦争文学研究の先駆者Philip Biedlerは、作家達はヴェトナム戦争文学としての独自のアイデンティティを構築しようと、証言やルポルタージュをはじめ、小説、実験小説、詩集、劇等の様々な手法によるアプローチを行っていたことを指摘する。帰還兵出身の作家として特に1980年以降に高い知名度を得たTim O’Brienは、これらの作家達の中でもその実験的手法によりとりわけ多くの関心を集めてきた作家だが、処女作の自伝的小説If I Die in a Combat Zone (1973)には、その手法の原点ともいえる二つの要素を認めることができる。
 まず、事実と虚構とが混交する語りの技巧である。O’Brien自身は本作品を純粋な自伝として手掛けたと公言したが、ナラティヴには多彩な技巧が駆使されていたため、当初、出版社や批評家達はこの作品の分類に頭を悩ませた。例えば、1979年のLaurel Editionにはフィクションとして“FIC”が表記されたが、1987年版にはノンフィクションの意の“NF”と記載された。批評家の中には、この作風をTruman Capote以降のニュージャーナリズムと同一視するものもある。内容についても、主人公がヴェトナム戦争を善悪や勇敢さなどを実践的に定義する場として(比喩的に)描写し、多くの批評家の関心を集めた。このことはStefania Ciociaが本作品の主題はヴェトナム戦争体験ではなく、勇敢さの探求であると述べたことにも明らかである。
 しかしながら、これまでの批評における、個人的体験としてのヴェトナム戦争解釈は、本作品の多義性を十分に考慮しているとは言い難い。まずなにより、主人公が不正義と確信している戦争に不本意ながらも従軍している点が抜け落ちている。このジレンマこそ彼のその後の戦争体験をより複雑で困難なものにしており、作品の原動力ともなっていることをこれまでの研究は見過ごしてきたのである。本発表では、If I Die in a Combat Zoneの主人公Tim O’Brienが享受した社会的文化的背景を考慮に入れ、従軍する決心に至るまでの過程を冷戦初期アメリカにおける社会不安と関連付けて論じる。本発表の狙いは、O’Brien作品解釈をヴェトナム戦争理解という限定された枠組みから、冷戦社会文化の理解という、更に広い文脈へと展開させることである。

⑤ 「希望や愛や信頼を若い頃に学ばなかった者に哀れみを」―Joseph Conrad, VictoryにおけるHeystを「笑う」ための戦略」

田中 和也(佛教大学講師)

 Joseph Conrad(1857-1924)は1895年より小説家として活躍したが、イギリス小説の「偉大な伝統」の一翼を担うと評価されてきた。だが、彼の作品でもChance(1913)以降の後期作品では才能の衰退が見られると、Thomas MoserやAlbert J. Guerardなどの大御所から批判されてきた。その衰退の理由として、主に二つの点が主張されている。まず語りの技法で、後期作品は前期作品と比べると稚拙になった。次に、内容の観点からも、後期作品は平板だとされる。Conradは恋愛や女性の描写が不得手だとされがちであったが、それらの要素は後期作品では前面に出されていると指摘されてきた。
 こうした伝統的評価はVictory(1915)への評価にも大きな影響を与えている。例えば、語りの面では、一人称の語り手が小説序盤に出ているのに、中盤からは突如姿を消して三人称の語りに移行するという点が注目されてきた。内容面では、この小説では主人公Axel HeystとヒロインLenaとの恋愛が中盤からの主な題材である点に関心が払われてきた。その結果、VictoryはConrad作品でも最も評価の分かれた作品と見なされることもある。
 こうした批評史を踏まえつつ、本論では、Victoryは実は巧みな語りの手法を持ち、それゆえに主人公Axel Heyst の人物像を括弧に入れることができていると主張したい。その際には、上述の批判二点が実は鍵であることを考察する。一点目の語りの手法については、一人称の語り手が姿を消すことも一因となって、人物間の視点の違いや人物間の共通性を浮き彫りにすると解釈できる。二点目の内容面については、語りの技法と相まって、Heystの“detachment”好みの不可能性があぶりだされると解することができる。その際、Lenaが果たす役割や、冒険小説の伝統とこの小説との比較も考慮に入れたい。これら二点がゆえに、VictoryはHeystの偏狭な人物のあり方を巧みかつ軽妙に描いていると意味づけられる。

⑥ 犬の言葉と犬の苦しみ―町田康『ホサナ』(2017)論

大桃 陶子(藤女子大学准教授)

 町田康の長編小説『ホサナ』は、都合の悪いことを見て見ぬふりをして「なかったことにする」という人間の罪によって、光の柱が現れ、空間を捻じ曲げ世界を一変させ、最終的には終末が訪れることが暗示されるという宗教的色合いの濃い作品である。この光の柱は、汚れが凝り固まったような存在である船木禱子が開いた愛犬家が集うバーベキューパーティの場に初めて出現する。興味深いのは、語り手である「私」が、「ないことにされた」犬の苦しみについての正しい理解を広く世の中に知らしめるはずの犬の保護運動に関わることによって、事態が悪化の一途をたどる点である。ここには、人間の偽善とその犠牲者となる存在の関係性を徹底的に問い直そうという作者の姿勢が見て取れる。
 重要と思われるのは、船木禱子とその娘草子が中心となって立ち上げた犬の保護団体に、「私」が運営資金として嫌々400万円を振り込んだ直後に「私の犬」と言葉を交わすことができるようになるという点である。「私の犬」はその後、自身を媒介として「私」が他の犬たちの言葉を理解できるよう仕向ける。「私の犬」の変化はとどまることを知らず、人間のように言葉を発し、銃を発射し、ついには「私」と「私の犬」の区別がつかなくなる。最終的に「私」は「私の犬」の眼を通じて、「私」が別の犬にかみ殺される光景を目撃する。
 文学において動物が言語を操って人間と意思の疎通を図ることは、決して珍しくない。本発表では、『ホサナ』において犬が言語を解するということにはどのような意味があるのかということを、セルバンテスの「犬の対話」やホフマンの『犬のベルガンザの運命にまつわる最新情報』等の同じくしゃべる犬が登場する文学作品、および町田康の飼い犬が語り手となり、主人である作家「ポチ」の家での暮らしぶりを語る<スピンク>シリーズとの比較を通じて探っていきたい。

⑦ 読書するヒロイン ―メアリー・シェリーの『マチルダ』を中心に―

中島 正太(徳島文理大学准教授)

 19世紀初期のイギリスにおいては、前世紀に勃興した小説というジャンルが発展する一方で、トロッター(1807)の論考に代表されるように、それを「読む」という行為が若い人々、とくに女性に対しては「危険」であるとして懸念を示す意見が少なからず見受けられた。ジェイン・オースティンをはじめとする女性作家の多くが匿名、もしくは変名で作品を発表していたこともこのような見方と無関係ではないだろう。
 そのような時代背景をふまえてメアリー・シェリーの『マチルダ』(1860)を読んでみると、まず目を引くのはペーパーバック版で100ページ程度の物語の中に、当時の古典(ダンテなど)から同時代の作品(ワーズワースなど)まで、実に多くの文学作品が引用されていることである。これはつまり、作品のタイトルにもなっているヒロインが幼少期から読書好きとして描写されていることになるが、上記のような時代背景を考慮すると、道ならぬ恋に翻弄されたマチルダを襲う不幸な結末が、あたかも読書という「危険行為」に走った彼女を叱責しているようにすら感じられる。この「道をはずす読書好きヒロイン」というモチーフはじつは、フローベールの『ボヴァリー夫人』(1856)やジョージ・エリオット『フロス河の水車場』(1860)にも受け継がれており、とくに後者ではさまざまな古典および同時代作品が引用されているところに『マチルダ』との類似性を感じさせる。
 読書を「危険」と見なす意見もあった時代に、メアリー・シェリーがあえて本好きの少女をヒロイン、かつ語り手に設定した意図は何だったのだろうか。本作における文学作品の引用を伝記的な側面から分析したラジャン(1994)やアレン(1997)の先行研究をふまえ、本発表では『マチルダ』を「読書するヒロイン」の小説として、先述の『ボヴァリー夫人』や『フロス河の水車場』などと比較しつつ再検証してみたい。

⑧「隠蔽か合一か ―『贖罪』における《テクストを読む行為》の重ね塗りの倫理―y」

宮原 一成(山口大学教授)

 英国人作家Ian McEwanが2001年に発表した長編小説Atonementの第1部では、手紙というテクストを書きそして読む行為についての詳しい描写があるのだが、読む行為に関して言うと、これは言わば重ね塗りを施されたような書かれ方になっている。本発表はその重ね塗りに注目し、小説のテーマとされる《贖罪atonement》の実効性を検証するうえで重要になりそうな材料を、新しく提供することを目指したい。
 この小説は、1999年の時点で77歳を迎える高名な小説家Briony Tallisが、自分が13歳の頃にしでかした冤罪事件の罪滅ぼしをするため書き綴ったもの、という設定になっている。ブライオニー自身が小説第3部末尾と終章で明かしたところによれば、第1部は事件の真の経緯を小説形式で記録したテクストである。彼女は、ある手紙を盗み読んだことがきっかけでRobbie Turnerという若者を誤って告発し、その結果彼に、強姦犯の汚名を負ったままダンケルクで戦死するという運命を背負わせてしまった。第1部は、問題の私信がどのように書かれ、それがブライオニーにどのように読まれることになったのかを彼女が丹念にたどった結果である。そしてここには、自分が書いたばかりのテクストを第一読者として点検するロビーの姿に、13歳時に彼の手紙を目にしたときとは違った読み方をするようになったブライオニー自身の姿を重ねよう、という意図の痕跡が見られるのだ。
 ブライオニーの執筆行為を有効な贖罪と見なせるかどうかについては賛否両論ある。じっさい小説第3部を書く際に彼女が敢行したいくつかの事実粉飾は、読む者の心象を悪くするものだし、第1部にしても、ロビーの心理まで開陳してみせるというのは越権行為、悪く言えば捏造ではある。しかし一方でこれを、読み行為を通して被害者と一体化すること(at-one-ment)を目指す誠意の《贖罪》行動、と読むことも可能ではないだろうか。

◇シンポジアム要旨
テーマ: テクスト,グラフ,マッピング ―テクストの可視化とデジタル・ヒューマニティーズ―

司会・講師:鈴木 章能(長崎大学教授)
講師:山根 亮一(東京工業大学准教授)
講師:鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

司会:鈴木 章能(長崎大学教授)

 「よい地図は千の言葉に値する」.フランコ・モレッティが紹介する地図製作者の言葉である.モレッティはこの言葉に賛意を示し,Atlas of the European Novel 1800-1900ほかで,マッピングやグラフを用いた研究成果を発表してきた.もっとも,マッピングやグラフを用いる文学研究は,モレッティの専売特許ではない.いわゆるデジタル時代に入り,欧米諸国やアジアの研究者および研究機関が,ギリシア古典劇から現代の小説や詩にいたるまで,様々な地域・時代・ジャンルの文学テクストのマッピングならびにグラフ化のプロジェクトを精力的に進めてきた.いまでは専門のジャーナルが発行され,2016年にはRoutledgeからLiterary Mapping in the Digital Ageという研究書も出版された.
 こうした研究は,主にコンピュータソフトやGoogle Map,Google Earthなどを用いるために,デジタル・ヒューマニティーズとも呼ばれる.もっとも,テクスト分析をコンピュータにもっぱら任せることもあれば(デジタル),テクストを字義通りに読んで地図やグラフを作成することもある(アナログ+デジタル).
 文学テクストから地図やグラフを作成する目的,ならびに作成される地図やグラフの種類は様々であるが,その共通点は,テクストの「可視化」にあると言えよう.主観を通さぬ「可視化」,膨大な量のデータの「可視化」,複雑な構造をもったテクストの「可視化」などによって,思いもかけないテクストの真実 ―テクスト同士の関係性,テクストの流通をはじめとする様々な事象,テクスト内の語りの状況,アダプテートされたテクストの引越し”の目的,隠れた歴史ほか― が現れる.
 本シンポジアムでは,現在進行中のプロジェクト例やいくつかの事例,具体的なテクスト分析を示しながら,マッピングやグラフを用いたテクストの可視化の方法,目的,効用,意義について話し,考えてみたい.

アメリカ南部のオルタナティヴ ―シムズ,ポー,フォークナーのデジタル・アーカイヴ―

山根 亮一(東京工業大学准教授)

 アメリカ南部例外主義の問題が,Michael P. BiblerやVeronica Macowskyらによって再提示されたのはごく最近のことだ.アメリカ南部には独特の文化と歴史があるという地域主義が,一方で南部人の偏狭なナルシシズムを,他方では南部人に対する差別意識を醸成してきた.前者の問題を解決するため,今世紀には新南部研究が勃興し,オープンで多種多様な南部像,いわば複数形のサウススが構築された.後者の問題は,南部を研究するということがその研究者のキャリアに悪影響を及ぼすという実際的な問題として,現在のアメリカ学術業界にとりついている.いずれにせよ,アメリカ南部をまとまった文化的総体として語ることがもはや困難となり,ビブラー,マカウスキーらは共通してこのことを嘆いている.
 アメリカ南部例外主義の問題に苛まれる現在,これまで以上に同地域の文化的アイデンティティーは揺らいでいる.そして,この揺らぎは研究者にとって必ずしも都合の良いものだとは捉えられていない.こうしてヴィジョンを失いつつある現在の南部(文学)研究の問題に取り組むため,本発表では,William Gilmore Simms, Edgar Allan Poe, そしてWilliam Faulknerという3人の代表的な南部作家たちのデジタル・アーカイヴの在り様を吟味しながら,どのようにアメリカ南部がインターネット上でマッピングされているかを例証する.世界中どこからでもアクセス可能なデジタル・アーカイヴ内の資料や作品は,ほぼ無制限の知の連結や蓄積を表象するかのように見える.そうだとすれば,現在のアメリカ南部像の輪郭,境界は,どのように成立し得るのだろうか?もしその境界が規定可能だとすれば,その主体は,作品,作家,研究者,あるいはウェブサイト運営者だろうか?こうした問いを通じて,デジタル・ヒューマニティーズがいかに今後のアメリカ南部研究のアプローチに影響を及ぼし得るかを考察することが,本発表の最終的な目的である.

Google Mapエラーの効用 ―エリック・ファーユのNagasaki

鈴木 章能(長崎大学教授)

 文学テクストのマッピングに用いられる代表的なツールの一つにGoogle Mapがある.Google Mapはときどき不正確な情報を表示するため,信頼度に難があると言われる.だが,作家もまたGoogle Mapを用いて小説を書いているとすれば,Google Mapエラーこそがテクストの謎を解く鍵となることがある.本発表では,Google Mapエラーを重視した,いささか変わったマッピングを扱う.扱うテクストは,フランスの作家エリック・ファーユのNagasakiである.Nagasakiは,福岡で起こった実際の事件に基づいた,長崎を舞台とする短編小説である.福岡を舞台とする話をわざわざ長崎を舞台とする物語にした限り,作者は長崎の地理に注目して,福岡の話をアダプテートしたと言える.たしかに,Nagasakiでは,その冒頭から,長崎市内の風景が,市内を移動する主人公の目を通して細かく描写される.主人公の移動の跡を地図にすると,彼が故意に避けている場所があることに気づく.さらに,Google Mapエラーが主人公の自宅の場所を突き止める鍵となる.それらの場所が長崎を舞台にした理由に直結する.

「『虹』の物語 →<グラフ化・マッピング>← 西洋哲学史」

鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

 D・H・ロレンスにとって哲学が,自身の文学を成立させるために不可欠なものであることは,本人が言明するところである.彼の哲学の成熟期に書かれた最初の小説とされる『虹』には,数百年にわたってブラングウェン家に代々受け継がれる,真の愛や人間としての在り方を求める戦いの物語が記録されている.ではロレンスがそのような長い年月にわたる物語を『虹』に描き出したという事実と,その小説が彼の哲学的発展において最も重要であるとされる作品の一つであるということが,どのように関係するのか.本発表ではこの問いに対する一つの答えを,物語に描かれている主要な出来事を時系列に並べて可視化(グラフ化)し,その物語とほぼ同時期に展開された西洋哲学史と対応付けすること(マッピング)によって,さらには,『虹』という作品=物語言説(テクスト)に当該の哲学者たちの異なる言説(テクスト)を取り込み関連づけること(インポート=マッピング)によって導き出すことを試みる.

 

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