テクスト研究学会

Japan Society of Text Studies

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テクスト研究学会第23回大会プログラム

※プログラムのPDF版はこちらからご覧になることができます。 

日時:2023(令和5)年8月25日(金)10時00分~17時45分(受付 9:30から)
会場:京都女子大学 Y校舎2階 Y201教室(控室:Y202教室)

〒605-8501 京都市東山区今熊野北日吉町35   Tel. 075-531-7030(代)
アクセス:京阪「清水五条」駅・「七条」駅から徒歩約15分。
    JR・近鉄「京都」駅から京都市バス(206)で「馬町」下車、徒歩5分。
    阪急「京都河原町」駅から京都市バス(207)で「馬町」下車、徒歩5分。
    プリンセスライン(https://princessline.jp/princesslinebus/)も出ています。
    ※Y校舎は、幾分奥まった場所にありますので、ご注意ください。

 
受  付:9:30~ (Y201教室付近で)
開会の辞:10:00~ (Y201教室)・・・・・ 井上 義夫(会長・一橋大学名誉教授)
◇研究発表:第一部(Y201教室)➀~③ 10:10~12:15(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

①の司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)

① 10:10~ 「二重フレームのカウボーイ―『捜索者』におけるモニュメント・バレー―」

潘 雷(関西学院大学大学院生)

  
②と⑨の司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

② 10:40~ 「自己同一性の獲得―「透明的性格」にみるウォルター・ペイターの時空間論―」

虹林 桜(京都大学ティーチングアシスタント)


③と⑤の司会:宮原一成(関西学院大学教授)

③ 11:15~ 「Ali Smith のHow to be Bothにおける語りと構造のダイナミズム」

中谷 紘子(武庫川女子大学非常勤講師)


④と⑥の司会:鈴木章能(長崎大学教授)

④ 11:45~ 「An Artist of the Floating World に見る「浮世」を生きる術 (Art)」

平野 牧子(大阪女学院大学非常勤講師)


 休憩(12:15~13:15)


◇研究発表:第二部(Y201教室)⑤~⑨13:15~15:55(各発表時間:20分、質疑応答:10分)
  

⑤ 13:15~ 「不真面目な二人組―マグナス・ミルズThe Restraint of Beastsの疑似カップルについて―」

戸丸 優作(江戸川大学国際交流センター助教)


⑥ 13:45~ 「シャーロット・チャークと戦略としての異性装」    

廣田 美玲(獨協医科大学専任講師)


⑦と⑧司会:井上義夫(一橋大学名誉教授)

⑦ 14:20~ 「独裁者をいかに描くか―ジョージ・スタイナーの小説における二つの演説―」   

奥畑 豊(日本女子大学准教授)


⑧ 14:50~ 「『恋する女たち』におけるロレンスのひるみ―バーキンの特異なビジョンへの確信の欠如とその余波への対処策―」      

高畑 悠介(埼玉大学准教授)


⑨ 15:25~ 「ロラン・バルトは作者に死を宣告したのか―現代テクスト理論の意義を再検討するための問い―」  

鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

  休憩(15:55~16:10)


◇特別講演 16:10~17:25(Y201教室(講師の紹介:2分、講演:60分、質疑応答:13分)

司会:鴨川啓信(京都女子大学教授)

  16:10~17:25 特別講演:「ミュージシャンを目指すある青年の苦悩―カズオ・イシグロの草稿調査から―」

講師:荘中孝之(京都女子大学教授) 

総  会 17:30~17:40(Y201教室
閉会の辞 17:40~(Y201教室)・・・・・・・ 玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)

※研究発表者・大会参加者の控室としては、Y202教室をご利用ください。
※昼食については、夏季休暇中につき学内の食堂は開いておりませんので、ご自身でご用意ください。
※問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(E-mail: textstudies1[数字の1]@2525.zaq.jp)


【発表要旨】
◇研究発表要旨
①二重フレームのカウボーイ―『捜索者』におけるモニュメント・バレー―

潘 雷(関西学院大学大学院生)
  

 ジョン・フォードの西部劇を語るとき、「モニュメント・バレー」というアメリカ西部を代表する風景についての議論は看過すべきではない。そこではフォード西部劇の特徴であるロングショットが多用され、風景が十全に描かれ、人物と外部環境への葛藤が強調される。映画の風景は、単なる視覚的なスペクタクルとして存在しない。その裏には物語、登場人物との相互関係、さらに政治的、イデオロギー的なメッセージが潜んでいる。フォード西部劇のなかで量産されたモニュメント・バレーのイメージは、その風景がアメリカ西部とイコールであるという錯覚を起こさせる。例えば、スクリーンに映し出された巨大なメサは、西部の英雄伝説を語ると同時に、その土地の神話性と国家の優越性をメタフォリカルに示すだろう。
 しかしながら、1956年に公開された『捜索者』(The Searchers,1956)では、それまでの風景イメージが反転する。主人公はインディアンに誘拐された姪を救出するために、捜索の旅に出る。だが、数年間に及ぶ旅の途上、彼の背後にはつねにモニュメント・バレーが現れ、まるで彼自身がその風景に囚われているように描かれる。『捜索者』では従来の英雄伝説が変質し、モニュメント・バレーが単純な西部的な風景として現れるのではなく、主人公の心象風景と同一化する。ならば、その風景はいかに主人公の心象風景と接続するのだろうか。さらに、その風景の裏にはどのような時代的なメッセージが潜んでいるのか。そこで、本発表では、第二次世界大戦末期から冷戦初期までの歴史的なコンテクストを踏まえ、『捜索者』における二重のフレーム、つまり「男を閉じ込める」モニュメント・バレーを分析する。風景と映画がどのように結びつくのかを考察したい。


②自己同一性の獲得―「透明的性格」にみるウォルター・ペイターの時空間論―

虹林 桜(京都大学ティーチングアシスタント)

 
 本発表は、ペイターの美学における時間の基本的概念がその作品、「透明的性格」(“Diaphaneitè”)においてどのように表されているかについて考察するものである。「透明的人格」はペイター独自の自伝的ジャンルである「想像の肖像」 (imaginary portrait) の原型ともいわれており、ペイターの自己に関する考察についても知見を与えるものである。本発表では『ルネサンス』(The Renaissance)などの他作品も参照しつつ、「透明的性格」を以下の通り分析、考察する。第一に、ペイターのいう「透明な性格」 (diaphanous character)を達成するための必要条件を提示し、この性格の達成がどのような意義を持っていたかについてテクスト分析により考察する。そして「透明な性格」はペイターにとって、瞬間ごとの印象によって形成される異なる複数の自己の統一を可能にすることを示す。第二に、ペイターにおける自己の概念が彼の主観的な時間の概念と独自の密接な関連性を有していることを論じる。そのために、ペイターが瞬間ごとの感性に従って、かつての自己を外側から観察するもう一人の自己を作り上げる過程を詳細に分析、考察する。そして、ペイターにとって、ある瞬間に焦点をあてることにより分裂した自己は回想によって統一されるということを示す。
 結論として、ペイターにとって時間と自己について省察することは、その都度存在しうる複数の自己を共存させることであり、この意味において独特の自己同一性を指向していることを論じる。ペイターにとって過去は自伝的記憶の回想を通じて現在と接触を持ち、一つの自己のうちに空間的に顕現することを『ルネサンス』の「結論」における時間の概念を参照しつつ示すことで、ペイターの自己同一性に時間の概念が必然的に内包されていることを証明する。


③Ali Smith のHow to be Bothにおける語りと構造のダイナミズム

中谷 紘子(武庫川女子大学非常勤講師)

 
 2014年のThe Goldsmiths Prizeを受賞した英国現代小説家Ali Smith(1962-)のHow to be Both (2014) は、遊び心に溢れた筆致と、その実験性が讃えられている。例えばDaniel Lea が指摘するSmith作品に共通して見られる“but-ness”, “alternative perspective”, “conjunctional”(Twenty-first- century Fiction, 2017, pp. 26-28) 等の要素はもちろん健在で、一方に決めつけることに対する疑問や、生と死、男と女、過去と現在などの共存が、登場人物の会話によって直接/間接的に示唆されている。時系列で語られない同作品は、共に「第一部」と記される二部構成をとり、一方には「目」の図案が添えられ、イタリア・ルネサンス期に実在したフレスコ画家Francesco del Cossaの魂が現代に降り立ったという設定で、その目を通して一人称の物語が語られる。他方「カメラ」の図案のある章では、21世紀を生きる16歳の主人公Georgiaが母の急死と向き合う姿が描かれる。両物語は一見すると各々完結した短編小説のようだが、間テクスト性があり、Francescoは、Georgiaが母と共にイタリアで作品を鑑賞した画家であると理解できる等々、相互参照的に読める。さらに英国では両パートを入れ替えた2つの版が無作為に販売され、読者の読書体験を前提とした作品であるとわかる。
 上記のことから、同作品の読解上のポイントの一つが、2つのパートの関係性の捉え方にあると言えるが、本論では、両パートの語り手を共にGeorgiaであると解釈する。つまり「目」のパートはGeorgiaの創作物であり、「カメラ」の方は、Georgiaが自らを3人称で書いていて、彼女は語ることで癒しと成長のプロセスを達成していると考える。注目するのは視点の問題で、Georgiaの視点、母の視点、そしてFrancescoの視点を語りによってGeorgiaが手に入れようとしていることである。この際、語ることでGeorgiaはこれらの視点への異化と同化の両方を試みているという事が重要であると考える。見ること、つまり“どのように”見るかを提示する作品として捉える論考はいくつか見られる(e.g. Dilara Önen, “Constructing Reality”) ものの、これらは自らを客体化する(見られる)ことに重点は置かれていないようだ。本論ではこの点に着目しながら、Georgiaが語り直しによって視点を獲得していく様を、語りの技法として分析し、最終的にテクスト上でどのように集約されているかを明らかにしたい。


An Artist of the Floating World に見る「浮世」を生きる術 (Art)

平野 牧子(大阪女学院大学非常勤講師)

  
 Kazuo Ishiguroの長編第二作An Artist of the Floating Worldの語り手Onoは、戦前戦中に画業で功を成した自負を抱きながら戦後を生きる老画家である。社会的地位など意に介さない風を装いながらも、自身の功績を誇示せずにはいられないOnoが語るのは、親の反対を押し切り画家になり、さらに師と決別し戦争画家になることで、社会的地位と影響力を得るに至った自身の姿である。多くの先行研究は、彼を野心的で信念を貫く人物と捉えているが、本発表は、テクストの語用論的分析を通して従来のOno像を再検討し、彼の本来の気質は「野心」や「信念」とは程遠く、しかしそれが戦後の「浮世」を生きる術として作用していることを提示する。
 Ishiguroは“parochial perspective”を本作の語りに展開させようとしたと述べているが、確かにテクストからは、事物の本質を捉えられず、自負心や利己に関わるものに影響されやすいOnoの姿が立ち昇る。彼は決して強い意志を持ち自発的に行動するのではなく、むしろ他者の影響によって「押し流される」のである。Onoが画業の道へ進んだのも、絵に対する強い思いからではなく、彼の自負心を傷つけた父への反発の結果であり、戦争画家に転身したことも、その本質を見極めた上での決断ではなく、一目置く人物に自負心を刺激され、そして師匠に反発した結果だったと言える。そしてOnoが過去を回想するに至ったのも、平穏な老後という利己を左右する長女に促されてのことであった。“parochial perspective”は概して否定的に捉えられるが、そのような視野の持ち主であるOnoは、自身に向けられる辛辣な非難にさえ押しつぶされない。潮目がいつ変わるとも知れない「浮世」で生き続けるための術を、Ishiguroがいかに描いているのかを、Onoの姿を通して考察する。


⑤不真面目な二人組―マグナス・ミルズThe Restraint of Beastsの疑似カップルについて―

戸丸 優作(江戸川大学国際交流センター助教)

 本発表はイギリスの作家マグナス・ミルズの1999年にブッカー賞最終候補となったデビュー作The Restraint of Beasts (1998)〔邦訳『フェンス』(2000)〕に登場するタムとリッチーという不思議な二人組を主な分析対象とする。この作品はフェンスを建てる仕事に従事する一人称の語り手兼主人公がタムとリッチーの二人とチームを組み、様々な現場で起こる奇妙な出来事に翻弄される様を描いている。些細なことで次々と死者が出るが、主人公たちはまるで何ごともなかったかのように死者を埋葬し、作業を続ける。このような筋書きから、多くの評者によってカフカ的悲喜劇と捉えられているが、本作品はある種の幻想小説としても読める。この作品に幻想的性格を付与している要素の一つとして、タムとリッチーが二人で一人のようなあり方をしている点を挙げることができる。フレドリック・ジェイムソンは物語作品に登場するこのような二人組を疑似カップルと名づけ、後期資本主義社会との関わりを論じている。また、ミルズ作品の喜劇的要素について考察したヒュー・マーシュはミルズ作品の反復性に着目している。本発表ではジェイムソンやマーシュの議論を援用しながら、他の疑似カップル(フローベール『ブヴァールとペキュシェ』のブヴァールとペキュシェ、ベケット『ゴドーを待ちながら』のヴラジーミルとエストラゴンなど)とミルズの二人組とを比較し、ミルズ作品における疑似カップルの特徴を析出する。その上で、疑似カップルの形象と労働・怠惰の主題との接続を図る。タムとリッチーの二人組はうだつの上がらない作業員として語り手兼主人公の監督下にあるが、なかなか言うことを聞かない。彼らが労働に対して示している態度を検討することを通じて、ミルズ作品に見られる現代の疑似カップルが表現している労働・怠惰についての思考を浮かび上がらせたいと考えている。

⑥シャーロット・チャークと戦略としての異性装

廣田 美玲(獨協医科大学専任講師)

 ヨーロッパにおいて17・18世紀は、女性の異性装の事例が増えてきた時代である。ルドルフ・M・デッカーとロッテ・C・ファン・ドゥ・ポルの共著『兵士になった女性たち―近世ヨーロッパにおける異性装の伝統』では、当時の女性が男装をする動機として、ロマンティックな動機(夫や恋人と離れることを嫌い男装して共に生きること)、愛国的な動機(戦時に兵士として母国を救うこと)、経済的な動機(貧困から逃れるため、男性のものとみなされていた職業である兵士や水夫に男装をして就いたこと)の3つを挙げている。これらの動機は、イギリスにおける女性の異性装研究が主に女性兵士や女性水夫の研究から始まっていることと呼応している。例えば、ハンナ・スネル(1723-1792)のように軍服を身にまとい軍隊へ入隊したり、アン・ボニー(1698–1782)やメアリ・リード(1695–1721)のように海賊として名を馳せた男装の女性も存在したりした。また、演劇においても女性の異性装はよく見られる現象であった。スティーヴン・オーゲルは、近代初期イギリスのシェイクスピア演劇における少年俳優が女性役を演じる女装を掘り下げたが、17世紀末頃に女優が登場すると、女性役は少年俳優に代わり女優が演じるようになった。さらに18世紀を通して、女優が異性装をして‘breeches role’(半ズボン役)を演じ人気を博していた。
 このような女性の異性装に関する社会的・文化的な背景がある中、本発表はシャーロット・チャーク(1713-1760)に着目する。チャークは、当時著名な俳優兼脚本家のコリー・シバー(1671-1757)の末娘であり、彼女も父同様、舞台に立つことを生業としていた。チャークは舞台上でも私生活でも男装をしていたことで有名であり、自身の回想録『シャーロット・チャーク夫人の生涯の物語』は出版年に第2版が刊行される程の成功を収めた。本発表では、当回想録や当時の女性の異性装の言説を手掛かりに、チャークにとっての異性装の意味を明らかにしていきたい。

⑦独裁者をいかに描くか―ジョージ・スタイナーの小説における二つの演説―

奥畑 豊(日本女子大学准教授)

 アドルフ・ヒトラーやヨシフ・スターリンからポストコロニアル地域の軍人指導者に至る「独裁者」たちをフィクションの中でどのように描くべきかという難問について、これまで多くの創作者たちが頭を悩ませてきた。しかしながら、独裁者たちが現実世界に生きる脅威であり、実際に数えきれない人々を死に追いやり、弾圧してきたという事実を鑑みるならば、フィクションという枠組みの中で彼らを表象するに当たって一種の慎重な手続きが要求されることは言うまでもない。それは実在の指導者を作中に登場させたり、或いは間接的にモデルにしたりする独裁者小説においてはなおさらである。
 そこで本発表では、独裁者をフィクションの中で単に取るに足らない平凡な一個人として貶める「矮小化」の手法と、逆に彼らを比類なき巨悪の象徴(もしくはダーク・ヒーロー)とみなす「特権化」の手法に着目する。もちろんこれら両極端な方向性は一つの作品内に共存している場合も多いが、そこでは平凡さと異常さの間で引き裂かれた独裁者像がしばしば理解不能な巨大な謎として放置されている。それに対して、ユダヤ系批評家ジョージ・スタイナーによる小説『ヒトラーの弁明――サンクリストバルへのA・Hの移送』(The Portage to San Cristobal of A.H., 1981)は、独裁者を矮小化することと特権化することの両方が孕む問題点やジレンマそれ自体を物語化したテクストとして読むことができる。この小説はかつてヒトラーやホロコーストを矮小化する書物として糾弾されたが、実はそこには特権化の方法論も同じく織り込まれている。そこで本発表では、矮小化と特権化の両方の作用や限界について詳述した上で、スタイナーの小説に登場する二つの重要な演説に着目する。ここではこの二つの相反する演説が織りなすポリフォニックな響きを解き明かすことで、本作を新たな視点から読み直してみたい。


⑧ 『恋する女たち』におけるロレンスのひるみ―バーキンの特異なビジョンへの確信の欠如とその余波への対処策―

高畑 悠介(埼玉大学准教授)

 本発表は、D.H.ロレンスの『恋する女たち』の中核を成す男女の理想の結合についてのバーキンの特異な哲学的ビジョンに焦点を当て、その内実と作品内での位置づけについて新たな読みを提示するものである。「性愛の伝道者」ロレンスの文学的最高峰たる本作の中核に位置していながら、バーキンが当初唱える男女の理想的結合についての哲学が実質的にセックスを排除したものとなっているという驚くべき事実は、それと相反する記述が作中に多く現れていることも手伝い、ごく少数の批評家を除いてこれまで明確に認識されてこなかった。バーキンのこの当初の特異なビジョンこそがロレンスが本作で本来提示したかったものであると見た上で、本発表は、それがアーシュラからの修正的働きかけを受けて、肉体的性愛を通じた超越性の達成という、ロレンス文学の基準では月並みとも言い得るビジョンに退行していく様子を確認した上で、そのような本作の「ブレ」を、セックスを排除したバーキンの当初の特異な哲学的ビジョンの妥当性や説得性について確信を持ち切れなかった作者ロレンスの「ひるみ」がもたらしたものと解釈する。その上で、作品後半でバーキンの肉体的・性的なポテンシャルが幾分不自然な形で強調されている点や、第20章の柔道の場面でバーキンがジェラルドに対して男性として優位性を発揮する段取りがやはり不自然に組まれている点が、先述の作者の確信の欠如から来る「ブレ」によりキャラクターとしての強度を損なわれたバーキンへの一種の小説的補償行為として解釈できるということを論じる。さらに、ロレンス文学のバフチン的対話性の表れと通例みなされる、バーキンの思想が他キャラクターからの批判や嘲笑に頻繁に晒される本作の作りが、作者の余裕や懐の深さを示すものとしてではなく、むしろ、バーキンの型破りなビジョンの妥当性や説得性への確信を欠いていた作者が、読者からの批判や嘲笑、無理解の機先を制する目的でいわば防衛的に生み出したものとして理解し得ることを論じる。

⑨ロラン・バルトは作者に死を宣告したのか―現代テクスト理論の意義を再検討するための問い―

鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

 ロラン・バルトの評論「作者の死」の最後の一文 “la naissance du lecteur doit se payer de la mort de l’Auteur” の邦訳「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならない」(花輪光訳)に基づけば、当該評論において「作者」はバルトによって死を宣告され、その代償として読者が誕生したという解釈を導くことが可能となる。現にこのような解釈を提示しているバルトの理論解説は日本において少なくない。しかし上の解釈では、「作者」という術語に対するバルトの考えを適切に理解することはできない。バルトが考える「作者」とは何かという問いに改めて向き合う際、我々は「作者の死」という彼独特の用語を、特に第二次大戦後の国際社会の動向と、それにともなって発展してきた文学批評との不可分な関係において捉える必要がある。この考えとともに明らかとなるのは、バルトが作者=支配/読者=被支配の構造を転覆しようと試みたわけではないこと、さらに言えば、「作者の死」という語によってバルトは、作者/読者の関係を相互排他的な「あれか/これか」の二項対立関係として捉えてすらいないということである。
 本発表では、上記の問題提起とともに、現代において読むことの重要性を明示する一つの有用な手段としての「作者の死」および「読者の誕生」に対するバルトの概念を改めて考え直す。さらにこの再考をもとにバルト特有の「作者の死」と不可分に関係する(これもまた彼独特の)「テクスト」の概念を捉えることによって、現代テクスト理論が単に旧来の文学批評を否定して「作者」という概念に死を宣告するための道具ではないことを改めて確認する。上記の作業を通じて、現代テクスト理論の出現が、旧来の価値観や常識が揺さぶられ解体される事態が次々と引き起こされる社会において必然的に起こった出来事であることを強調し、「読む」ことが人の生死にますます関わりを深める現代においてこそ「テクスト」の概念を適切に理解し考える必要があることを主張したい。

◇特別講演要旨
ミュージシャンを目指すある青年の苦悩―カズオ・イシグロの草稿調査から―

荘中 孝之(京都女子大学教授)

 カズオ・イシグロが若いころ、ミュージシャンを目指して作詞・作曲に励んでいたことはよく知られている。あるインタヴューでは、一番なりたかったのはシンガーソングライターで、なれなかったから作家になったと語っているほどである。しかしこれまでそのごく一部を除いて、彼が当時作った曲が公表されることはなかったため、この時期のイシグロの創作活動を本格的な考察の対象とする研究はなかった。しかし今我々が、テキサス大学オースティン校のハリー・ランサム・センターに収められた彼の膨大な創作ノートや草稿群の中に、若きイシグロが書いた歌詞の数々を発見する時、そこには一人の文学青年の苦闘ともいうべき生々しい姿が浮かび上がってくるのである。そしてイシグロ自身が、“I served my creative apprenticeship for writing through the form of songs”と語っているように、この時代は後年の作家イシグロを形成する非常に重要なものだったのである。それは両親に連れられて日本からイギリスに渡ってきた一人の少年が、ミュージシャンに憧れて英語で作詞・作曲を始め、苦悩し、挫折するという物語であり、そこからさらに模索しながら文芸創作の道へ分け入っていくという行路でもある。またそれは、一見難なくイギリス文壇に登場したようにも考えられてきたこの作家が、なるべくして作家になったと思わせるような、厳しい自己鍛錬の時間を打刻するものである。
 本講演では、今年の3月に同センターにて初期の資料を中心に調査を行った成果をもとに、イシグロが作詞から創作を始めたことの意味や、彼がボブ・ディランなどのミュージシャンから大きな影響を受けている点、さらに彼の宗教的側面、および故郷長崎や日本への思い、そして様々な文章修行の跡などを、イシグロ自身のインタヴューでの言葉や後の小説作品などを参照しながら、また実際の草稿やノートを示しつつ具体的に考察していきたい。


テクスト研究学会第22回大会プログラム

※プログラムのPDF版はこちらからご覧になることができます。 

日時:2022(令和4)年8月26日(金)12時30分~17時10分(12:15から参加可能)
会場について:コロナ感染拡大防止のため、Zoomによるオンライン配信

※オンラインで参加される場合、8月24日(水)までに事前申込をお願い致します。
申込先:事務局(E-mail: textstudies1[数字の1]@2525.zaq.jp)
※申込いただいたメールアドレスに、Zoomのミーティング情報をお届けします。
※開始15分前(12時15分)よりご参加いただけます。
※Zoomの視聴ページには、お名前を英語表記でご入力ください。
※ご入力のメールアドレスが他の視聴者に表示・公開されることはございません。
※発表される皆様のリハーサルは、8月21日(日)午後に予定しています。
※録画・録音・撮影はご遠慮ください。
●研究発表:Online配信に変更しました。
●特別講演:Online配信に変更しました。
 
受  付:12:15~ (開会15分前からオンライン参加可能)
開会の辞:12:30~ (オンライン配信)・・・・・ 井上 義夫(会長・一橋大学名誉教授)
◇研究発表:第一部(オンライン配信)➀~③ 12:40~14:10(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

①の司会:宮原 一成(関西学院大学教授)

① 12:40~ 「それから横になる、やせた背中を人類に向けて―サミュエル・ベケット『エレウテリア』の無為について―」

戸丸 優作(江戸川大学国際交流センター助教)

  
②の司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

② 13:10~ 「「未完の仕事」を継ぐ―アフリカを舞台にした独裁者小説について―」

奥畑 豊(日本女子大学英文学科専任講師)


③の司会:鈴木 章能(長崎大学教授)

③ 13:40~  「冷戦期アメリカの周縁文化における男同士の絆」

水島 新太郎(立命館大学文学部准教授)


 休憩(14:10~14:20)


◇研究発表:第二部(オンライン配信)④~⑤ 14:20~15:20(各発表時間:20分、質疑応答:10分)
  

④⑤の司会:井上義夫(一橋大学名誉教授)

③ 14:20~  「D.H.ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』におけるユートピアの脆さと肛門性交の描写の意味」 

高畑 悠介(埼玉大学教養学部准教授)


④ 14:50~  「 "To make you hear": Joseph Conrad, "Heart of Darkness" における聴覚表現と語りの戦略」        

田中 和也(熊本県立大学文学部准教授)

  休憩(15:20~15:30)


◇特別講演 15:30~16:50(オンライン配信(講師の紹介:5分、講演:60分、質疑応答:15分)
  15:30~15:35 講師の紹介&『ケルズの書』の特徴・・・司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)
  15:35~16:50 特別講演:「アイルランドの至宝『ケルズの書』の魅力と色彩について」

講師:田中美佐枝 氏(『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』の著者)

  16:35~16:55 質疑応答


総  会 16:55~17:05(オンライン配信
閉会の辞 17:05~(オンライン配信)・・・・・・・ 玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)

※本大会は会員の皆様への限定公開です。視聴用URL等を共有・公開することを固くお断りします。
※参加登録された会員のみ、5日間程度の期間限定で発表資料をご覧いただけます。
※Zoomのインストール(無料)を推奨します。https://zoom.us/download#client_4meeting
※大容量の通信が発生し充電も消耗します。電源につないでWi-Fi 環境下での参加を推奨します。
※問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(E-mail: textstudies1[数字の1]@2525.zaq.jp)


【発表要旨】
◇研究発表要旨
① それから横になる、やせた背中を人類に向けて―サミュエル・ベケット『エレウテリア』の無為について―

戸丸 優作(江戸川大学国際交流センター助教)
  

 本発表は、サミュエル・ベケット(Samuel Beckett, 1906-89)『エレウテリア(自由)[Eleutheria]』(1995)における主人公ヴィクトールの仕事を止めて何もしないという無為の状態が持っている意味について考察する。この戯曲は、ベケットがフランス語に創作の言語を変更して三部作を書いていた1940年代後半に、『ゴドーを待ちながら [En attendant Godot]』(出版1952、初演1953)よりも先に執筆された。観客が登場人物として登場するといったメタシアター的仕掛けが目を惹くが、本戯曲で主題として前傾化されているのは、自由を求めて突然仕事を放棄し何もしないヴィクトールが陥っている無為の状態である。ヴィクトールの態度は英語で執筆した『並には勝る女たちの夢 [Dream of Fair to Middling Women]』(執筆1932、出版1992)の主人公ベラックワや『マーフィー [Murphy]』(1938)の主人公マーフィーたちの状態を敷衍したものであり、フランス語三部作のモロイやモランたちのあり方にも繋がっている。このように、無為はベケット作品に通底しており、彼の創作行為について考える上で回避できないテーマの一つであると考えられる。
 無為 [idleness, désœuvrement]は人間の状態の一つとして古来から主題化されて来た。時代が降るにつれて、それは労働と対置されて考えられるようになり、非生産的状態であり、良くないものとして概ね捉えられてきている。だが、一方でキリスト教の伝統においてみられる怠惰(アケーディア [acedia])のように過度の修行の結果生まれる状態であったり、19世紀の詩人たちが称揚した美的観照のように創造力と結びついた状態と見做されたりすることもあった。こうした無為という状態についてこれまで論じられてきた内容を踏まえつつ、ヴィクトールの様子を描いているベケットの言語使用について分析する。ジョルジュ・バタイユの内的体験についての議論やハーマン・メルヴィルの短編「バートルビー [Bartleby, the Scrivener]」(1853)を援用しながら、それぞれの作品が置かれた文脈の中で無為が持っている意味を比較検討し、ベケット作品における無為の特性を明らかにしたい。


②「未完の仕事」を継ぐ―アフリカを舞台にした独裁者小説について―

奥畑 豊(日本女子大学文学部英文学科専任講師)

 
 これまで文学作品における「独裁者」の表象といえば、主としてラテン・アメリカの専売特許だとみなされてきた。しかしながら、実はアフリカを舞台にした独裁者小説にも英語、フランス語、アラビア語、キクユ語などで書かれた豊富な実例がある。その中でも英語で書かれたテクストとして特に有名なのは、コンゴ民主共和国のモブツ・セセ・セコ大統領に基づく架空の独裁者ビッグ・マンを描いたV・S・ナイポールの『暗い河』(1979)や、ジョン・アップダイクがリビアのムアンマル・アル=カダフィ政権を下敷きにして書いた『クーデタ』(1978)などである。両者はアフリカと直接の関係を持たない作家であるが、もちろんアフリカ出身者によっても優れた作品が書かれている。例えば、モハメド・シアド・バーレ大統領を暗に糾弾したソマリア出身の作家ヌルディン・ファラーの三部作(『甘酸っぱい牛乳』(1979)、『サーディン』(1981)、『閉まれゴマ』(1983))や、ナイジェリア出身の巨匠チヌア・アチェベの『サヴァンナの蟻塚』(1987)などである。また、ピーター・ナザレスの『元帥はお目覚めだ』(1984)やジャイルズ・フォーデンの『スコットランドの黒い王様』(1998)を始めとして、ウガンダの暴君イディ・アミンをモデルにした小説は同国内外の書き手たちによって数多く生み出されており、一つのサブジャンルを形成している。
 英語圏では2010年代以降、こうしたアフリカを舞台にした独裁者小説の研究が盛んになりつつある。その中でもとりわけ異彩を放っているのが、このアフリカとラテン・アメリカという二つの異なった地域の独裁者小説を「グローバル・サウス」というキーワードで結んで分析対象に収めたマガリ・アーミラス=ティセイラの2019年の著書である。本発表では彼女の議論を批判的に検討しながら、(英語のテクストを中心とした)アフリカの独裁者文学をより越境的かつグローバルな視点から捉え直し、その研究に関する現状の課題と展望の両方について考えてみたい。

③冷戦期アメリカの周縁文化における男同士の絆

水島 新太郎(立命館大学文学部准教授)

 
 19世紀アメリカにおいて、男同士の絆は男色や同性愛とは切り離された、「非性的」で「ロマンティックな友情」として尊重されていた。しかし、「同性愛」という概念の登場とともにそのような絆は男同士の「性的」関係という嫌疑をかけられることとなる。20世紀以降、同性愛、異性愛という二項対立のもと、男同士の絆は同性愛と深く結びつけられ、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の対象とされ、「性的」「非性的」狭間での葛藤を強いられることとなる。男同士の絆に関する学術研究は、homosocial概念を提唱したEve K. Sedgwickを筆頭に、今日まで多くの論者によって考察が行われており、大衆文化においてはbromance(brother-romance、兄弟愛に近い男同士の非性的な関わりあい)という言葉まで作られている。
 本発表は、順応主義の蔓延した1950年代アメリカにおいて、異性愛、同性愛、両性愛者の男たちが共存し、互いの差異を認め合い、また互いの知性を尊重し愛したビート集団に着目する。当時の分裂症的に遊離した周縁文化において、ビート・ジェネレーションの男たちの多くは、社会逸脱、体制批判の精神のもと、厳格な冷戦時代の社会規範からすすんでドロップ・アウトし、自分自身であることの意味を文学、絵画、音楽、詩の朗読などの芸術に求めた。そして、彼らの残した多くの作品には、性的、非性的な関係を超越した、ホモエロティシズムとは別の、男同士の親密な絆にある言外の性的欲望や愛、つまり男同士の精神的つながりが描かれている。本発表では、冷戦期アメリカにおける周縁文化を代表するビート集団、特にその草分け的存在であったJack Kerouac、Allen Ginsberg、William Burroughsの作品と人生に着目し、彼らの性差を超越した男同士の絆が冷戦下のホモフォビアを基盤に形成された規範的な男同士の絆の再形成においていかに重要な役割を果たしたかについて論じる。

④ D.H.ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』におけるユートピアの脆さと肛門性交の描写の意味

高畑 悠介(埼玉大学教養学部准教授)

  
 本発表は、D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』第16章においてコニーとメラーズの肛門性交の描写が設けられている意味を、本作の示すユートピア的なビジョンのある種の脆さと結びつけて理解する試みである。男女間の理想の結合を模索してきたロレンスが、「優しさ」や「心の温かさ」に裏打ちされた肉体優位の性愛による自我からの解放の内にその答えを見出し、それを近代産業文明の害悪への対抗手段として果敢に掲げたというのが本作についての出発点となる基本的な理解と言えようが、本作の提示するそのような理想の性愛のユートピア的ビジョンはある種の脆さを示している。それは単にメラーズの説く救済的なビジョンが現実のイギリス社会に背を向ける空想的な性質を帯びていることのみによるものではなく、より本質的には二人の性愛の理想郷を特徴づけているイノセンスの内実によるものである。性愛の具体的諸相の赤裸々な探究とコニー・メラーズの子どものような純真無垢さの組み合わせがある種の嘲笑を誘い得ることはもとより、本来ある種の「悪」に属する類の力をも本質的に帯びるセックスをイノセンスの色彩で染め上げ文明論的な次元を持つユートピアへの入場券として純化して提示することで、本作はセックスが根源的にはらんでいる「悪」を図らずもその力ごと脱色しており、結果として性愛を通じた自らのユートピア的ビジョンを骨抜きにしてしまっている面があるのである。そして、第16章におけるコニーとメラーズの肛門性交の描写は、そのようなメカニズムを自覚していたロレンスが、性的な逸脱行為という一種の「悪」の導入によってセックスが本来帯びている野性的な力を取り戻し自らのユートピア的ビジョンの脆さを緩和する意図の下に設けたものとみなし得るというのが本発表の骨子である。自作が提示するビジョンの強度について繊細な気遣いと調整の身振りを見せるこのような小説作法は、一般的な「唯我独尊」的イメージとは微妙に異なるロレンス像を指し示していると言えるかもしれない

⑤  "To make you hear": Joseph Conrad, "Heart of Darkness" における聴覚表現と語りの戦略

田中 和也(熊本県立大学文学部准教授)

 英文学での小説研究史上で、Joseph Conrad はモダニズム文学の嚆矢とみなされ、巧みな語りの技法の創造者かつ使用者だったと評価されてきた。とりわけて、彼は視点(point of view)を巧みに用いて、人物の物事の見方を巧みに読者に追体験させる作家だとみなされてきている。Conrad作品での視点と語りの研究は、彼の代表作である "Heart of Darkness" に関して顕著である。この作品では語り手の Marlow は自分が雇われ船長として19世紀のアフリカで旅をしたことを、自分の友人たちに語る。そこで彼はKurtzという名の、象牙収集をおこなう悪魔的なエージェントと出会うのである。この作品に関しては、語り手 Marlow の「見方」を読者にヴァーチャル・リアリティのように追体験させる技法が Ian Watt や Peter Brooks たちに着目されてきた。これによりMarlow の語りは、彼が見た事物を克明に描きつつも、意識の流れの技法を先取りしているとされる。"Heart of Darkness" の語りや視点の研究では、「視」点(point of "view")という言葉で示唆されるように、これまでは視覚表現に研究の重きが第一におかれてきた。これには、Conrad 自身が自分の作品の目的は “to make you see” だと述べたことがあることも、影響している。事実、Marlow はアフリカで目撃した事物や人物の様子を、過剰とも言えるほどの表現によって、何とか言語化しようとしている。
 だが、Marlow の語りが読者に追体験させるものには、彼の視覚のみならず聴覚も含まれている。実際に、アフリカの自然にしろ、人物たちの声にしろ、この小説は音で満ち溢れている。そもそも、彼がアフリカを旅する際の内的動機となるものは、Kurtz の "voice" を聞きかつ彼と語りたいという欲求である。本発表では、作品中の聴覚表象やそれを可能とする Marlow の語りに注目する。それによって、Marlowによる語りの構造やその巧みさに関して考察する。それらを通じて、この小説が逆説的に、言語の不可能性を暴きだすという、まことにモダニスト的な営為に献身していることを訴えたい。

◇特別講演の講師紹介と特別講演の要旨
① 『ケルズの書』の復元模写・研究者、萩原美佐枝氏の紹介及び『ケルズの書』の特徴

司会:吉村耕治(関西外国語大学短期大学部名誉教授)

 講師の田中(萩原)美佐枝氏は、復元模写を行うために、真正の顔料や色を求めてヨーロッパだけでなく、ロシア、中国、アルメニアなど、世界各地を巡って調査されている。『ケルズの書』(全680頁)は、800年頃に制作された聖書の写本で、その23頁に、美しい色彩の細密画が描かれている。この写本は、世界で一番美しいとも言われているが、1200年前に描かれているため、色あせや劣化が生じている。そこで、世界で初めて『ケルズの書』の全装飾ページの復元を試みられたのが、田中美佐枝氏である。制作当初の顔料・染料・色材を使って色彩を再現し、実物大の大きさで、正確に写すことを目標に、復元模写されている。羊皮紙は湿度によって伸縮するため、厚さ9ミリの板の上に羊皮紙を伸ばして広げ、その端を板の裏側で釘止めし模写されている。色の選択は、「30%ぐらいは間違っている」(p. 88)かもしれないと言及されている。細密画の構造を解明しながら復元されたため、この写本に秘められた謎を解くことに成功し、それを世界に向けて書物で発表されている。今回は、古典顔料・染料の性質や、模写を通して発見された興味深い事柄をお話しいただきます。鉛丹(酸化鉛)や、緑青(塩基性酢酸銅)、天然白亜(チョーク)、ケルメス、コチニール、茜、紫根、オーピメント(硫黄と砒素の化合物で猛毒)、ランプブラック(油煙)などの顔料を使用されている。この写本では青色のアズライト(藍銅鉱)や緑色のマラカイト(孔雀石)は用いられていないとのこと。油絵の具が発明される15世紀までは、顔料を樹脂などで練るテンペラ技法が代表的手法で、この写本でも単色塗りが中心であったと言及されている。メディウム(medium: 展色剤)としては、卵白と卵黄を使われている。これらの細密画では「線の美」が際立っており、ほとんどの線が2本線で描かれ、平行線の多様という特徴が見られる(p. 117を参照)。その平行線は、サーペントやライオンの胴体、人体の厚みを表しており、立体を表す上で役立っていると言及されている(pp. 123-125を参照)。中世ヨーロッパのキリスト教芸術である『ケルズの書』の細密な幾何学的構造の図像や色調、その特徴について解説していただきます。
 参考図書:萩原美佐枝(2016)『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』東京:求龍道。

② アイルランドの至宝『ケルズの書』の魅力と色彩について

田中美佐枝 氏(『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』の著者)

 今回は、アイルランドの至宝と呼ばれる『ケルズの書』の装飾ページの中でも、特に優れた作品を5ページ選んで説明します。1)聖母マリア像(f7v)、2)キリストの肖像(f32v)、3)カイローページ(f34r)、4)マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四聖人のシンボル(f129v)、5)キリストの誘惑(temptation:f202v)です。これらは、非常に優れた芸術作品で、是非脳裏に残していただきたい作品群です。4)のシンボルページでは随所にトリニティー(三位一体)がちりばめられており、謎が隠されています。5)では、悪魔がキリストを「天使に守られているというなら屋根から飛び降りよ」と威嚇しており、キリストは屋根の上から巻物のようなものを手に、「神を試してはならない」と言っているところが描かれています。その画面の左や下には大勢の見物人がおり、上部には四聖人が描写されています。これらの人物群の頭髪の色や、悪魔の色、四聖人の微妙な描写の違いについても言及します。『ケルズの書』には、8世紀としては多くの絵の具が用いられています。当時の色の材料は、天然に存在する材料で、鉱物質の粉状の顔料と液状の染料で構成されています。1700年代初頭にブルーが人工的に化学合成されるまで、人類は天然の材料で色を作っていました。『ケルズの書』が制作された年代である800年代の色の世界を中心に解説しますが、実は合成顔料が発明されるまでに描かれた色の世界は、殆ど同じようなものであるとも言えます。例えば、法隆寺のあの焼失した壁画、高松塚古墳、インドのアジャンター、敦煌石窟群、カッパドキアなどの壁画、ひいてはダヴィンチの「最後の晩餐」、バチカンのシスチーナ礼拝堂など、皆同じ古典顔料の世界です。これらの古の美術鑑賞に役立つように話を進めるつもりです。よく話題に上る藍青色のラピスラズリについても、一般的には間違って伝えられているようなので、話に加えます。また、尾形光琳の「燕子花屛風」や敦煌の壁画などのラピスブルーについてもお話します。


テクスト研究学会第21回大会プログラム



※プログラムのPDF版はこちらからご覧になることができます(特別講演で扱われる『ケルズの書』の画像の一部も掲載されています)。大会当日のレジュメはこちらからご覧になれます(2021年9月1日までの限定公開)。 



日時:2021(令和3)年8月27日(金)13時00分~17時00分(15分前から参加可能)

会場について:会場について:コロナ感染拡大防止のため、Zoomによるオンライン配信



※オンラインで参加される場合、8月24日(火)までに事前申込をお願い致します。

申込先:事務局(E-mail: textstudies1[数字の1]@2525.zaq.jp)

※申込いただいたメールアドレスに、Zoomのミーティング情報をお届けします。

※開始15分前(12時45分)よりご参加いただけます。

※Zoomの視聴ページには、お名前を英語表記でご入力ください。

※ご入力のメールアドレスが他の視聴者に表示・公開されることはございません。

※発表される皆様のリハーサルは、8月25日(水)午後に予定しています。

※録画・録音・撮影はご遠慮ください。

 

◇受  付:12:45~ (開会15分前からオンライン参加可能)

◇開会の辞:13:00~ (オンライン配信)・・・・・・・・ 井上 義夫(会長・一橋大学名誉教授)



◇研究発表の部(オンライン配信)13:05~15:05(各発表時間:20分、質疑応答:10分)



①の司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

① 13:05~  「中性」の兆し ―エクリチュール概念における中動態的側面の再考―

石井 咲(学習院大学(院)・学術振興会特別研究員)

  

②の司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)

② 13:35~  シャッターを切る女 ―『ステップフォードの妻たち』の理想の女性像―

大黒 優子(関西学院大学(院))

③の司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

③ 14:05~  The Emancipatedにおける絵画表象

谷本 佳子(東京農業大学応用生物科学部助教)

④の司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

④ 14:35~  D.H.ロレンス『虹』における他者性の扱いの世代ごとの相違と視点の問題

高畑 悠介(埼玉大学教養学部准教授)





  休憩(15:05~15:15)



◇特別講演 15:15~16:35(オンライン配信(紹介10分+講演60分、質疑応答:20分)

  15:15~15:25 講師の紹介&『ケルズの書』の特徴・・・司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)

  15:25~16:25 特別講演:「アイルランドの至宝『ケルズの書』の精神と魅力について」

講師:萩原美佐枝 氏(『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』の著者)

  16:25~16:45 質疑応答

〔講演要旨:『ケルズの書』はAD800年前後にアイルランドで製作された聖書。ヒエロニムスの訳したラテン語の使徒行伝。美しい色彩で描かれた装飾ページには非常に不思議なデザインが随所に見られ、古くから注目されている。模写をして解った「秘められた謎」についてお話します。〕





総  会 16:45(オンライン配信

閉会の辞 16:55~(オンライン配信)・・・・・・・ 玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)

※本大会は、会員の皆様への限定公開です。視聴用URL等を共有・公開することを固くお断りします。

※参加登録された会員のみ、5日間程度の期間限定で発表資料をご覧いただけます。

※Zoomのインストール(無料)を推奨します。https://zoom.us/download#client_4meeting

※大容量の通信が発生し充電も消耗します。電源につないでWi-Fi 環境下での参加を推奨します。

※事務局にて、記録用として録音・動画の撮影をしております。ご了承ください。

*問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(吉村耕治E-mail: textstudies1[数字の1]@2525.zaq.jp)



 

【発表要旨】
◇研究発表要旨

①  「中性」の兆し―エクリチュール概念における中動態的側面の再考―

石井 咲(学習院大学(院)・学術振興会特別研究員)

 ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915-1980)の執筆活動において中核を担う概念として「エクリチュール(écriture)」が挙げられる。エクリチュールは、「書く」を意味する動詞〈écrire〉から派生した名詞であり、その定義を(1)文字、(2)筆跡、(3)記述行為に大別することができる。これらの定義に加えて、バルトは処女作『零度のエクリチュール』(Le Degré zéro de l’écriture, 1953)において、エクリチュールを作家が社会参与するための文学的な手立てと定義づけた。それ以来、バルトのテクストにおいてこの概念は、作家の「書く行為」、つまり、作家性そのものにかかわる重要な問題として扱われるようになった。ところが、1970年代に入るとバルトは、「書く行為」から突如「読む行為」へと関心を移した。作家だけではなく、読者もまた主体的にテクストへ参加する必要があると述べ、その能動的な読書行為の再評価を行なったのだ。この革新性は、これまで国内外で多く分析され、また近年ではヴォルフガング・イーザーの読書行為論などとの比較検討なども行われている。

 しかしながら、もしバルトが書く行為から読む行為へ関心を完全に移したのであれば、読む行為を意味する「レクチュール(lecture)」という言葉に新たな価値を与え概念化することもできただろう。にもかかわらず、エクリチュールという名称を使用し続けたということは、バルトの思索においてそれまでのエクリチュール概念とは異なる視座から書く行為を捉え直していたとは考えられないだろうか。本発表では、この問題意識のもと、1960年代後半にバルトが執筆したテクストを対象に、エクリチュール概念の再考を図り、読む行為との接合点を探る。分析の一助としては、「書くは自動詞か?」( « Écrire, verbe intransitif ?», 英語による発表1966年;フランスでの出版1970年)においてバルトが引用したフランスの言語学者エミール・バンヴェニストの中動態論を援用する。動詞の態に着目することで、エクリチュール概念の通時的な分析を試みると同時に、バルトがその後に述べる「中性」の兆しとしてエクリチュールを位置付けてみたい。



②シャッターを切る女 ―『ステップフォードの妻たち』の理想の女性像―

大黒 優子(関西学院大学(院))

 

 1970年代のハリウッドはニューシネマと呼ばれる作品群に見られるように、エンターテイメント的要素よりも、70年代の不安定なアメリカをメタフォリカルに投影した作品を多く生み出した。映画『ステップフォードの妻たち』(The Stepford Wives, 1975)もその一つである。この映画は、当時、破竹の勢いであった第二波フェミニズムのパロディであると批評されることが多い。例えば、アンナ・クルゴヴォイ・シルバー(Anna Krugovoy Silver)はその理由の一つに、家事崇拝、女性美の追求など、ロボットの妻たちがいかにも男性にとって理想的な女性像を象徴している点を挙げている。映画では、現実の妻たちをその対極にあるものとして提示している。だがしかし、この理想像はどのように作り上げられたものなのであろうか。そこには消費文化と女性との関係が見えてくる。そこで、発表の前半では『ライフ』や『レディース・ホーム・ジャーナル』といった当時のジャーナルとの関連を通して、女性がいかに消費文化に取り込まれ、そこから生み出されたイメージが、ステレオタイプ的な女性像の構築に関与しているかについて検証する。

 そして、この映画でもう一つ注目したいのは、男性の欲望を具現するロボット妻と対極にある女性の方が、結果的には理想の女性像として提示されているといった巧妙なトリックが見られる点である。1975年にローラ・マルヴィ(Laura Mulvey)が提示した、「男性の視線」はその後のフェミニズム映画批評に多大な影響を及ぼすことになるが、監督ブライアン・フォーブスは、マルヴィの議論に対抗するかのように「女性の視線」を全面に打ち出している。主体的な視線の持ち主である主人公の女性は「見る」ことを通して彼女の欲望を開示する。その欲望とは何か。従来の男性の視線に、「見られる」女性から「見る」女性へと反転する構図が加わることで、男性の欲望と女性の欲望との結節点を導き出すことができる。そこで後半では、女性の視線に着眼し、彼女は何を見ているのか、視線を通して作り出される女性像を明らかにする。



The Emancipatedにおける絵画表象

谷本 佳子(東京農業大学応用生物科学部助教)

 

 The Emancipated (1890)は、George Gissingが31歳の時に初めて訪れたイタリアでの体験をもとに書いた、イギリスとイタリアを舞台とした長編小説である。この作品のヒロインであるミリアムとセシリーは、イタリア旅行を通して、その後の人生に大きく関わるような影響を受ける。ミリアムは、作品の冒頭で、転地療養のためナポリに滞在しているが、彼女は頑迷なピューリタンであり、イタリアに興味を持つことも、イタリアを受け入れることも頑なに拒否している。一方、セシリーは、コスモポリタンの叔母から教育を受けた進歩的な女性であり、ミリアムとは対照的な自由なキャラクターとして設定されている。二人は旧知の間柄であり、ナポリで再会を果たすのであるが、そのナポリでミリアムが宿泊している部屋の壁に、ラファエロのSt. Ceciliaの複製画が飾られている。聖セシリアがセシリーを連想させることは間違いなく、セシリーの守護聖人である聖セシリアの絵画がミリアムの部屋に飾られていることについては、作品中で他の登場人物たちによって‘odd’だと繰り返し指摘されているが、このような設定には、ミリアムとセシリーの対照的な性質を際立たせる以上の意図があるように思われる。また、The Emancipatedにおいては、随所で絵画が効果的に用いられており、特にミリアムを描いた2枚の肖像画の比較を通して、作品のタイトルであり、テーマでもある‘emancipated’が本質的にどのようなものであるかが語られる場面は非常に印象的である。

 本発表では、ラファエロのSt. Ceciliaを中心に、The Emancipatedにおける絵画表象について再考し、ヒロインたちがイタリア旅行から受けた影響と絵画がどのように絡んでいるか考察したい。



④D.H.ロレンス『虹』における他者性の扱いの世代ごとの相違と視点の問題

高畑 悠介(埼玉大学教養学部准教授)

 

 本稿は、D.H.ロレンスの『虹』について、先行研究が積み重ねてきたブラングウェン家3世代の物語の比較検討という作業を、ロレンス文学における他者性と視点の問題という多分に未開拓の観点から補強するものである。第3世代の物語においては、筆者が『息子と恋人』について別稿で論じたものに類似した、他者性の際立つキャラクターを主人公/視点人物の従属物として扱う姿勢が際立っており、特に15章の再会のくだりにおいて、アントンがアーシュラとは別個の存在であることを閑却し、アーシュラの物語の劇的な展開のもたらす高揚の内にアントンの他者としての存在を溶解させる語りの強引な手つきが目についている。対して第1世代の物語では、基本的にトムから見たリディアの他者性が標準的な小説の流儀で尊重されており、その時点でリディアの内面についてトムから見て謎であるべきものは謎として順当に扱われ、アントンに関して観察されたような語りの距離感の不自然さは見受けられないが、3章の最後で両者が和解に至る場面での代名詞they/their/themの多用は、例外的にリディアの他者性をトムの内に溶解させる姿勢を見せている。第2世代については、ウィルとアナの間でほぼ均等に視点が交替し、内側からの描写と相手の目に映る人物像がそれぞれ喚起する印象間のギャップが効果的に他者性を立ち上げる作りになっているが、反面、キャラクターの不安定性と彼らの境地が変化する際の必然性の欠如という問題をはらんでいる。近代社会がもたらす自我の肥大が、主体が他者性を受け容れる余地を減じるという一般論を考えれば、近代という時代の悪影響が3つの世代を追うごとに強まっていくのと同時に他者性の尊重度合いも失われて行くことが予想されるが、本稿の議論が示す通り、実際は『虹』における他者性の扱いをそのような単線的な構図で把握し切ることは難しい。その理由としては、ロレンスの物語内容への思い入れが世代を追うごとに増していくという ―方向性としては逆の― 別の要因が絡んでいることが挙げられるだろう。







◇特別講演の講師紹介と特別講演の要旨

① 『ケルズの書』の復元模写・研究者、萩原美佐枝氏の紹介及び『ケルズの書』の特徴

司会:吉村耕治(関西外大名誉教授)

 講師の萩原美佐枝氏は、真正の顔料や色を求めて、ヨーロッパ、ロシア、中国、アルメニアなどの各地を巡って調査されている。本物重視の復元模写・研究者で、世界各地を巡って当時の色を集め、復元されている。2018年には、天然顔料のキリン血の樹木、キリンジュを訪ねて、アラビア半島のオマーンに旅をされている。樹木がない砂漠地帯を通り過ぎ、奥地にまで入っておられ、乳香(にゅうこう;フランキンセンス)の木、没薬(もつやく:ミルラ)の木、キリン血樹など、旧約聖書の世界で使用されていた顔料を調査されている。キリン血樹の塊や、染料や薬にする粉を求めることができたと伺っている。キリンジュという顔料は、中世からルネッサンス期に用いられた赤色の非常にきれいな絵の具である。『ケルズの書』(全680頁)は、800年頃に制作された聖書の写本(manuscript)で、その23頁に、美しい色彩の細密画が描かれている。中世ヨーロッパのキリスト教芸術である『ケルズの書』の細密な幾何学的構造の図像や色調、その精神と魅力について解説していただく。150本にも及ぶ良質のセーブルの筆を使って復元模写をされており、右に収録されているカイローページ(ギリシャ文字のΧ, カイとΡ, ローに由来する;キリストを意味するモノグラム、組合せ文字)を制作するのに、592時間もかかったそうです。中世の写本『ケルズの書』は、世界で一番美しいとも言われ、世界で初めて『ケルズの書』の全装飾ページの復元を試みられたのが、萩原美佐枝氏である。細密の構造を解明しながら復元されたため、この写本に秘められた謎を解くことに成功し、それを世界に向けて書物で発表されている。古典顔料・染料の性質や、模写を通して発見された興味深い事柄をお話しいただきます。

参考図書:萩原美佐枝(2016)『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』東京:求龍道。





② アイルランドの至宝『ケルズの書』の精神と魅力について

萩原美佐枝 氏(『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』の著者)

 ケルト系の写本はAD600年頃から制作されており、この『ケルズの書』が作られた800年頃には収束して、この書物の後には、めぼしいものはほとんど見られない。この写本は、聖コロンバヌス(543-615年)にゆかりの修道院で制作されており、頁数は680頁。内容はヒエロニムスのラテン語訳の使徒行伝であるが、すべてを書写している訳ではない。この書物の多くの研究は、どの文章が省略されているとか、抜けている、などという書誌学的な研究が多い。23頁ある装飾ページについての解説はあるが、図像を詳しく解説・解読している研究はほとんど見られない。その理由は、装飾ページが黒ずんでいて、余程近づいてルーペでじっくり見ないと、図像が読み取れないためである。19世紀末までは貸し出されていて、手に取って見ることも、トレーシングペーパーで図像を写し取ることもできたようであるが、20世紀に入ってからは、一般の人々が手に取ることはできなくなっている。トリニティーカレッジ図書館の学者以外触ることが許されず、研究もままならなかった写本である。1990年にスイスのファクシミリ社の実物大の完全復刻版が1500部印刷され、その内、300部が欧米の大きな図書館に収められたので、それらの図書館で手袋をつけて閲覧できるようになっている。それからいくつかの論文が出版されて、この写本について学ぶことができるようになっている。図像の研究が少ないのは、装飾ページの黒ずみが激しく、非常に読み取りにくいことが災いしている。最近は全頁がインターネットで公開配信されており、誰でも拡大してすべてのページを見ることができるので、今後、図像の研究も増えるであろう。私の考察の中で多くの個所は、新しい発見であると思われる。特に全頁に「トリニティー(三位一体)」がちりばめられているということでさえ解っていなかった。この「トリニティー」は聖コロンバヌスの教議の主要概念であったのでは、と最近、ヨーロッパの研究者も言い始めている。トリニティーがこの写本にどのようにちりばめられているのか、また、他にも謎が秘められている不思議な図像についてお話します。

テクスト研究学会第20回大会プログラム



※プログラムのPDF版はこちらからご覧になることができます(特別講演で扱われる『ケルズの書』の画像の一部も掲載されています)。

日時:2020(令和28月28日(金)10:5017:00(受付:10時20分から)
会場:京都女子大学 J校舎3階J302教室(控室:J301教室)
    〒605-8501 京都府京都市東山区今熊野北日吉町35   Tel. 075-531-7030(代)
    アクセス:京阪「清水五条」駅・「七条」駅から徒歩約15分
    JR・近鉄「京都」駅から京都市バス(206)で「馬町」下車、徒歩5分
    阪急「京都河原町」駅から京都市バス(207)で「馬町」下車、徒歩5分
    プリンセスライン(https://princessline.jp/princesslinebus/)も出ています。
    (京都駅・四条河原町から京都女子大学前まで、J校舎まで徒歩5分)

 
◇受  付:10:20~ (J302教室付近のホールで)
◇開会の辞:10:50~ (J302教室)・・・・・・・・ 井上 義夫(会長・一橋大学名誉教授)
研究発表:午前の部(J302教室)➀② 11:00~12:00(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)

① 11:00~  ワイルドの童話作品における読者対象―「幸福な王子」を中心に―       

森元 奈菜(武庫川女子大学(院))


司会:武田美保子(京都女子大学名誉教授)

② 11:30~  Julian BarnesのThe Sense of an Endingにおける信頼できない語り手と記憶

                                                福本 菜々美(武庫川女子大学(院)

  
昼食・休憩(12:00~13:00)

研究発表:午後の部(J302教室)③~⑤ 13:00~14:30(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

③ 13:00~  『テクストの快楽』における倒錯的主体―テクスト理論をめぐって―

石井 咲(学習院大学(院))


司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

⑥ 13:30~  『灯台へ』におけるラムジー夫人のショールのはたらき

                        押田 昊子(日本女子大学学術研究員)


司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

⑦ 14:00~ D.H.ロレンス『息子と恋人』における他者性と視点の問題

高畑 悠介(埼玉大学教養学部准教授)


  休憩(14:30~14:50)

◇特別講演 14:50~16:30(J302教室(10分+講演60分、質疑応答:30分)
  14:50~15:00 講師の紹介&『ケルズの書』の特徴・・・司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)
  15:00~16:00 特別講演:「アイルランドの至宝『ケルズの書』の精神と魅力について」

講師:萩原美佐枝 氏(『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』の著者)

  16:00~16:30 質疑応答
〔講演要旨:『ケルズの書』はAD800年前後にアイルランドで製作された聖書。ヒエロニムスの訳したラテン語の使徒行伝。美しい色彩で描かれた装飾ページには非常に不思議なデザインが随所に見られ、古くから注目されている。模写をして解った「秘められた謎」についてお話します。〕


総  会 16:35(J302教室)
閉会の辞 16:55~(J302教室)・・・・・・・ 玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)
*発表者・大会参加者の控室としては、J301教室をご利用ください。
※昼食については、大学構内の食堂、及びバス停の近くのコンビニが、ご利用いただけます。
*マスクの着用など、新型コロナ感染拡大防止対策を講じて、ご出席をお願い申し上げます。
※第20回大会では新型コロナ感染拡大防止のため、懇親会を開催しないことにしました。
*問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(吉村耕治E-mail: textstudies1[数字の1]@2525.zaq.jp)

 
【発表要旨】
◇研究発表要旨
①ワイルドの童話作品における読者対象―「幸福な王子」を中心に―

森元 奈菜(武庫川女子大学(院))

 代表作である『ドリアン・グレイの肖像』から浮かび上がるオスカー・ワイルド(Oscar Wilde, 1854-1900)は、当時のイギリスを代表する唯美主義者であり、芸術家のイメージが強い。その一方でワイルドは、生涯で2冊の童話集を出版している。しかし、ワイルドが、子供を対象とした読み物を創作していたという事実は少し意外に感じる。童話とは児童文学を意味し、子どものために書かれた空想的な物語を指す。子どもを対象とした読み物なら、作者の伝えたいメッセージは理解しやすいものであることが前提だろう。しかし、ワイルドの童話では、子どもがそのメッセージ性を読み解くことは難しく、単純に子どもを対象とした読み物だとは思えない。そこで、ワイルドがどのような読者を対象としたのかついて検証を進めたい。本発表では、1888年に出版された『幸福な王子、そのほかの物語』、特に「幸福な王子」を主な対象とする。この物語の設定にはリアリズム的要素が感じられる。実際的で周りからの評判を得たい市会議員、月がほしいと泣く子供を叱りつける母親、子供の夢を否定する数学の先生などが現実の物質主義や唯物主義の体現者として描かれているということは明らかである。このような価値観はヴィクトリア朝において顕著だったに違いない。また、童話に関する先行研究では、童話はその時代の風潮を反映していることを明らかにしている。しかし、物語の中で、これらの登場人物らが肯定的に描かれているとは考えにくい。むしろ、否定的なのではないだろうか。この観点から、童話という児童文学を意味するジャンルではあるのだが、その対象はリアリズム観を持っていた読者を想定したものではないか検討したい。本発表では、当時の社会的文化的背景を考慮に入れ、その読者対象について論じる。さらに、物語は反リアリズム主義者であったワイルドが社会風刺的な意味を込めて描いたものなのかについて考えてみたい。

②Julian BarnesのThe Sense of an Endingにおける信頼できない語り手と記憶

福本 菜々美(武庫川女子大学(院))

  The Sense of an EndingはJulian Barnesによって書かれた十一作目の長編小説で、彼はこの作品によってブッカー賞を受賞している。第一部では主人公Tony Websterの学生時代の出来事が中心に語られ、第二部はトニー引退後の現在、かつての恋人、Veronicaの母親がTony Websterに遺産を遺したことを知らせる手紙が届くところから物語が展開していく。本作品における語り手は第一部、第二部とも一貫して主人公Tony Websterであり、作品全体がTony Websterだけの視点から語られている。本発表では、この主人公Tony Websterの語りに着目し、彼が信頼できない語り手たりうることを明らかにすると同時に、この信頼できない語り手という技法とこの小説のテーマの一つである記憶との関係性を考察していく。Tony Websterが信頼できない語り手であると考えるために重要なのは、物語の冒頭から見せる彼自身が語る過去の出来事に対しての懐疑的な態度とTony Webster自身も把握している平和主義に似た自己防衛的性格である。前者は引退後に近い視点から語る第一部、そして第二部においても一貫して見られる態度だが、後者については第一部ですでに語った出来事を、時を経て、Tony Webster自身の考えで再分析することが出来る第二部の方が色濃く表れているように思われる。The Sense of an Endingが記憶をテーマの一つとしていることは、この小説が発表された当初から認識されていた。本作のテーマと考えられるものは記憶だけにとどまらず、老化や後悔など複数あると考えられているが、本発表では記憶という一つのテーマに限定し、この記憶というものが本作でどのようにテーマ付けされているのかを物語中に登場する二本の川への着目と共に分析を進める。Julian Barnesは小説を書く際に多様な技法を採用してきたが、本作においてこの記憶というテーマを扱うにあたって、信頼できない語り手という技法が選択された意味を考えてみたい。

③『テクストの快楽』における倒錯的主体―テクスト理論をめぐって―

石井 咲(学習院大学(院))

 ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915-1980)は、「作者の死」(« La mort de l’auteur », 1968)において、19世紀の小説を例に挙げながら神の視点から書かれる「閉ざされた文学作品」を否定し、また、『S/Z』(1970)や「テクスト(の理論)」(« Texte [ theorie du ] », 1973)などにおいて、ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva, 1941-)が提唱した「間テクスト性」や「シニフィアンス」などの概念を参照しながら、「開かれたテクスト」の理論化を図ったことで知られている。しかしながら、その同時期に出版された『テクストの快楽』(Le plaisir du texte, 1973)において、バルトはテクスト理論に賛同する一方、痛烈な批判も行なっており、その主張には一貫性がみられない。テクスト理論派の旗手とみなされてきたバルトのこうした矛盾点を指摘する研究は、いまだほとんどなされていないのが現状といえるだろう。というのも、『テクストの快楽』を対象にした従来の研究では、しばしば、そこにおいて述べられる「作者の回帰」と、前述した論考「作者の死」において共通する「主体としての作者」というテーマが重視され、主張を転換するというバルトそのものは等閑視されるきらいがあったのだ。とはいうものの、一度は殺した作者を復活させるというスキャンダラスな転回は、見方によれば、正反対の二つの視座から論じられるという点において、バルトのテクスト理論に対する姿勢にも共通しているとは考えられないだろうか。そこで本研究は、『テクストの快楽』を主な分析の対象に設定し、反目する考えを保持するバルトを「倒錯的主体」の観点から捉え直すことを目的とする。これにより、意見をめまぐるしく変えるバルトの企図の解明につながると考える。こうした文学的戦略を明らかにすることは、しばしば捉えどころがなく軽薄とみなされるロラン・バルトという作家像に迫るひとつの手立てになるだろう。 

④『灯台へ』におけるラムジー夫人のショールのはたらき

押田 昊子(日本女子大学学術研究員)

 本発表では、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ(To the Lighthouse)』(1927)に描かれたショールに目を向け、主要登場人物であるラムジー夫人の造形を考察する。ショールは衣服と布地の中間に位置する存在である。衣服のように身体に密着するわけではないが、単なる布地とは違って身体の一部として持ち運ばれ移動する自由さを持っている。ウルフ作品における衣類の表現については近年様々な分析がなされているが、今回はそれらの議論を踏まえつつ、ショールの表現に光を当てることによって、それをまとうラムジー夫人の重層的かつ自由な生(life)を読み解きたい。ショールを扱う意義は、ウルフが衣服を描写する際に用いた「はおる、まとう(wrap)」などの言葉や、着替えの場面の例を挙げることによっても確認できる。風通しのよい動的なものとして描かれる衣服は、“Character in Fiction”(1924)で重視された「生それ自体(life itself)」の無限の広がりを暗示している。また、“Modern Fiction”(1925)で喩えられたように、うつろう生が「半透明の包膜(a semi-transparent envelope)」の内にあるとするならば、生はそこで息づきつつ、その外と隔絶することなく行き来するために、柔軟な仕切りを必要とするだろう。これらの効果は、衣服とも布地ともなりうるショールの中間的な性質によって、一層際立つものとなる。たとえば『灯台へ』第Ⅰ部の夕食の場面でラムジー夫人が身にまとうショールには、会食者ひとりひとりの活き活きとした個別の生を示唆しつつ、同時にその混ざり合いや一体感が生じる瞬間を描くという、ウルフの両義的な試みが色濃く反映されている。ショールは最終的に子ども部屋に置き去られるものの、ラムジー夫人の制約されない生を支えたこの服飾小物は、この世を去ってなお物語全体を秘かに行き来するラムジー夫人の生を示唆するものとして、『灯台へ』の読解に重要な役割を果たしているのである。

⑤ロレンス『息子と恋人』における他者性と視点の問題

高畑 悠介(埼玉大学教養学部准教授)

 D.H.ロレンスの『息子と恋人』についての議論は従来、作者の伝記的な要素との関りからの研究や精神分析的読解、フェミニズム的観点からの作品内容の批判的検討などが中心となり、その小説としての形式面に焦点を当てた研究は相対的に不十分な水準にとどまっている。本発表は、『息子と恋人』における視点の操作を論じることでその批評上の空白を埋めるとともに、ロレンス文学における他者性についての通説を批判的に再検討する。本作のミリアムの扱い方がアンフェアであることはしばしば指摘されており、ミリアムが抱えているとされる問題(肉体的な生を肯定できない臆病さ)がポールのそれの投影であることは半ば通説となりつつあるが、このミリアムに対する作品のアンフェアさは、彼女にまつわる視点の操作を吟味することによっても裏付けられる。ミリアムは主人公であるポールから見て他者性が際立つキャラクターとして設定されているが、彼女の内面描写は、初登場時から、その他者としての領域に対する語りの節度を軽んじる形でなされている。その後も、ポールの物語を語る中で都度的にミリアムの内面描写が挿入されるというパターンが繰り返され、ミリアムがポールの物語の従属物として扱われる様が観察できる。また、語り手とポールが読者のために用意するミリアム像から彼女が逸脱し、彼女の他者性が際立つ要の場面は、前述のミリアムの他者性を否定する本作の姿勢との齟齬から、違和感を与えるものとなっている。ポールから見て他者性が際立つもう一人のキャラクターであるクレアラについても、そのキャラクターとしての性質や役割におけるミリアムとの対照性から導かれる予想とは裏腹に、同様の現象を観察することができ、クレアラの他者性を際立たせるはずの急所の場面は、その前後関係を合わせて眺めるとき、額面通りに受容できないことが分かる。他者性が前景化されるはずのキャラクターの他者性を否定し、彼女たちを主人公の物語の従属物として扱う本作の姿勢は、バフチン的な他者の美学を体現したロレンス文学という通説とは逆に、ロレンス文学の中核に潜むナルシシズムを暗示していると言える。


◇特別講演の講師紹介と特別講演の要旨
① 『ケルズの書』の復元模写・研究者、萩原美佐枝氏の紹介及び『ケルズの書』の特徴

司会:吉村耕治(関西外大名誉教授)

 講師の萩原美佐枝氏は、真正の顔料や色を求めて、ヨーロッパや、ロシア、中国、アルメニアなどの各地を巡って調査されてきた本物重視の復元模写・研究者である。世界各地を巡って当時の色を集め、復元されている。2018年には、天然顔料のキリン血の樹木、キリンジュを訪ねて、アラビア半島のオマーンに旅をされた。樹木がない砂漠地帯を通り過ぎ、奥地にまで入っておられ、乳香(にゅうこう;フランキンセンス)の木、没薬(もつやく:ミルラ)の木、キリン血樹など、旧約聖書の世界で用いられていた顔料を調査されてきた。キリン血樹の塊や、染料や薬にする粉を求めることができたと伺っている。キリンジュという顔料は、中世からルネッサンス期に用いられた赤色の非常にきれいな絵の具である。『ケルズの書』(全680頁)は、800年頃に制作された聖書の写本(manuscript)で、その23頁に美しい色彩の細密画が描かれている。中世ヨーロッパのキリスト教芸術である『ケルズの書』の細密な幾何学的構造の図像や色調、その精神と魅力について解説していただく。150本にも及ぶ良質のセーブルの筆を使って復元模写をされており、右に収録されているカイローページを制作するのに、592時間もかかったそうです。中世の写本『ケルズの書』は、世界で一番美しいと言われ、世界で初めて『ケルズの書』の全装飾ページの復元を試みられたのが、萩原美佐枝氏である。細密の構造を解明しながら復元されたため、この写本に秘められた謎を解くことに成功し、それを世界に向けて書物で発表されている。古典顔料・染料の性質や、模写を通して発見された事柄をお話しいただきます。
参考図書:萩原美佐枝(2016)『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』東京:求龍道。


② アイルランドの至宝『ケルズの書』の精神と魅力について

萩原美佐枝 氏(『ケルズの書―復元模写及び色彩と図像の考察―』の著者)

 ケルト系の写本はAD600年頃から制作され、この『ケルズの書』の800年頃には収束して、この書物の後にはめぼしいものは殆どない。この写本は聖コロンバヌス(543-615)にゆかりの修道院で制作された。680頁あり、内容はヒエロニムスのラテン語訳の使徒行伝であるが、すべてを書写している訳ではない。この書物の多くの研究は、どの文章が省略されているとか抜けているなどという書誌学的な研究が多い。23頁ある装飾ページについての解説はあるが、図像を詳しく解説・解読している研究は殆どない。その理由は、装飾ページは黒ずんでいて、余程近づいてルーペでじっくり見ないと、図像が読み取れない。19世紀末までは貸し出されていて、手に取って見ることも、トレーシングペーパーで図像を写し取ることもできたようであるが、20世紀に入ってからは、一般の人々が手に取ることはできなくなった。トリニティーカレッジ図書館の学者以外触ることが許されず、研究もままならなかった写本である。1990年にスイスのファクシミリ社の実物大の完全復刻版が1500部印刷され、その内、300部が欧米の大きな図書館に収められたので、それらの図書館で手袋をつけて閲覧できるようになった。それからいくつかの論文が出版されて、この写本について学ぶことができるようになったのである。しかし図像の研究が少ないのは、装飾ページは黒ずみが激しく非常に読み取りにくい。最近は全頁インターネットで公開配信されているので、誰でも拡大してすべてのページを見ることができる。図像の研究も増えるであろう。私の考察の中で多くの個所は新しい発見であると思う。特に全頁に「トリニティー(三位一体)」がちりばめられているということでさえ解っていなかった。この「トリニティー」は聖コロンバヌスの教議の主要概念であったのでは、と最近ヨーロッパの研究者が言い始めている。「トリニティー」がこの写本にどのようにちりばめられているか、また他にも謎が秘められている不思議な図像についてお話します。

テクスト研究学会第19回大会プログラム

日時:2019(令和元8月30日(金)9:5017:40(受付9:20から)
会場:佛教大学(二条キャンパス)N1-202教室(控室:N1-202教室後部スペース)
    〒604-8418 京都市中京区西ノ京東栂尾町7   Tel. 075-491-2141(代)
    アクセス:JR京都線「二条」駅、もしくは京都市営地下鉄「二条」駅下車、徒歩1分。
    阪急「大宮」駅下車、京都市バス「四条大宮前」~「二乗駅前」(5分)、徒歩1分
    (http://www.bukkyo-u.ac.jp/about/access/nijo)
    ※2階以上に入場するには、カードキーが必要です。キャンパス1階の受付にて貸出します。
 
受  付:9:20~ (1階エントランス)
開会の辞:9:50~ (N1-202教室・・・・・・・ 井上 義夫(会長・一橋大学名誉教授)
研究発表:午前の部(N1-202教室④ 10:00~12:00(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

① 10:00~ 「“The Happy Prince”における王子とつばめの関係性」         

北田 沙織(京都女子大学非常勤講師)


司会:武田美保子(京都女子大学名誉教授)

②10:30~ 「Virginia WoolfのTo the Lighthouse におけるrepetition」

                                                中谷 紘子(武庫川女子大学(院))

③ 11:00~ 「Mary Shelley, MathildaにおけるWollstonecraft的思想の受容とその克服」

野間由梨花(武庫川女子大学(院))


司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)

④ 11:30~ 「人造人間作品における死生観の変容」

林美里(日本女子大学非常勤講師)


昼食・休憩(12:00~13:00)

研究発表:午後の部(N1-202教室~⑦ 13:00~14:30(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

⑤ 13:00~ 「Middlemarchにおけるドロシアとローマ」

谷本 佳子(東京農業大学助教)


司会:鈴木章能(長崎大学教授)

⑥ 13:30~ 「文学作品読解におけるテクスト理論の応用」

                        秋本 博夫(梅光学院大学常勤講師)


司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

 ⑦ 14:00~ 「Ulyssesにおける「戦略的オリエンタリズム」」

山田幸代(愛知淑徳大学常勤講師)


  休憩(14:30~14:50)

シンポジウム 14:50~17:10(N1-202教室(発表:110分、質疑応答:30分)
 テーマ:「日英語の感覚と表現―比較の観点から―」   司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)
「谷崎潤一郎における視覚の排除―『春琴抄』を中心に―」

講師:安井寿枝(甲南大学・帝塚山大学非常勤講師)

「感覚表現の問題とテクスト分析」

 講師:中島一裕(帝塚山大学教授)

「宮澤賢治の感覚表現の背後にある信念―日英語の比較の観点から―」

講師:吉村 耕治(関西外大名誉教授)


総  会 17:2017:30N1-202教室)
閉会の辞 17:30~ N1-202教室)・・・・・・・ 玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)
懇 親 会 18:00~19:30  キャンパス内「カフェレストラン あむりた」(会費3,000円)
*発表者・大会参加者の控室としては、N1-202教室の後部スペースと1階ラウンジをご利用ください。
※昼食については、1階の「カフェレストラン あむりた」がご利用いただけます。
*問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(吉村耕治E-mail: p925122[at mark]kansai-u.ac.jp)
 
【発表要旨】
◇研究発表要旨
①“The Happy Prince”における王子とつばめの関係性

北田沙織(京都女子大学非常勤講師)

 現代のイギリスにおいては、同性愛に対する社会的寛容度が高く、2014年に同性婚が合法化されたことは記憶に新しい。しかしながら、同性愛が犯罪であった19世紀には、刑法修正法(1885)により、男性間の性的な関係は「著しい猥褻行為」として禁じられていた。異性愛以外のセクシュアリティを持つ人々が、自身の性的指向を表明することが受け入れられる現代とは異なり、こうした性への規制の中、ヴィクトリア朝という時代が、社会規範から逸脱した存在と見なされた人々、セクシュアル・マイノリティにとって、生き辛い時代であったことは確かだろう。Oscar Wilde(1854-1900)もこうした時代の被害者の一人であり、同性愛を咎められ1895年に重労働を伴う2年間の禁固刑を受けている。一瞬にして、輝かしい栄光から奈落の底へと転落した彼の人生が、いかに悲劇的であったかということは到底計り知れるものではないだろう。そして、出獄後はその失意から回復することなく、1900年にパリで46年という短い生涯を閉じた。
 そのようなワイルドが、同性愛的欲望を読み取ることが可能だと思わせる作品を複数残している。1888年に発表された“The Happy Prince”は、ワイルドの童話の中で最も有名で、今もなお世界中の子どもたちに愛されている作品である。そして、これはワイルドが彼自身の子どものために書いた作品だとも言われており、同性愛のテーマとは縁遠いものであるように思われる。だが、本作品は、つばめと葦の男女間の異性愛という関係性から、幸福の王子とつばめの同性間で結ばれた愛へと関係性が移行していく物語と見なすことが可能である。王子には男性的な支配者としての一面もあるが、男性でありながら女性的な特徴が際立っており、そこに彼の男性性の揺らぎを見ることができる。このようなことから、Robert K. MartinやNaomi Woodも指摘しているように、「幸福の王子」には同性愛的要素が秘められていると言えるだろう。本稿では、ワイルドが多様なセクシュアリティを許容しない現実社会をこの「幸福の王子」に映し出し、因襲的な「男性らしさ」と「女性らしさ」の既存の枠を揺るがし、異性愛/同性愛の階層的関係への抵抗を試みていることについて考察したい。

②Virginia Woolf の To the Lighthouseにおけるrepetition

中谷紘子(武庫川女子大学(院))

 To the Lighthouse(1927)における小説の構造はVirginia Woolf にとって特に重要な意味を持っていた。執筆前の構想メモには“Two blocks joined by a corridor”とあり、それは三部構成という全体図に具現化され、両親や姉への想いを描く自伝的な内容を含みつつ、新たな小説の描き方を求めた極めて複雑で実験的な作品となっている。小説構造の意匠のひとつとして、本発表では「反復」に注目したい。多くの反復のなかで、重要な登場人物である女性画家Lily Briscoeの頭の中で繰り返される“Women can’t paint, women can’t write” (54)は特に注目に値すると考える。初出は、Lilyが自分の絵の不出来を嘆く場面で、否定的に下された判決のように頭に浮かんでくるのが、以前Mr. Tansleyに囁かれた上記のフレーズである。次は、Ramsay家の食卓でTansleyの様子を観察している時に、不快感を伴って“Women can’t write, women can’t paint”(94)と蘇っている。そしてその直後、Tansleyが得意分野の話題に発言したくてうずうずしているのを察していながら、助け舟は出さずにいる時、彼が女性を“ ‘can't paint, can't write’ ” (99)だとからかっていたのを再び思い出している。第一部には以上のように三回の繰り返しが見られる。
 さらに第三部では、Lilyが、絵を描くという行為や、なかなか完成しない絵そのものと向き合う時、この言葉が登場する。ヴァリエーションを含めて四か所にもなる。流れる思考の中での反復で、言葉は強調され、成長し、消化される。そして突然、一瞬の閃きによってついに絵は完成し、“I have had my vision”(226)を以って小説は幕を閉じる。このように、To the Lighthouseにおいて詩のリフレインのように繰り返される“Women can’t paint, women can’t write”は、Lilyという女性画家が絵を描く過程と、小説のヴィジョンとがシンクロしていると想定すると、非常に意味深いのではないか。全体を貫くようなプロットは見られず、登場人物たちの意識の流れが嵌め木細工のように描かれた作品を、例えばJane Goldmanは“To the Lighthouse may be a printed, verbal ‘mosaic of vision’” ( “To the Lighthouse’s Use of Language and Form” [2015] )と表現した。visual art的な特徴が指摘されるこの作品において、反復(repetition)はどのような意義、効果を持つのかを検証するのが本発表の目的である。

③Mary Shelley, MathildaにおけるWollstonecraft的思想の受容とその克服

野間由梨花(武庫川女子大学(院))

 Mathildaは、Mary ShelleyがFrankensteinを出版した1818年の翌年、1819年に執筆した小説である。しかし、父William Godwinに原稿を送ったところ、おそらくそのテーマの忌まわしさゆえに未刊のまま残され、1959年まで出版されなかった。『マチルダ』は、主人公であるMathildaが詩人Woodvilleに宛てた自らの半生を語る手紙という形式で語られる。主人公マチルダの父親は、娘マチルダの母親の死により娘の養育を放棄していたが、16歳になった娘と再会を果たし、娘に母親の面影を見出したことにより、娘に異常な愛情を抱く。そして、その感情を娘に告白し、罪悪感を抱いた父親は、自ら命を絶つ。マチルダは父親の死に絶望し、自らも死を選択するという物語である。この小説はしばしばメアリー・シェリーの自叙伝的作品であると言われる。それは、主人公マチルダの生い立ちにおいて、母の不在や父との関係等、いくつかの場面でシェリー自身の経歴や経験と合致するからであると考えられる。しかしながら本発表では、シェリーの実人生と作品との相関関係の表層にこだわるのではなく、彼女が文学者としての根源的な側面において、両親、特に母Mary Wollstonecraftから受けた思想的影響に注目して考察したい。シェリーは父親の政治的急進主義と母親の急進的フェミニズムを自己の思想に取り入れ、さらに夫P.B.シェリーや親友Lord Byronなどからも大きな影響を受け、ロマン派の周縁的な存在として見られながらも、ロマン派の渦の中で文学者として自らの存在を確立した。
 シェリーが『マチルダ』において、特にウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』(A Vindication of the Rights of Woman〔1792〕)の中で展開した思想(特に、家族観および教育観について)をどのように小説空間において表象しているのかを探る。小説内に頻出する“affection”や“sympathy”といった言葉、また主人公やその母親の読書をする姿、父親の妻と娘に対する姿勢に注目し考察する。従って、本発表では『女性の権利の擁護』においてウルストンクラフトが展開する主張について、シェリーがどのように解釈し、作中に表現・再構築しているかを明らかにしたい。

④人造人間作品における死生観の変容

林美里(日本女子大学非常勤講師)

 ギリシア神話のタロース、ユダヤ思想から生まれたゴーレム、錬金術のホムンクルス。人間は古くより生命の誕生という神秘的な事象に強く引き寄せられ、「自らの手で人間を創造する」ことの可能性に想いを馳せてきた。神という絶対的存在を崇め、恐れる一方で、自らも世界を創造する神となり、創出した生命体を支配してみたいという不可侵の欲望を抱く人間。人工知能を実現した現代に至るまで人造人間の構想は、神話、文学、戯曲、映画、果てはゲームといった様々なフィクション作品に落とし込まれている。その構想の中で「生」と「死」の二つのファクターは、次第に死生観を再構築するための実験素材として扱われるようになった。特に18世紀後半から19世紀にかけて、人造人間を取り扱ったフィクションは科学技術の発展の中で一つのターニングポイントを迎える。神に対する尊大な罪深き欲望と、それとは対照的にあまりに儚い自分たちの命に寄せる死生観。まだまだ宗教理念が思想に深く根を張っていたこの時代、フィクション作品において人間はいかなる描写でそれらと向き合っていたか。そして、人工知能が現実的なものとなった現代において、先人たちが想像した人造人間の世界観が我々にどのような未来を提示し、インスピレーションを与えているか。本発表では、まずギリシア神話やTristan and Isoldeの異本などの中世以前の作品から初期の人造人間構想を確認する。続いて、イギリス産業革命以降のMary Wollstonecraft ShelleyのFrankenstein(1818)やVilliers de l'Isle-AdamのL’Ève Future1886)、H.G.WellsのThe Invisible Man(1897)などの作品群を紹介。現代社会に与えた影響についてゲーム作品や実際に起こった事件などを紹介しながら考察し、近代人造人間作品を通じ人間の死生観が多様化する様相を概観したい。

Middlemarchにおけるドロシアとローマ

谷本佳子(東京農業大学助教)

 George EliotのMiddlemarch(1871-72)において、ドロシアがローマを訪れる場面は大変印象的である。この旅は新婚旅行であるにもかかわらず、いわゆる結婚したばかりの愛し合う男女の幸せに満ちた旅ではないらしいことは、ドロシアが一人で激しく泣いている様子が、ヴァチカン美術館での場面に続く、ローマを舞台とした場面の冒頭において、唐突に描かれていることからも明らかである。しかしながらこの旅は、ドロシアの内面的な成長に深く関わるものであると同時に、その後の物語の展開にも非常に大きな影響を与えるものである。道徳的で禁欲的なピューリタンであり、結婚に対して過度に理想主義的なドロシアは、年の離れた牧師で学者のカソーボンを理想の夫と信じて結婚したが、旅先のローマにおいて彼の本質を知り、それまでの幻想から目覚め始める。また、夫の親戚であり、後にドロシアの再婚相手となるラディスローとの再会もローマで果たされる。旅は非日常的な体験を提供してくれるものだが、特に、言語も文化も宗教も異なるローマは、イギリス国内とは違う、特異な場として設定されているのであり、そのような場において、自国では起こりえないことが展開されるのである。
 本発表では、Middlemarchにおいて新婚旅行先としてのローマがどのような意味合いを持つものであるかを再考し、作品中に描かれているローマの異国的な要素がドロシアの内面性とどのように関わっているか、また、ローマへの旅を経験したドロシアと結婚の問題について考察したい。

⑥文学作品読解におけるテクスト理論の応用

秋本博夫(梅光学院大学常勤講師)

 テクスト理論は、1910~1920年代のロシアフォルマリズムを起点としているが、1960年以降欧米で発達した構造主義、受容論、読書行為論、さらにジャック・デリダの脱構造主義等まで派生している。テクスト理論を応用しながら、実際に読解を実施している例はあまりないが、昨年度より梅光学院文学系授業(読解・解釈)においてテクスト理論を導入し、学修効果の推移を見極めている。具体的には、ロシアフォルマリズムに由来する二項対立を主軸にしたテクスト分析を進め、解釈を着地点としている。まず、テクストを字面の対立構造(受容相)に分解し、その後解釈上の対立構造(解釈相)を構築・可視化することで、作品の地図を描く。その結果、特に読解・解釈を不得手とする学生群において、読書不得手意識を克服し、興味を持って読解・解釈できるようになったという一定の効果が確認できている。
 さて、テリー・イーグルトンの指摘通り、文学は教養のある一部知識人のものであるとの概念は、未だ根強く残っているようである。学生等若手読者の中には、歴史的背景の知識なしに作品を論ずることはできないという先入観を抱いている者が実に多い。かかる状況下、テクスト理論の応用(テクスト分析)によって、読書を楽しみ、読解・解釈の技能を身につけていく学生が少しでも増えていくことを期待している。本発表では、短編小説を題材にテクスト理論の作品解釈への具体的応用を総括し、一つの実践例としたいと考える。学生の中には、文学は社会で役に立たないと思っている者が少なくないが、若手研究者の方々には、文学の実学的側面を再認識して頂ければ幸いと思料している。

Ulyssesにおける「戦略的オリエンタリズム」

山田幸代(愛知淑徳大学常勤講師)

 本発表では、James Joyceの小説Ulysses(1922)における東洋のモチーフとそのイメージ戦略的な利用について考察する。Edward W. SaidがOrientalism(1978)によって西洋による東洋の固定的イメージと帝国主義的な権力構造について問題提起して以来、関連研究が進められた。アイルランドに関してはJoseph LennonによるIrish Orientalism(2004)などが挙げられるだろう。こうした研究動向をもとに『ユリシーズ』をあらためて読み直し、ジョイスがいかに既存のオリエント・イメージを利用しつつ、多様な解釈を可能にする表現方法を確立しているかを分析したい。
 ジョイスが描くダブリンの人々は、東洋のイメージがもたらす幻想から醒めている。イギリスを通して伝えられた東洋のイメージは、学問や芸術、ポピュラー・カルチャーとして民衆の生活に浸透したが、ジョイスの描くそれは単に宗主国のオリエンタリズムを輸入したものではない。例えば、主人公の一人であるスティーブン・ディーダラスはダブリンの街を「パレスチナ」に喩えるが、これは旧約聖書にもとづく古典的教養とアイルランド独立運動家による論法を前提としており、彼はそれを踏まえた上で独自の論を展開しようとしている。また二人目の主人公レオポルド・ブルームには自分と身近な親族をオリエント化する傾向があるが、そこには彼のユダヤ性とマゾヒスティックな気質に起因する独自の態度が表れている。そして最後に三人目の主人公モリー・ブルームが語りだす時、読者はいわばオリエント側からの声を聞く。このように多様なオリエントの表象を呈示しながらヨーロッパの文化的枠組みを解体していく、「戦略的オリエンタリズム」と呼べるようなジョイスの能動的姿勢を、この小説から読み取る。

◇シンポジウム要旨
テーマ:日英語の感覚と表現―比較の観点から―
【総論】          司会:吉村耕治(関西外大名誉教授・関西大学非常勤講師)
 人間は外界の状況や事物を把握する時、五感を働かせながら判断している。これは、人間がオギャーと生まれた時から亡くなる瞬間まで、生きている限り続く人間の営みである。見る・聞く・かぐ・味わう・触れるという五つの感覚が主要な要素で、一般的には「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」と考えられている。触覚で代表される皮膚感覚は、皮膚や粘膜の表面で感じる触覚と、その深部で感じる圧覚、さらに、温覚、冷覚、痛覚、振動感覚、位置・運動感覚、平衡感覚などに分類されている。言語学的には感覚表現は、目・耳・鼻・舌・皮膚という五官を通して感じたことを言語化した表現を意味する。人間は、TPO(time, place, occasion:時間・場所・場合)に応じて五感を働かせており、太古の時代からいろいろな感覚表現を使用している。この言語表現は、言語素材の中でも基本的な要素で、年齢・性別・地域・風土・文化などによって微妙な相違が見られ、作家などの個性が反映されやすい表現である。一般的には、活版印刷術が導入される時代までは、聴覚重視の傾向が見られ、印刷術の導入後、大航海時代や、望遠鏡の発明などにより、ますます視覚重視の傾向が顕著になっている。21世紀に入り、インターネットの普及や「地球村」の具体化などにより、世界的な科学技術文化革命が生じており、体験型の博物館が増加している。人間が用いる五感は、常にTPOに応じて異なるが、遠感覚の視覚・聴覚だけではなく、近感覚の触覚も重視する傾向が徐々に顕在化しつつある。
 味覚は、生命の維持や健康の維持に直結しており、湿ったモノに対してのみ作動し、舌に接触して感じる感覚であるため、触覚の一部とみなすことができる。また、嗅覚も、鼻の粘膜の表面で感じる感覚であるため、味覚と同様に、触覚の一部とみなすこともできる。現代人の生活は「脳の情報」に依存する傾向が強いため、各自の目・耳・鼻などの感覚器を使って対象を捉えようとする「五感の活用・再認識」が主張されている。人間は、あるモノに対して「姿・形と声」「外見と匂い」「音と肌触り」のような二つの要素が繋がると「分かった」と思う傾向がある。本シンポジウムでは、安井講師は、「陰翳礼讃」の作者でもある谷崎潤一郎の「春琴抄」を中心に、中島講師は、志賀直哉の「かくれんぼう」と芥川龍之介の「蜜柑」を中心に、筆者は、日英語の比較の観点から「風と雲の詩人」とも称せられる宮澤賢治の感覚表現の背後に見られる「日本らしさ」を考察したい。
〔参考文献〕吉村耕治(編著)(2004)『英語の感覚と表現―共感覚表現の魅力に迫る―』東京:三修社。

谷崎潤一郎における視覚の排除―「春琴抄」を中心に―

安井寿枝(甲南大学・帝塚山大学非常勤講師)

 近代文学における描写の多くが「視覚」を駆使している。では、視覚を排除した場合、近代文学のテクストはどのように叙述されるのだろうか。今回は、近代小説において意識的に視覚の排除を行った谷崎潤一郎の作品を扱いたい。谷崎は、大正期に感覚表現に注目して、さまざまな実験的小説を書いており、中島一裕(2011: 25-32)は、その代表として「病蓐の幻想」「白昼鬼語」「柳湯の事件」「美食倶楽部」がそれぞれ聴覚・視覚・触覚・味覚を中心とした感覚描写を徹底させようとした作品だと述べている。一方、視覚の排除は「盲目物語」「春琴抄」や、「秘密」「少将滋幹の母」などで行っており、これら四作品を通して二つの点に注目したい。一つ目は、視覚の排除の効果時間である。「盲目物語」の中心人物の弥一は幼少期に盲目になり、「春琴抄」の中心人物の春琴は9歳、佐助は41歳の時に失明する。それに対して、「秘密」においては目隠しされることで、「少将滋幹の母」においては暗闇に閉じ込められることによって中心人物の視覚が奪われている。つまり、「盲目物語」「春琴抄」では視覚の排除が恒久的なものであるのに対して、「秘密」「少将滋幹の母」では一時的なものとなっている。そして、一時的に視覚が排除された場面では、嗅覚や聴覚など他の感覚表現への切り替えが意識的になされている。
 二つ目は、テクストの視点である。「盲目物語」は、盲人が語るという一人称小説のテクストであり、「春琴抄」は、盲人とは別の書き手が、複数の資料をもとに彼らの様子を描き出すという三人称小説のテクストである。そのため、これらのテクストの差が、視覚を排除した際の叙述に影響している。盲人による一人称小説では、視覚を利用した描写は、伝聞を表す叙述になっており、三人称小説では、書き手の視点から描写されている。そして、「春琴抄」では、この書き手の視点から「ぼんやり」しているという描写がなされ、この「ぼんやり」という視覚的効果が作品を通した主題となり、他の感覚表現を用いた叙述にも影響している。特に触覚においては、詳しく書かないことで読み手の想像を掻き立てている。

感覚表現の問題とテクスト分析

中島一裕(帝塚山大学教授)

 ことばの感覚表現の問題を考える時、まず取り上げなければならないのは、伝統的な五感という枠組みの問題である。多様で多層的な諸感覚を記述するためには、五感という枠組みは狭すぎるし、立体性を欠く。例えば、「頭が痛い」というのは痛覚の表現だが、これを触覚の一部と見ることはできない。するとこれを五感に加えることになるが、そうなると五感という枠組みが崩れることになる。従って、五感という枠組みを組みかえることが必要になり、新たな枠組みに従って各感覚を表す言語表現の分布を記述し、意味づけることが必要になるのである。また、感覚語は、意味が拡張したり、意味の転用を起こしたりすることがある。例えば、触覚を表す「ベタベタ(ベッタリ)」が人間関係を表したり、円滑さを表す「スラスラ(スラリ)」が言表行動に対する評価語として用いられたり、形状表現に用いられたりする。
 こうした意味転用の問題とともに重要なのは、言語表現を機構論的に考える時、「と見る」「と聞く」といった感覚表現の基本語が、「と言う」「と思う」「とする」などとともに、言語表現の基本になっていることである。近代文学では、写実性が重んじられ、それが手法の上では事態描写の重視につながった。「描写」とは「読み手の五感に訴えるように描くことだ」とされ、「目に見えるように、耳に聞こえるように、はだにふれるように、鼻でかぐように、舌で味わうように」描くことだとされる。描写は、表現対象についての解釈、評価などの「説明」に対立する概念であるが、実際の作品では、対象の描写と説明とがないまぜになって、作品の叙述が展開する。テクストの読みとは、具体的には、叙述に即して作品の構成をとらえ、作品の全体像に迫る試みである。本発表では、志賀直哉の「かくれんぼう」と芥川龍之介の「蜜柑」を事例として、(事態)描写と(事態)説明という二つの叙述法を軸に、文学テクストを分析する手法について考えてみたい。

宮澤賢治の感覚表現の背後にある信念―日英語の比較の観点から―

吉村耕治(関西外大名誉教授・関西大学非常勤講師)

 宮澤賢治(1896-1933年)は、色彩語の「青」を多用した作家である。生前に刊行された唯一の詩集『春と修羅』の序で、「わたしという現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)」(『新校本宮澤賢治全集』第2巻本文篇、p. 7)と表現している。この表現の背後には、モノの本質は見えにくいもので、人間に見えるのは現象だけであるという考えや、人間は点いたり消えたりする「交流電燈」のような生命体であるという考え、人間は酸素を吸って二酸化炭素を吐き出しているので、体内で血液中の炭素と酸素が結びつくことによって人間は生きているという考えが見られる(cf. 小森陽一 2001: 5-15)。人は酸素を肺から血液に送り込んでおり、酸素と結びついた鮮紅色の動脈血を心臓に送り込み、全身に酸素と栄養分を供給している。人の体内では炭素と酸素が結びついているので、常に「燃えて」おり、平熱で36.6度ぐらいの体温がある。宮澤賢治にとっては、人間も自然も同様に単なる現象で、その両方が一体となって溶け合っているという感覚が見られる。葉緑素を媒介として光合成を行い、二酸化炭素を炭素と酸素に分離し、炭素を体内に蓄える植物を、草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べる、などの「食物連鎖」が見られる。人間は他の生命体の遺骸を食べさせていただいて生きている。つまり、「幽霊の複合体」と考えられる。
 宮澤賢治は、法華経的世界像の「第四次元の世界」に住んでおり、造語(特にオノマトペ)が豊富で、民族や国境を越えた「コスモス型文学」や、菜食主義・シンクレティズム(二つ以上の宗教の無意識的融合)・パンティシズム(汎神論)の傾向が見られる。人間が生きるという営みを、自然科学者や化学者の観点だけではなく、宗教者の視点からも眺めた詩人である。上例の英語訳では、“The phenomenon called I/Is a single green illumination/Of a presupposed organic alternating current lamp/(a composite body of each and every transparent spectre)”(Roger Pulvers訳、p. 15)と、greenが用いられている。そこで、日英語の比較の観点から、自然と一体になることを楽しんだ「風と雲の詩人」と呼ばれる宮澤賢治が、色を物体の属性ではなく、光の属性にしていることや、「青い照明」の「青」の多義性、法華経の経典に見られる「青」の意味など、彼の感覚表現の背後にある多様な信念の「日本らしさ」を明らかにしたい。


テクスト研究学会第18回大会プログラム

日時:2018平成308月31日(金)9:5017:40(受付9:20から)
会場:佛教大学(二条キャンパス)N1-202教室(控室:N1-202教室後部スペース)
    〒604-8418 京都市中京区西ノ京東栂尾町7   Tel. 075-491-2141(代)
    アクセス:JR京都線「二条」駅、もしくは京都市営地下鉄「二条」駅下車、徒歩1分。
    阪急「大宮」駅下車、京都市バス「四条大宮前」~「二乗駅前」(5分)、徒歩1分
    (http://www.bukkyo-u.ac.jp/about/access/nijo)
    ※2階以上に入場するには、カードキーが必要です。キャンパス1階の受付にて貸出します。
 
受  付:9:20~ (1階エントランス)
開会の辞:9:50~ (N1-202教室・・・・・・・ 井上 義夫(会長・一橋大学名誉教授)
研究発表:午前の部(N1-202教室④ 10:00~12:00(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

司会:吉村 耕治(関西外大名誉教授)

① 10:00~ 「移動する定点観測者 ―サミュエル・ベケットのフランス語短編小説群の一人称について―」          

戸丸 優作(東京大学(院))

②10:30~ 「John DonneのLove Elegiesにおける語りのテクニック」

鳥養 志乃(熊本県立大学(院))

司会:武田美保子(京都女子大学名誉教授)

③ 11:00 Frankensteinにおける間テクスト性」

野間 由梨花(武庫川女子大学(院))

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

④ 11:30~ 「If I Die in a Combat Zoneにおける戦争責任を巡る葛藤――Tim O’Brienのヴェトナム戦争と冷戦イデオロギー」

三牧 史奈(熊本県立大学(院))

昼食・休憩(12:00~13:00)
研究発表:午後の部(N1-202教室⑧ 13:00~15:00(各発表時間:20分、質疑応答:10分)

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

⑤ 13:00~ 「『希望や愛や信頼を若い頃に学ばなかった者に哀れみを』―Joseph Conrad, VictoryにおけるHeystを『笑う』ための戦略―」

田中 和也(佛教大学講師)

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

⑥ 13:30~ 「犬の言葉と犬の苦しみ ―町田康『ホサナ』(2017)論―」

大桃 陶子(藤女子大学准教授)
  
司会:武田美保子(京都女子大学名誉教授)

⑦ 14:00~ 「読書するヒロイン ―メアリー・シェリーの『マチルダ』を中心に―」

中島正太(徳島文理大学准教授)

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

⑧ 14:30~ 「隠蔽か合一か ―『贖罪』における《テクストを読む行為》の重ね塗りの倫理―」

宮原 一成(山口大学教授)

  休憩(15:00~15:20)
シンポジウム 15:20~17:15(N1-202教室(発表:90分、質疑応答:25分)
  テーマ:「テクスト,グラフ,マッピング ―テクストの可視化とデジタル・ヒューマニティーズ―」

司会・講師:鈴木 章能(長崎大学教授)
講師:山根 亮一(東京工業大学准教授)
講師:鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

総  会 17:2017:30N1-202教室)
閉会の辞 17:30~ N1-202教室)・・・・・・・ 玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)
懇 親 会 18:00~19:30  キャンパス内「カフェレストラン あむりた」(会費3,000円)
*発表者・大会参加者の控室としては、N1-202教室の後部スペースと1階ラウンジをご利用ください。
※昼食については、1階の「カフェレストラン あむりた」がご利用いただけます。
*問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(吉村耕治E-mail: p925122[at mark]kansai-u.ac.jp)
 
【発表要旨】
◇研究発表要旨
① 移動する定点観測者 ―サミュエル・ベケットのフランス語短編小説群の一人称について―

戸丸 優作(東京大学(院))

 サミュエル・ベケットは第二次大戦終結後それまでの創作言語であった英語をフランス語に替えて小説を書き始める。ベケットは言語変更前の最後の英語小説『ワット [Watt]』(執筆1941-44年、初出1953年)で既に一人称の語りを試みているが、英語で小説を書いていた頃は主に全知の語り手を用いていた。しかし、フランス語で書き始めてから本格的に一人称の語りの技法を追求することになる。こうした創作態度の変化を追跡することにより、ベケットがフランス語という言語によって新たな表現を獲得していく過程を記述できる。
 本発表では特に1946年に書かれた3編の短編小説「終わり [La Fin]」(執筆1946年2月-5月、初出1955年)「追い出された男 [L’Expulsé]」(執筆1946年10月、初出1946年12月-1947年1月)「鎮静剤 [Le Calmant]」(執筆1946年12月、初出1955年)を主な対象とする。これらの短編では一人称の語り手「わたし」が自らのあてどない旅の物語を語っている。「終わり」と「追い出された男」の語り手はそれぞれ元いた場所から追い出されるところから語り始め、「鎮静剤」の語り手は自らの死から語り始める。別の人物のようでありまた相互に関連しているようでもあるこれら3作品の「わたし」は、路上の人となっている自らの思索、記憶、あるいは身体の状況などを述べる。しかし、同時に、それぞれが遭遇する他者たちとそこでのやり取り、そして別れについても伝えている。こうした「わたし」の一人称語りの文体を仔細に検討することが今回の作業の目的である。その際、デカルト、ベルクソン、プルーストらについてのベケットの思索を補助線として、自己、他者、場所の移動、時間構造、記憶といった事項に着目する。これらが「わたし」による一人称語りの構築に及ぼした作用を分析することを通じて、その語りの技法の生成過程を観測する。この作業をベケットの他のフランス語散文作品に接続することで、ベケットの模索の痕跡を辿り直すことになるだろう。

② John DonneのLove Elegiesにおける語りのテクニック

鳥養 志乃(熊本県立大学(院))

 John DonneのLove Elegiesは、同時代に流行していたPetrarch的なSonnet Sequenceによく用いられる韻律である弱強五歩脚を採用しておりながら、蔑む女性への求愛に徹するそれらとは異なり、特定の背景を前提とした恋愛における様々な場面を描き出している。そのスタイルは、Robert BrowningのDramatic Monologueの先駆けと見なすこともできる。本発表では語りが特徴的な作品を選び、その語りが個々の恋愛詩にどのような効果や演出が見られるかを検証する。まず、“A Tale of a Citizen and His Wife”において語り手の主張と実際の語りの矛盾について議論し、それにより恋愛詩でありながら風刺詩の要素が見られることを確認する。“Sappho to Philaenis”では語り手が読者の関心をひくために物語中の真実を隠しながら謎明かしをしているかを見ていく。次に、このような語りの意識やテクニックが恋愛のテーマにどのような影響を与えているかを、特にPetrarch的な恋愛詩と対比した上で“Julia”、“The Anagram”、“The Comparison”を論じる。“Julia”においては、語りが「真実の言葉を以て、真実の愛を語る」Petrarch的な恋愛詩の語りの前提を覆している点を見ていく。 “The Anagram”では語り手がPetrarchのblazonの技法を覆すいわゆるcounter-blazonを用いながら、恋愛詩の本筋である女性擁護とは程通い、風刺的なレトリックを描き出していることを確認する。“The Comparison”では語り手が女性二人をblazonとanti-blazonのそれぞれの題材として扱った上で自身の恋人の美の優位性を語るが、実際に最も重視しているのは彼とその友人の男性同士の優劣や友情であることを指摘する。結論として、Love Elegiesの複数の作品においてDonneは特定の背景を持つ劇的独白の要素を利用しながら、恋愛あるいは恋愛観についての両義性を示唆するための、不確かで信用できない語りを確立していることを論じる。最後に、Petrarchの作品の技法や態度を覆す作風がもう一つの代表的な恋愛詩集Songs and Sonnetsにも引き継がれていることも示したい。

③ Frankensteinにおける間テクスト性

野間 由梨花(武庫川女子大学(院))

『フランケンシュタイン』は19世紀初頭にメアリー・シェリーによって書かれた小説である。物語自体は復讐物語的なおもしろさを持っているが、今、間テクスト性という小説技法の特質に注目したい。この小説における間テクスト性の検証を通して、フランケンシュタイン博士と怪物の関係性を考察する。
 間テクスト性とは、文化や文学などをより深く理解するために重要な要素である。その言葉自体は新しいものであるが、1831年度版の前書きの中でシェリーは創作とは無から生まれるものではないと提言しており、今までの研究からもシェリーは、執筆前に様々な文学作品を読んでいることが明らかになっている。この先行テクストへの強い関心が、間テクスト性という技法の導入に深く関わっていると思われる。物語の中で特にこの関心が反映されていると考えられる3作品を中心に検証を進めたい。
 この小説には、「あるいは現代のプロメテウス」という副題がついている。プロメテウスは、ギリシャ神話においては、人間に火を与え、それがゼウスの逆鱗に触れ、罰され、岩山に縛り付けられ、ゼウスから許されるまで毎日鷹に肝臓を食べられるという絶え間ない苦しみを味わう。副題から予測できるのは、怪物という創造物を作り上げ、それを見放したことにより罰されるフランケンシュタイン博士の姿である。
 次に作中に登場する3冊の本と怪物との関係性に注目する。特にゲーテの『若きウェルテルの悩み』とミルトンの『失楽園』の2冊に焦点を当てる。怪物はこれらの本から様々な感想や考え方を得て、影響を受けたことを博士に説明する。怪物は作中の登場人物に共通点や相違点を見つけて共感し、また落胆する。そして怪物は、自分とは誰なのか、何者なのかと、自問自答を繰り返す。
 間テクスト的に考えると、登場人物たちのキャラクターの間に類似点が出てくるのが興味深い。作中に出てくる3冊の本や副題は登場人物の性格造型とどんな関係があるのか、また怪物とフランケンシュタイン博士のキャラクターがどのように形成されたかを明らかにすることにより、『フランケンシュタイン』において間テクスト性が果たす機能について考えてみたい。

 If I Die in a Combat Zoneにおける戦争責任を巡る葛藤 ―Tim O’Brienのヴェトナム戦争と冷戦イデオロギー ―

三牧 史奈(熊本県立大学(院))

 ヴェトナム戦争は米国史上最悪の戦争として米国民の意識に深い傷跡を残した。この忌まわしい記憶に対峙しようとする作家達の懸命な取り組みの結果、1970年代以降の米文学史に「ヴェトナム戦争文学」という新しいジャンルが確立することとなった。ヴェトナム戦争文学研究の先駆者Philip Biedlerは、作家達はヴェトナム戦争文学としての独自のアイデンティティを構築しようと、証言やルポルタージュをはじめ、小説、実験小説、詩集、劇等の様々な手法によるアプローチを行っていたことを指摘する。帰還兵出身の作家として特に1980年以降に高い知名度を得たTim O’Brienは、これらの作家達の中でもその実験的手法によりとりわけ多くの関心を集めてきた作家だが、処女作の自伝的小説If I Die in a Combat Zone (1973)には、その手法の原点ともいえる二つの要素を認めることができる。
 まず、事実と虚構とが混交する語りの技巧である。O’Brien自身は本作品を純粋な自伝として手掛けたと公言したが、ナラティヴには多彩な技巧が駆使されていたため、当初、出版社や批評家達はこの作品の分類に頭を悩ませた。例えば、1979年のLaurel Editionにはフィクションとして“FIC”が表記されたが、1987年版にはノンフィクションの意の“NF”と記載された。批評家の中には、この作風をTruman Capote以降のニュージャーナリズムと同一視するものもある。内容についても、主人公がヴェトナム戦争を善悪や勇敢さなどを実践的に定義する場として(比喩的に)描写し、多くの批評家の関心を集めた。このことはStefania Ciociaが本作品の主題はヴェトナム戦争体験ではなく、勇敢さの探求であると述べたことにも明らかである。
 しかしながら、これまでの批評における、個人的体験としてのヴェトナム戦争解釈は、本作品の多義性を十分に考慮しているとは言い難い。まずなにより、主人公が不正義と確信している戦争に不本意ながらも従軍している点が抜け落ちている。このジレンマこそ彼のその後の戦争体験をより複雑で困難なものにしており、作品の原動力ともなっていることをこれまでの研究は見過ごしてきたのである。本発表では、If I Die in a Combat Zoneの主人公Tim O’Brienが享受した社会的文化的背景を考慮に入れ、従軍する決心に至るまでの過程を冷戦初期アメリカにおける社会不安と関連付けて論じる。本発表の狙いは、O’Brien作品解釈をヴェトナム戦争理解という限定された枠組みから、冷戦社会文化の理解という、更に広い文脈へと展開させることである。

⑤ 「希望や愛や信頼を若い頃に学ばなかった者に哀れみを」―Joseph Conrad, VictoryにおけるHeystを「笑う」ための戦略」

田中 和也(佛教大学講師)

 Joseph Conrad(1857-1924)は1895年より小説家として活躍したが、イギリス小説の「偉大な伝統」の一翼を担うと評価されてきた。だが、彼の作品でもChance(1913)以降の後期作品では才能の衰退が見られると、Thomas MoserやAlbert J. Guerardなどの大御所から批判されてきた。その衰退の理由として、主に二つの点が主張されている。まず語りの技法で、後期作品は前期作品と比べると稚拙になった。次に、内容の観点からも、後期作品は平板だとされる。Conradは恋愛や女性の描写が不得手だとされがちであったが、それらの要素は後期作品では前面に出されていると指摘されてきた。
 こうした伝統的評価はVictory(1915)への評価にも大きな影響を与えている。例えば、語りの面では、一人称の語り手が小説序盤に出ているのに、中盤からは突如姿を消して三人称の語りに移行するという点が注目されてきた。内容面では、この小説では主人公Axel HeystとヒロインLenaとの恋愛が中盤からの主な題材である点に関心が払われてきた。その結果、VictoryはConrad作品でも最も評価の分かれた作品と見なされることもある。
 こうした批評史を踏まえつつ、本論では、Victoryは実は巧みな語りの手法を持ち、それゆえに主人公Axel Heyst の人物像を括弧に入れることができていると主張したい。その際には、上述の批判二点が実は鍵であることを考察する。一点目の語りの手法については、一人称の語り手が姿を消すことも一因となって、人物間の視点の違いや人物間の共通性を浮き彫りにすると解釈できる。二点目の内容面については、語りの技法と相まって、Heystの“detachment”好みの不可能性があぶりだされると解することができる。その際、Lenaが果たす役割や、冒険小説の伝統とこの小説との比較も考慮に入れたい。これら二点がゆえに、VictoryはHeystの偏狭な人物のあり方を巧みかつ軽妙に描いていると意味づけられる。

⑥ 犬の言葉と犬の苦しみ―町田康『ホサナ』(2017)論

大桃 陶子(藤女子大学准教授)

 町田康の長編小説『ホサナ』は、都合の悪いことを見て見ぬふりをして「なかったことにする」という人間の罪によって、光の柱が現れ、空間を捻じ曲げ世界を一変させ、最終的には終末が訪れることが暗示されるという宗教的色合いの濃い作品である。この光の柱は、汚れが凝り固まったような存在である船木禱子が開いた愛犬家が集うバーベキューパーティの場に初めて出現する。興味深いのは、語り手である「私」が、「ないことにされた」犬の苦しみについての正しい理解を広く世の中に知らしめるはずの犬の保護運動に関わることによって、事態が悪化の一途をたどる点である。ここには、人間の偽善とその犠牲者となる存在の関係性を徹底的に問い直そうという作者の姿勢が見て取れる。
 重要と思われるのは、船木禱子とその娘草子が中心となって立ち上げた犬の保護団体に、「私」が運営資金として嫌々400万円を振り込んだ直後に「私の犬」と言葉を交わすことができるようになるという点である。「私の犬」はその後、自身を媒介として「私」が他の犬たちの言葉を理解できるよう仕向ける。「私の犬」の変化はとどまることを知らず、人間のように言葉を発し、銃を発射し、ついには「私」と「私の犬」の区別がつかなくなる。最終的に「私」は「私の犬」の眼を通じて、「私」が別の犬にかみ殺される光景を目撃する。
 文学において動物が言語を操って人間と意思の疎通を図ることは、決して珍しくない。本発表では、『ホサナ』において犬が言語を解するということにはどのような意味があるのかということを、セルバンテスの「犬の対話」やホフマンの『犬のベルガンザの運命にまつわる最新情報』等の同じくしゃべる犬が登場する文学作品、および町田康の飼い犬が語り手となり、主人である作家「ポチ」の家での暮らしぶりを語る<スピンク>シリーズとの比較を通じて探っていきたい。

⑦ 読書するヒロイン ―メアリー・シェリーの『マチルダ』を中心に―

中島 正太(徳島文理大学准教授)

 19世紀初期のイギリスにおいては、前世紀に勃興した小説というジャンルが発展する一方で、トロッター(1807)の論考に代表されるように、それを「読む」という行為が若い人々、とくに女性に対しては「危険」であるとして懸念を示す意見が少なからず見受けられた。ジェイン・オースティンをはじめとする女性作家の多くが匿名、もしくは変名で作品を発表していたこともこのような見方と無関係ではないだろう。
 そのような時代背景をふまえてメアリー・シェリーの『マチルダ』(1860)を読んでみると、まず目を引くのはペーパーバック版で100ページ程度の物語の中に、当時の古典(ダンテなど)から同時代の作品(ワーズワースなど)まで、実に多くの文学作品が引用されていることである。これはつまり、作品のタイトルにもなっているヒロインが幼少期から読書好きとして描写されていることになるが、上記のような時代背景を考慮すると、道ならぬ恋に翻弄されたマチルダを襲う不幸な結末が、あたかも読書という「危険行為」に走った彼女を叱責しているようにすら感じられる。この「道をはずす読書好きヒロイン」というモチーフはじつは、フローベールの『ボヴァリー夫人』(1856)やジョージ・エリオット『フロス河の水車場』(1860)にも受け継がれており、とくに後者ではさまざまな古典および同時代作品が引用されているところに『マチルダ』との類似性を感じさせる。
 読書を「危険」と見なす意見もあった時代に、メアリー・シェリーがあえて本好きの少女をヒロイン、かつ語り手に設定した意図は何だったのだろうか。本作における文学作品の引用を伝記的な側面から分析したラジャン(1994)やアレン(1997)の先行研究をふまえ、本発表では『マチルダ』を「読書するヒロイン」の小説として、先述の『ボヴァリー夫人』や『フロス河の水車場』などと比較しつつ再検証してみたい。

⑧「隠蔽か合一か ―『贖罪』における《テクストを読む行為》の重ね塗りの倫理―y」

宮原 一成(山口大学教授)

 英国人作家Ian McEwanが2001年に発表した長編小説Atonementの第1部では、手紙というテクストを書きそして読む行為についての詳しい描写があるのだが、読む行為に関して言うと、これは言わば重ね塗りを施されたような書かれ方になっている。本発表はその重ね塗りに注目し、小説のテーマとされる《贖罪atonement》の実効性を検証するうえで重要になりそうな材料を、新しく提供することを目指したい。
 この小説は、1999年の時点で77歳を迎える高名な小説家Briony Tallisが、自分が13歳の頃にしでかした冤罪事件の罪滅ぼしをするため書き綴ったもの、という設定になっている。ブライオニー自身が小説第3部末尾と終章で明かしたところによれば、第1部は事件の真の経緯を小説形式で記録したテクストである。彼女は、ある手紙を盗み読んだことがきっかけでRobbie Turnerという若者を誤って告発し、その結果彼に、強姦犯の汚名を負ったままダンケルクで戦死するという運命を背負わせてしまった。第1部は、問題の私信がどのように書かれ、それがブライオニーにどのように読まれることになったのかを彼女が丹念にたどった結果である。そしてここには、自分が書いたばかりのテクストを第一読者として点検するロビーの姿に、13歳時に彼の手紙を目にしたときとは違った読み方をするようになったブライオニー自身の姿を重ねよう、という意図の痕跡が見られるのだ。
 ブライオニーの執筆行為を有効な贖罪と見なせるかどうかについては賛否両論ある。じっさい小説第3部を書く際に彼女が敢行したいくつかの事実粉飾は、読む者の心象を悪くするものだし、第1部にしても、ロビーの心理まで開陳してみせるというのは越権行為、悪く言えば捏造ではある。しかし一方でこれを、読み行為を通して被害者と一体化すること(at-one-ment)を目指す誠意の《贖罪》行動、と読むことも可能ではないだろうか。

◇シンポジアム要旨
テーマ: テクスト,グラフ,マッピング ―テクストの可視化とデジタル・ヒューマニティーズ―

司会・講師:鈴木 章能(長崎大学教授)
講師:山根 亮一(東京工業大学准教授)
講師:鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

司会:鈴木 章能(長崎大学教授)

 「よい地図は千の言葉に値する」.フランコ・モレッティが紹介する地図製作者の言葉である.モレッティはこの言葉に賛意を示し,Atlas of the European Novel 1800-1900ほかで,マッピングやグラフを用いた研究成果を発表してきた.もっとも,マッピングやグラフを用いる文学研究は,モレッティの専売特許ではない.いわゆるデジタル時代に入り,欧米諸国やアジアの研究者および研究機関が,ギリシア古典劇から現代の小説や詩にいたるまで,様々な地域・時代・ジャンルの文学テクストのマッピングならびにグラフ化のプロジェクトを精力的に進めてきた.いまでは専門のジャーナルが発行され,2016年にはRoutledgeからLiterary Mapping in the Digital Ageという研究書も出版された.
 こうした研究は,主にコンピュータソフトやGoogle Map,Google Earthなどを用いるために,デジタル・ヒューマニティーズとも呼ばれる.もっとも,テクスト分析をコンピュータにもっぱら任せることもあれば(デジタル),テクストを字義通りに読んで地図やグラフを作成することもある(アナログ+デジタル).
 文学テクストから地図やグラフを作成する目的,ならびに作成される地図やグラフの種類は様々であるが,その共通点は,テクストの「可視化」にあると言えよう.主観を通さぬ「可視化」,膨大な量のデータの「可視化」,複雑な構造をもったテクストの「可視化」などによって,思いもかけないテクストの真実 ―テクスト同士の関係性,テクストの流通をはじめとする様々な事象,テクスト内の語りの状況,アダプテートされたテクストの引越し”の目的,隠れた歴史ほか― が現れる.
 本シンポジアムでは,現在進行中のプロジェクト例やいくつかの事例,具体的なテクスト分析を示しながら,マッピングやグラフを用いたテクストの可視化の方法,目的,効用,意義について話し,考えてみたい.

アメリカ南部のオルタナティヴ ―シムズ,ポー,フォークナーのデジタル・アーカイヴ―

山根 亮一(東京工業大学准教授)

 アメリカ南部例外主義の問題が,Michael P. BiblerやVeronica Macowskyらによって再提示されたのはごく最近のことだ.アメリカ南部には独特の文化と歴史があるという地域主義が,一方で南部人の偏狭なナルシシズムを,他方では南部人に対する差別意識を醸成してきた.前者の問題を解決するため,今世紀には新南部研究が勃興し,オープンで多種多様な南部像,いわば複数形のサウススが構築された.後者の問題は,南部を研究するということがその研究者のキャリアに悪影響を及ぼすという実際的な問題として,現在のアメリカ学術業界にとりついている.いずれにせよ,アメリカ南部をまとまった文化的総体として語ることがもはや困難となり,ビブラー,マカウスキーらは共通してこのことを嘆いている.
 アメリカ南部例外主義の問題に苛まれる現在,これまで以上に同地域の文化的アイデンティティーは揺らいでいる.そして,この揺らぎは研究者にとって必ずしも都合の良いものだとは捉えられていない.こうしてヴィジョンを失いつつある現在の南部(文学)研究の問題に取り組むため,本発表では,William Gilmore Simms, Edgar Allan Poe, そしてWilliam Faulknerという3人の代表的な南部作家たちのデジタル・アーカイヴの在り様を吟味しながら,どのようにアメリカ南部がインターネット上でマッピングされているかを例証する.世界中どこからでもアクセス可能なデジタル・アーカイヴ内の資料や作品は,ほぼ無制限の知の連結や蓄積を表象するかのように見える.そうだとすれば,現在のアメリカ南部像の輪郭,境界は,どのように成立し得るのだろうか?もしその境界が規定可能だとすれば,その主体は,作品,作家,研究者,あるいはウェブサイト運営者だろうか?こうした問いを通じて,デジタル・ヒューマニティーズがいかに今後のアメリカ南部研究のアプローチに影響を及ぼし得るかを考察することが,本発表の最終的な目的である.

Google Mapエラーの効用 ―エリック・ファーユのNagasaki

鈴木 章能(長崎大学教授)

 文学テクストのマッピングに用いられる代表的なツールの一つにGoogle Mapがある.Google Mapはときどき不正確な情報を表示するため,信頼度に難があると言われる.だが,作家もまたGoogle Mapを用いて小説を書いているとすれば,Google Mapエラーこそがテクストの謎を解く鍵となることがある.本発表では,Google Mapエラーを重視した,いささか変わったマッピングを扱う.扱うテクストは,フランスの作家エリック・ファーユのNagasakiである.Nagasakiは,福岡で起こった実際の事件に基づいた,長崎を舞台とする短編小説である.福岡を舞台とする話をわざわざ長崎を舞台とする物語にした限り,作者は長崎の地理に注目して,福岡の話をアダプテートしたと言える.たしかに,Nagasakiでは,その冒頭から,長崎市内の風景が,市内を移動する主人公の目を通して細かく描写される.主人公の移動の跡を地図にすると,彼が故意に避けている場所があることに気づく.さらに,Google Mapエラーが主人公の自宅の場所を突き止める鍵となる.それらの場所が長崎を舞台にした理由に直結する.

「『虹』の物語 →<グラフ化・マッピング>← 西洋哲学史」

鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

 D・H・ロレンスにとって哲学が,自身の文学を成立させるために不可欠なものであることは,本人が言明するところである.彼の哲学の成熟期に書かれた最初の小説とされる『虹』には,数百年にわたってブラングウェン家に代々受け継がれる,真の愛や人間としての在り方を求める戦いの物語が記録されている.ではロレンスがそのような長い年月にわたる物語を『虹』に描き出したという事実と,その小説が彼の哲学的発展において最も重要であるとされる作品の一つであるということが,どのように関係するのか.本発表ではこの問いに対する一つの答えを,物語に描かれている主要な出来事を時系列に並べて可視化(グラフ化)し,その物語とほぼ同時期に展開された西洋哲学史と対応付けすること(マッピング)によって,さらには,『虹』という作品=物語言説(テクスト)に当該の哲学者たちの異なる言説(テクスト)を取り込み関連づけること(インポート=マッピング)によって導き出すことを試みる.


テクスト研究学会第17回大会プログラム

日時:2017平成29825日(金)10:5017:15(受付10:20から)
会場:佛教大学(二条キャンパス)N1-202教室(控室:N1-202教室後部スペース)
    〒604-8418 京都市中京区西ノ京東栂尾町7   Tel. 075-491-2141(代)
    アクセス:JR京都線「二条」駅、もしくは京都市営地下鉄「二条」駅下車、徒歩1分。
    阪急「大宮」駅下車、京都市バス「四条大宮前」~「二乗駅前」(5分)、徒歩1分
    (http://www.bukkyo-u.ac.jp/about/access/nijo)
   ※2階以上に入場するには、カードキーが必要です。キャンパス1階の受付にて貸出します。
 
◇受  付:10:20(1階エントランス)
◇開会の辞:10:50N1-202教室・・・・・・井上義夫(会長・一橋大学名誉教授)
◇研究発表:11:00~ (各発表時間:20分、質疑応答:10分)
 午前の部(N1-202教室)➀②:11:0012:00      

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

➀11:00~ 「『ビルマの日々』における支配被支配構造 ―境界侵犯の試み―」

     神尾春香(京都女子大学大学院(院))

司会:吉村耕治(関西外大名誉教授)

②11:30~ 「馬朗『琴を燃やした流浪者』における時間・空間表象とその“現代性”」

                                  田中雄大(東京大学大学院(院))

             
 昼食・休憩(12:00~13:00)
◇研究発表:13:00~ (各発表時間:20分、質疑応答:10分)
 午後の部(N1-202教室)③~⑤:13:0014:30

司会:井上義夫(一橋大学名誉教授)

③13:00~ 「架空の冷戦と文化の残骸 ―アンジェラ・カーター『ホフマン博士の地獄の欲望装置』における間テクスト性―」    

              奥畑 豊(ロンドン大学バークベックカレッジ大学院・東京大学大学院(院))

④13:30~ 「『大喜びするのに十分な脳が残されたら! ―サミュエル・ベケット『モロイ』の補綴的身体と思考機械―」

戸丸優作(東京大学大学院(院))

司会:武田美保子(京都女子大学名誉教授)

⑤14:00~「散種する<死>、輻輳する記憶 ―小説『かあさんは朝鮮ピーだった』から映画『かあさんは朝鮮ピーだった』へ―」

李 恵慶(大阪経済法科大学客員研究員)

 
   休憩(14:30~14:45)
◇シンポジウム 14:4517:00N1-202教室(発表:100分、休憩:10分、質疑応答:25分)
  テーマ:アダプテーションの「境界」

                                        司会・講師:片渕 悦久(大阪大学教授)    
講師:鴨川啓信(京都女子大学教授)        
講師:梶原克教(愛知県立大学准教授)     
     

 
◇総  会 17:0017:10N1-202教室)
◇閉会の辞 17:10N1-202教室)・・・・・玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)
◇懇会 17:4019:30  キャンパス内「カフェレストラン あむりた」(会費3,000円)
  *発表者・大会参加者の控室として、N1-202教室の後部スペースと1階ラウンジをご利用ください。
  ※昼食については、1階の「カフェレストラン あむりた」がご利用いただけます。
  *問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(吉村耕治E-mail: p925122[at mark]kansai-u.ac.jp)
 
  【発表要旨】
研究発表要旨
①  『ビルマの日々』における支配/被支配構造 ―境界侵犯の試み―

神尾春香(京都女子大学大学院(院))

  Burmese DaysはGeorge Orwellが、当時英国統治下にあったビルマでの約5年間の滞在経験を基に執筆されたものであり、この小説のなかでオーウェルは大英帝国による植民地支配を非難し、東洋での白人支配の無益さを具体化させている。オーウェルが駐在していた1920年代のビルマ国内は、反英感情の高まりにより治安が悪化していた。そうした政治的背景のために、植民者である英国人のアイデンティティは確固としたものではなくなりつつあった。支配的イデオロギーが一枚岩的ではなくなり、植民者と被植民者との間にある権力の図式に変化が生じるからである。それに伴い、人種・文化的な二項対立の土台が怪しくなる。そこで本論では『ビルマの日々』にみられる、支配者/被支配者、西洋/東洋、男性/女性といった様々な二項対立が、揺らぎをみせはじめた当時のビルマを背景に、そこで展開される優劣の逆転・反転の可能性に注目し、このテクストの分析を試みる。
 小説における支配者と被支配者の描写に目を向けると、その支配構造は複雑性を帯びていることがわかる。例えば、主人公のJohn Floryは白人社会の価値観や掟に反発すると同時に縛られているため、ビルマにおける立場上の支配者でありながら、内的な自由の剥奪と抑圧を受ける。また、ビルマ人が起こした反乱を契機に、現地のイギリス人たちは身の危険を感じるようになり、支配対象であるはずのビルマ人に対して恐怖を抱く。ここで、絶対的だと思われた白人の権威が揺らぎ、彼らは心理的に被支配者となる。こうした状況により、支配/被支配関係の不安定さが示されている。また、Dr VeraswamiやU Po Kyinのような「西洋化されたアジア人」は植民地支配に脅威をもたらす存在として示唆されている。そこで彼らの持つ異種混淆性について、Homi K. Bhabhaが提唱する「擬態」(mimicry)の概念を用いながら考察する。一方、フローリーはイギリス人でありながらビルマの文化や人々に共感を抱いているが、人種間の仲裁者としては機能しない。現地人との交流を通して浮き彫りになる彼の本質や偽善性についても検証する。

②馬朗『琴を燃やした流浪者』における時間・空間表象とその“現代性”

田中雄大(東京大学大学院(院))

 馬朗(本名は馬博良、1993-)は一般的に、1950年代に始まる香港“現代主義”(=モダニズム)文学の先駆けと見なされている詩人であるが、その評価の主な根拠となってきたのが彼の主催した雑誌『文藝新潮』である。『文藝新潮』はその発刊の辞において暗黒の時代において新たな楽園を探し求めることを宣言し、また1956年から1959年の停刊までの間に精力的に同時代の海外文芸を紹介するなど、新しさにより既存の文芸の変革を試みようとした雑誌であり、馬朗の後の回想においても繰り返し“現代主義”の陣地であったことが強調されてきた。しかし、その一方で馬朗の詩テクストに関する先行研究は非常に少なく、また数少ない先行研究も馬郎の詩と1930年代・1940年代の中国モダニズム文学とのつながりを指摘したり、テクストと作家のアイデンティティとの関連を指摘したりというように、正面からその“現代主義”文学としての性質を問うてはこなかった。
 そこで、本発表においては、馬郎の初期の詩(1940年代~1960年代)を収録した詩集、『琴を燃やした流浪者』(焚琴的浪子)のテクストにおける時間および空間に関する表象に注目するところから出発し、馬朗のテクストにおける“現代性”を問い直す作業を通じて、改めて香港“現代主義”というある特定のモダニズム文学の独自性の一端を明らかにしたい。『琴を燃やした流浪者』のテクストにおいては、過去の出来事を指す字句と現在の出来事を指す字句とが並置され、その両者が回想や時系列にそった展開を採らず、ただ併存していることが非常に多い。また空間に関しても「茫漠とした」、「濛々と」といった語句が多用され、空間の範囲や境界が指し示されることは極めて少ない。このような漠然とした時間・空間表象は、『文藝新潮』における新しい楽園を追求する力強さと一見相反するように見受けられるが、こうした曖昧さをそのまま提示することが馬朗にとっての“現代性”という新しさの追求であったと仮定するのであれば、香港“現代主義”の核心は中国モダニズム文学や、同時代の海外文藝といった外部的要素との関連に求められるべきではなく、不確定性の享受という新たな文学のあり方にあったのだという解釈を示すことが可能である。

②  架空の冷戦と文化の残骸 ―アンジェラ・カーター『ホフマン博士の地獄の欲望装置』における間テクスト性―

奥畑 豊(ロンドン大学バークベックカレッジ大学院・東京大学大学院(院))

 アンジェラ・カーターの長編『ホフマン博士の地獄の欲望装置』(The Infernal Desire Machines of Doctor Hoffman, 1972)は、ジョン・バースが1967年のエッセイで指摘した「尽きの文学」の時代を体現する作品である。バースが賞賛するボルヘスと同様、この小説においてカーターは、多様な形式が既に使い尽くされた状況を逆説的に利用することにより、新たな文学の可能性を切り開こうと試みている。実際,古今東西の文学的ないし哲学的遺産に対する膨大な間テクスト的言及によって成り立つ本作品の中で,カーターはフレドリック・ジェイムソンがポストモダン文学の特徴と位置づけたパスティシュの技法を駆使しつつ、そうした文化的「残骸」や「ガラクタ」の山と美学的に戯れ、ナラティヴ全体の「偽物らしさ」(fakeness)を敢えて強調している。
 もちろん,既に多くの研究が『ホフマン博士』と様々な先行テクストとの関係を論じているが、それらはこの小説の背後に潜む重要な政治的/歴史的な背景を見逃してきた。換言すれば、殆どの批評家たちは、決定省大臣とホフマンによる「リアリティ戦争」を描いたこの物語が、実は現実世界における米ソ冷戦や核軍拡競争の壮大なパスティシュであることを看過してきたのだ。のみならず、彼らは作中で両者が語る思想――無数の「サンプル」と呼ばれる装置の組み合わせにより宇宙の全現象が再現可能であるというもの――が,多様な文化的ガラクタのリサイクルによって架空の冷戦の物語を(再)構築しようとした、作者の文学的挑戦とパラレルの関係にあることをも見落としている。
 こうした観点から、本発表では『ホフマン博士』が持つ間テクスト的な作品構造を、上に挙げた小説全体の政治的側面と結びつけて検討する。ここではまず核や放射能の脅威といった問題を扱ったJ・G・バラードの短編との共通点を分析した上で、文化的残骸の集合体であるこの「偽物」の歴史物語において、カーターが人間の生命のみならず文化それ自体が本質的価値を失った核時代の現実世界に対して,如何に応答しようとしたのかを考察したい。

③  「大喜びするのに十分な脳が残されたら!」 ―サミュエル・ベケット『モロイ』の補綴的身体と思考機械―

戸丸 優作(東京大学大学院(院))

 サミュエル・ベケット作品の中で身体性とそれを補う道具は多くの論を生み出してきた。一例を挙げれば、身体性については、ウルリカ・モード(Ulrika Maude)がベケット作品での身体の強調は精神を重んじる西洋文化の伝統に反していることを指摘している(Ulrika Maude, “Beckett, Body and Mind,” The New Cambridge Companion to Samuel Beckett, 2014)。また、田尻芳樹はベケット作品における補綴的道具に着目し、身体器官そのものが補綴的様態をおびていること、そしてその帰結としての各器官を隔てる境界が曖昧になっていくさまを描出している (Yoshiki Tajiri, Samuel Beckett and the Prosthetic Body, 2007)。
 こうした身体性と補綴的道具または機械についてのアプローチを踏まえ、本発表では主に『モロイ』 (Molloy、フランス語による執筆1947、出版1951)を対象とし、まず作中人物の身体と補綴物との関係性を分析する。Tim Armstrong, Modernism, Technology and the Body (1998)などの先行研究を参照しながら、『モロイ』の作中に現れる自転車、松葉杖、おしゃぶり用の小石などといった補綴物と作中人物の身体的変化(主として悪化)あるいはその姿勢・運動との関わりを考察する。その上で、ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(1958)で論じられている「遊び」についての議論を援用し、補綴物と同化した主人公たちの活動を遊びの観点から見ていく。ベケットの他の作品、例えば、英語で書かれた小説『並には勝る女たちの夢』(Dream of Fair to Middling Women, 1934)、『蹴り損の棘もうけ』(More Pricks than Kicks、執筆1932、出版1992)、『マーフィー』(Murphy, 1938)などに登場する遊び(マーフィーのロッキングチェアーが最たる例だろう)との比較を通じて、『モロイ』での遊びの特質を考察する。これらの作業から、補綴された身体が思考と結んでいる関係の一端が明らかになるだろう。また、上記の分析を進める上で、ベケットのフランス語と英語での執筆における文体的差異にも着目し、『モロイ』というテクストの内部でフランス語という(ベケットにとっての)補綴物が果たしている役割を検証する。

④  散種する<死>、輻輳する記憶 ―小説『かあさんは朝鮮ピーだった』から映画『かあさんは朝鮮ピーだった』へ―

李 恵慶(大阪経済法科大学・客員研究員/仙台白百合女子大学(非))

 太平洋戦争が終わってすでに70年以上が経った。しかし東アジアはまだ「戦争」の真っ只中にある。歴史認識をめぐる相違が年々顕著となり、諸国家間の摩擦と衝突が絶えない。それに伴った急激な国民感情の悪化と相互不信は、「歴史戦争」をさらに複雑にさせている。こうしたなかで最も敏感でかつ感情的になっている問題が日本軍慰安婦問題である。この問題をめぐる文化空間での動きは大きく変わりつつある。終戦後、東アジアの文化空間において慰安婦が取り上げられることはほとんどなく、韓国と中国では禁忌とされてきた。だが近年、その状況は一変し、特に韓国では慰安婦を主題化した文化生産物があらゆるジャンルから量産され消費されている。なかでも映画や漫画、ドキュメンタリー、アニメーションなどの視覚文化における発信力と社会的影響力は、東アジアの日本軍慰安婦をめぐる歴史戦争をアメリカ化=世界化させながら、これまでにない困難かつ複雑な状況を生み出している。
 とりあえずそうした流れにおける先駆け的な作品が1982年に発表された尹静慕(ユン・ジュンモ)の小説『かあさんは朝鮮ピーだった』である。初版刊行以来、版を重ねながら繰り返し映画化・舞台化され、今なお慰安婦関連文化生産物の(再-)生産に大きな影響を与えている。一般的に小説の映画化・舞台化に伴った翻案・改作・パロディといった広い意味でのテクスト的な引用には必ず原典に対する独自の解釈が行われ、原作に異議申し立てを行いながら新たな読みを可能にする表象と物語の形式が与えられる。『かあさんは朝鮮ピーだった』もその例外ではなく、そのあり様を詳細に検討することが本発表の主な目的である。そのため、特に1991年に映画化された同名の映画に焦点を当てて、映画化に伴った独自の解釈がどのように行われ、原作のエピソードを反復またはずらしているのか、そしてそれらが日本軍慰安婦をめぐる韓国の国民の感情記憶及び被害者意識に貫かれたナショナリズムといかに結び付けられているのか、テクストの政治学に迫ってみたい。

シンポジアム要旨
 テーマ:アダプテーションの「境界」

                                                           司会・講師:片渕 悦久(大阪大学教授)
講師:鴨川 啓信(京都女子大学教授)   
講師:梶原 克教(愛知県立大学准教授)
      
司会:片渕 悦久(大阪大学教授)

 「アダプテーション」とは何か。少なくとも文学研究に関連する分野では、現在この語は注釈なしに用いられるほど浸透している。だが研究者によりその理解は異なり、議論の余地が残る概念でもある。たとえばアダプテーションをメディアの置き換えを前提とする物語の作り直しとするなら、表現媒体の持つ特質とそれに呼応した物語の形態的相違が主要な論点となるだろう。だがそれでアダプテーションの概念や定義が決まるわけではない。いわゆる実写化やアニメ化と呼ばれる物語の作り直しはアダプテーションなのか。文字媒体のノンフィクションから虚構の物語映画が作られるような場合はどうか。同名のスパイ小説をパロディ的に映像化した1967年の映画『007カジノロワイヤル』などはアダプテーションをめぐる定義の不明瞭さの際立つ事例、映画を元テクストとする小説『2001年宇宙の旅』にいたっては、アダプテーションなのかノヴェライズなのかもはや判然としない事例としてそれぞれ見逃せない。物語の境界線の引き方も問題となるだろう。とりわけ内容の変更や続編等で物語が拡大展開する場合、関連しあう物語群のどこまでを同一である、あるいはアダプテーションとして捉えることができるのか。
 以上のように、アダプテーションに関わる「境界」はさまざまな意味合いで曖昧なままである。このシンポジウムは、「境界」というキーワードを手がかりとして、文字や映像などメディアが持つ性質や、語り直される物語についての考え方等に焦点を当てあらためて議論することで、物語をめぐる現在の文化的状況を整理するための枠組みを提案し、アダプテーションの輪郭に光を当てる試みである。

「アダプテーションとして語る限界―『リチャード三世』の多様な語り直しに関して―」

鴨川 啓信(京都女子大学教授)

 アダプテーションをめぐる議論は、表現媒体が異なるテクストを「同じ」物語の対等な別ヴァージョンとして比較分析する道を示した。その一方、多様に展開する間テクスト的物語作品を整理分類するためにこの概念が用いられる場合、それは他の分類概念との間に境界線を引いて差別化を促すものとしても機能する。
 この発表では、シェイクスピアの史劇『リチャード三世』と、ローレンス・オリビエ版映画アダプテーション、1930年代の英国をモデルとした架空の世界に舞台を移したアップデート的映画版、メタフィクションとしての映画『リチャードを探して』、そしてパロディ的コミック版を取り上げ、アダプテーションという概念を、いわゆるジャンルとして捉えるのではなく、関連テクストを結び付けるための根拠とすることで、その関連性の中に浮かび上がる統合的物語の新しい可能性を示す。

「文字/言語と映像の境界」

梶原 克教(愛知県立大学准教授)

 文学作品を映画にアダプトする場合、そこには越えられない境界がある。それは言語と映像とのメディア差に起因する境界である。たとえば、ジル・ドゥルーズは「映画は普遍的あるいは本来的な言語ではなく言語活動でさえもない」といっている。また、映画作家ジャン=リュック・ゴダールは、「形(フォルム)」を言語化以前の基底に据えて、「ヒッチコックが呪われた詩人として唯一成功したのは、20世紀の最も偉大な形(フォルム)の発明者だからだ」といっている。いっぽう、文学研究者によるアダプテーション論の多くは、原典としての文学作品が持つモチーフやテーマを基準枠として定め、それに従属させる形でのアダプテーション論を展開している。本報告では、コーマック・マッカーシー原作、コーエン兄弟監督の『ノーカントリー』を原典である小説に依存することなく、映像そのものが持つ内在的論理に着目することで、文字/映像メディア間の境界を明示したい。

「アダプテーションから物語更新へ」

片渕 悦久(大阪大学教授)

 すべてのアダプテーションには物語の更新がともなうが、すべての物語更新がアダプテーションであるとは限らない。そもそもアダプテーションの定義を、原作の明示とメディアの置き換えを前提とした物語の作り変えととらえるだけで十分なのだろうか。原作とそこから派生する物語との関係は多様性をはらんでいる。たとえば、ひとつの原作に複数のリメイク作品が存在する場合はどうだろうか。逆にひとつのアダプテーション作品に複数の原作が想定される場合についてはどう考えればいいのか。さらには通常アダプテーションとはみなされない作品間に物語の更新が観察される場合もある。こうしていくつかの事例を分析することは、アダプテーション理論の限界と物語更新理論の可能性を示唆する。本論では、バズ・ラーマン監督『華麗なるギャツビー』、ロン・ハワード監督『白鯨との闘い』、そして『007』シリーズをとりあげ、アダプテーションと物語更新との間に横たわる「境界」について探ってみたい。


テクスト研究学会第16回大会プログラム

日時:2016(平成28)年8月26日(金)10:20~17:10(受付9:50から)
会場:関西大学(千里山キャンパス)第一学舎A棟501教室(控室:A502教室)
  〒564-8680 大阪府吹田市山手町3丁目3番35号   Tel. 06-6368-1121(代)
  アクセス:阪急電鉄・千里線「関大前駅」下車、徒歩5分。
 (http://www.kansai-u.ac.jp/global/guide/access.html#senri)

◇受  付: 9:50~ (第一学舎A棟501教室付近)
◇開会の辞:10:20~ (第一学舎A棟501教室)・・・・

井上義夫(会長・一橋大学名誉教授)

◇研究発表:10:30~ (各発表:20分、質疑応答:10分)
 午前の部(A棟501教室)➀~③10:30~12:00     

司会:吉村耕治(関西外大名誉教授)

➀10:30~ 「アイデンティティの追求により生じる自己欺瞞 ―理想と現実の間で葛藤する『夜想曲集』の登場人物―」   

岩本朱未(武庫川女子大学(院))

②11:00~ 「現実と理想の融合 ―Howards Endにおける現実描写―」
                  

松林(西川)和佳子(京都女子大学(院))
               司会:武田美保子(京都女子大学教授)

③11:30~ 「アンジェラ・カーターとジャン=ジャック・ルソー ―『英雄たちと悪漢たち』における核争後の世界―」    

奥畑 豊(東京大学(院))

昼食・休憩(12:00~13:00)

◇研究発表:13:00~ (各発表:20分、質疑応答:10分)
 午後の部(A棟501教室)④~⑦13:00~15:00     

司会:武田美保子(京都女子大学教授)

④13:00~ 「Mauriceに見るE. M. Forsterの慎重な気質と理想の愛」

須貝綾子(フェリス女学院大学大学院研究生)
司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

⑤13:30~ 「ノスタルジアという病 ―18~19世紀スコットランドのハイランド地方における『クリアランス』へのアン・グラント夫人の抗議―」

 林 智之(和歌山大学講師(非))
   司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

⑥14:00~ 「『ウォルシンガム』における異装と財産継承」

廣田 美玲(東京芸術大学講師(非))

⑦14:30~ 「テクスト理論はなぜ現代において再評価されなければならないのか ―現代的『テクスト』に対する偏向的認識を越えて―」

                          鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

休憩(15:00~15:15)

◇特別講演 15:15~16:50(A棟501教室)(講演:80分、質疑応答:15分)

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

テーマ:「G・I・グルジェフをめぐるテクスト群」

講師:浅井 雅志(京都橘大学教授)

◇総  会 16:50~17:00(A棟501教室)
◇閉会の辞 17:00~ (A501教室)・・・・・・・

玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)

◇懇 親 会 17:40~19:30(「関大前」駅近くのレストラン)各自が注文したものを支払うシステム
 *発表者・大会参加者の控室としては、A501教室の後部スペースとA502教室をご利用ください。
 *昼食については、第1学舎食堂、総合学生会館食堂・3階コンビニがご利用いただけま す。
 *問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(吉村耕治E-mail: p925122[at mark]kansai-u.ac.jp)

 

【発表要旨】

◇研究発表要旨

① 「アイデンティティの追求により生じる自己欺瞞 ―理想と現実の間で葛藤する『夜想曲集』の登場人物―」                     

岩本朱未(武庫川女子大学(院))

 Kazuo Ishiguroの短編集Nocturnes(2009)には、理想と現実の狭間で ‘identity’ というものの所在に迫ろうとする人物が5話それぞれに登場する。本発表ではその5話のうち、その自分自身を追及する人物が際立って描かれていると考える第1話 ‘Crooner’、第4話 ‘Nocturne’、第5話 ‘Cellists’ の3話を取り上げることにする。
 3話ともに共通して見られるのが音楽に関心のある者が登場するところだ。‘Crooner’ に登場するTonyは、もう一度晴れの舞台に立ちたいとする自らの理想のため、愛する妻Lindyとの離婚を決意する初老の歌手だ。‘Nocturne’ に登場するSteveは自らを売り出すため、初めこそ社会に迎合するようで否定的だった顔面の整形を、結局は決意するテナーサックス奏者だ。そして ‘Cellists’ に登場するのは自らの才能を十分に活かす道を妥協するふたりのチェロ弾きである。
 物語の中で、彼らはいずれも今後の生き方を決めるような選択をする。しかし本当に、彼らは自身にとって満足のいく決断を下すことができたのか。この問いを念頭に彼らの語りに注目すると、その決意の前後ではそこにずれが生じていることがわかる。なぜなら自ら下した決断の後にもかかわらず、彼らは言い訳や後悔を明らかにするからだ。するとその満たされない思いの原因はどこにあるのか。私はそれを、彼らが ‘self-deception’(自己欺瞞)に陥ったことにあると考察する。
 またIshiguro自身も「自己欺瞞を描くことに興味があった」と彼の講演の中で語っている(柴田元幸編集、2015年、『MONKEY』Vol.7、スイッチ・パブリッシング)。これをIshiguro本人が自らの文学を解析した注目すべき発言であると捉え、 ‘self-deception’ というものが彼の作品全体に通ずる重要な概念であると言えるのではないかと私は考えている。そしてこの短編集Nocturnesを ‘self-deception’ を多方面から描いた物語集であるとして分析し、Ishiguro文学に浸透する‘self-deception’ という概念の作用について迫りたい。

②「現実と理想の融合 ―Howards Endにおける現実描写―」

 松林(西川)和佳子(京都女子大学(院))

 E. M. ForsterのHowards End (1910) は、Schlegel家に代表される知的中産階級を中心に、Wilcox家が体現する実業界、Leonard Bastが体現する下層中産階級、さらにハワーズ・エンドの所有者Ruth Wilcoxが象徴する自然豊かな田園地帯など、当時の英国に存在する多様な現実世界を描き出し、これらをいかにして相互に融和させ、それぞれの違いを受け入れることの出来る理想的な世界を構築するかを探求している。異なる価値観の対立と融和は、フォースターが一貫して取り組み続けた小説のテーマであるが、『ハワーズ・エンド』以前の作品では、問題解決の可能性は土地の霊や異文化との接触を用いて表現されることが多かった。『ハワーズ・エンド』に至って、自身のテーマを当時の英国現代社会の枠内で追求した作者の試みは出版当初より高く評価されているが、その一方で、登場人物の造詣に深みがない、物語中の出来事や結末に蓋然性が欠けているなど、不十分な現実描写に不満を訴える批評家がいることもまた事実である。しかし、現実世界に鏡を掲げて映し出すようなありのままの現実模倣をフォースターが小説に求めていなかったことは、後の小説論Aspects of the Novel(1927)からも明らかであり、現実らしさが希薄だという印象は、作者が意図した小説の効果なのではないかと思われる。というのも、そこには、小説という手段を用いて読者の現実に対する感覚を揺るがし、現実社会の認識を変革したいというフォースターの意気込みが潜んでいるように感じられるからである。
 本発表では、『小説の諸相』に見られるフォースターの小説観を参照しつつ、『ハワーズ・エンド』における現実描写を分析し、現実味を欠く描写が、現実逃避ではなくむしろ現実と真剣に向き合おうとする姿勢から生じていることを明らかにしたい。そして、同性愛者として当時の社会に閉塞感を抱いていたに違いないフォースターが、束縛のない理想郷を、日常とは次元の異なる世界にではなく、日常世界の中に見出そうとしたその新たな試みについて考察する。

③「アンジェラ・カーターとジャン=ジャック・ルソー ―『英雄たちと悪漢たち』における核争後の世界―」

                            奥畑 豊(東京大学(院))

 核戦争後のディストピア的世界を描いたアンジェラ・カーター(1940-1992)のSF風長編『英雄たちと悪漢たち』(Heroes and Villains, 1969)は、作者によれば1950年代以降の冷戦下で流行していたポスト・カタストロフィ小説に影響を受けた作品である。しかし彼女は同時にこのテクストを、ジャン=ジャック・ルソーの社会思想の文学的パロディとしても位置づけている。
 これまでの研究では殆ど明らかにされてこなかったが、『英雄たちと悪漢たち』はルソーの『人間不平等起源論』を、核戦争後の世界という特異なコンテクストに置いて批判的に検討した小説として捉えることが可能である。具体的に言えば、カーターはルソーが示唆した人間の文明化/堕落の過程を、核戦争後の人間の三つの種族――プロフェッサー、バーバリアン、アウト・ピープル――に投影して表象したのである。宗教的議論から一定の距離を置くルソーと対照的に、彼女は核戦争を「人類の原罪」と見做し、戦後の人々の姿を「人間の堕落」と結びつけているが、
彼女は敢えて作中で「核」という言葉を一度も用いないことによって、人間の原罪としての核戦争がもはや忘却された過去でしかないことを暗示しているのだ。
 カーターはルソーの理論をフェミニズム的視点から批判的にパロディすることを通して、暴力や性的抑圧、そして不平等に満ちたディストピア世界を描き出しているのみならず、「原罪」という過去を忘れた核戦争後の人類が、もはや未来を構築し得ないことを示唆している。テクスト中に見出される「静止した時間」や「時間の概念の喪失」といったモティーフからも分かるように、彼女は人間の歴史の終焉した世界――つまりは人間がもはや歴史を作ることが出来ない世界――を表現しようと企図していたのである。こうした観点から、本発表ではプロフェッサー、バーバリアン、アウト・ピープルというそれぞれの種族とルソーの議論との関係性を分析しつつ、カーターがこの小説内でどのように「核戦争後の人間」という主題を扱ったのか明らかにしていきたい。

④「Mauriceに見るE. M. Forsterの慎重な気質と理想の愛」

 須貝 綾子(フェリス女学院大学大学院研究生)

 Mauriceの主たる3人の同性愛者のうち、Maurice Christopher Hallは自分の性的な傾向に、ケンブリッジ大学での1歳年長のClive Durhamによって気づかされる。二人の関係はプラトニックなものだったが、Cliveの気持ちが突如異性愛へと変化し、Mauriceは懊悩する。しかし、彼はCliveの屋敷で出会ったAlec Scudderと恋仲になり、同性愛を貫くためにCliveのもとを去る。 
 以上の作品のあらすじから、同性愛者であったForsterをMauriceに近いと考えがちだが、MauriceとCliveを比較検討していくうちに、その性格や知性などの点でForsterがCliveにより似通っているという思いが強くなる。その点を、まずMauriceとCliveの違い、次にCliveとForsterの類似点ということから考察する。MauriceとCliveは作中で表象しているものがそれぞれ自然と理性であり、そのような違いから、求める愛情の形も違ってくるが、片や、ForsterとCliveは古代ギリシャへの愛好心やケンブリッジに代表されるイギリスの良心という点を共有している。そしてForsterとCliveが感じる社会に対する責任感は、両者が自らをイギリスを牽引する階級であると自負するところにつながる。
 ここから、Forsterは異性愛に転向したCliveにあえて自身を似せることにより、自分の同性愛者としての立場をカムフラージュしたのではないかという推論が成り立つ。そして、David Leavittが「MauriceはForsterがこうありたいと望む人物ではなく、Forsterが欲する人物なのだ」と述べているように、Forsterが希求した恋愛関係は、AlecとMauriceのように本能がおもむく関係であり、なおかつ自らと異質なものを結びつけるものだったのではないだろうか。この結論を導き出すために、物語の終盤でMauriceが待宵草と関連付けられることに着目し、Forsterの他作品における花のモチーフも検証しながら論を進めたい。
 Forsterは50代以降は小説の筆を折り、第二次世界大戦中は特にその抑えた論調の言説で人々に影響を与えてきた。しかしながら、同性愛者としての彼の立場は決して公言されることはなく、自身の性的嗜好を探求したMauriceや短編も生前出版されることはなかった。このような彼の動向は、Mauriceから透けて見えるForsterの因習への配慮を怠らない性格や、それにもかかわらず奔放で向こう見ずな彼の恋愛観を考慮すると納得がいくものである。よってMauriceを通してForsterの思考の道筋や理想とする人間関係を探ることは、Forsterの全体像を研究する上で彼にまつわるもろもの事象の裏打ちになるものを探ることになり、有意義なことであると確信できる。

⑤「ノスタルジアという病 ―18~19世紀スコットランドのハイランド地方における『クリアランス』へのアン・グラント夫人の抗議―」

              林 智之(和歌山大学講師(非))

 英国のアン・グラント夫人(1755-1838)の執筆した「ハイランドの人々(“The Highlanders”)」(1808)という詩の技巧を私は論じたい。彼女はこの詩で “Return No More”というハイランド現地の移民歌を使い、共感を訴えて、スコットランドのハイランド地方での地主による民衆の追い出しに抗議した。
 18世紀末~19世紀半ばにかけて、ハイランド地方の地主は牧羊業の土地の確保し利益を上げるため、土地の賃貸料を上げて小作人を追い出した。その結果多くの民衆が移民となって英国を去り、この人口流出は「クリアランス」と呼ばれる。当初、地主たちの影響力を恐れほとんど反対はなかった。
 対抗して、彼女は移民たちのノスタルジアを強調した。重要なのは、18~19世紀ノスタルジアは現代と違い、時に死に至る病だったことだ。病名は医師ヨハネス・ホーファーが1688年ギリシア語で命名し、18世紀に気鬱と区別され病気として定着した。この病は、移民たちの悲痛な叫びを表現している。
 例えばこの詩で、移民たちの歌“Return No More”は「国外にいるスイス人がラン・デ・ヴァ―シュ(Ranz des Vaches)を聴くのと同様に、このハイランドの歌は国外のハイランドの人々の、ノスタルジアを悪化させる」とある。
 この描写は、フランス文学者ジャン・ジャック・ルソ―の『音楽辞典』(1766)の「国外にいるスイス人が故郷の牛追いの音楽ラン・デ・ヴァ―シュを聴くとノスタルジアの病を悪化させる」という叙述を参照している。アン・グラント夫人はハイランドの問題を辺境のものとせず、英国内外に広く知らせた。
 この詩の出版後、追い出しはより過激になった。1810年代には立ち退き拒否の住居の打ち壊しや放火で死者が出た。アン・グラント夫人は、1811年に再び『ハイランドの人々やその他の詩(The Highlanders and Other Poems)』と表題にこの詩を入れて新たな詩集を出した。そして英国の世論は、ハイランドの地主たちの「クリアランス」に対しやっと非難の声を上げたのだ。
 つまりアン・グラント夫人は、この詩において、音楽の効果に注目した当時の最新の医学を利用し、地元の歌を使って離散した人々の心の痛みを表現した。この音楽と病の関係に注目して、彼女の詩を考察したい。

⑥「『ウォルシンガム』における異装と財産継承」   

廣田 美玲(東京芸術大学講師(非))

 当時の画壇の寵児とも言うべきジョシュア・レノルズやトマス・ゲインズバラなどに肖像画を描かれ、その美貌で18世紀末のイングランド社交界を魅了したメアリ・ロビンソン(1757-1800)は、デイヴィッド・ギャリックに発掘され女優デビューを果たし、S.T.コールリッジに詩人としての才能を認められ、さらに小説も執筆した才能溢れる女性であった。彼女の舞台を見て、その容貌に魅了された当時の皇太子(後のジョージ四世)は彼女を愛人にすることを決意した。皇太子との離別後もロビンソンは、チャールズ・ジェイムズ・フォックスやバナスター・タールトンといった著名人との浮名を流し、風刺画にしばしば登場する悪名高いセレブリティーになった。
 ロビンソンが1797年に出版した小説『ウォルシンガム』はゴシック小説の枠組みを利用し、男性に異装した女性(サー・シドニー)が財産を継承しようという斬新な問題が書き込まれている。当発表では、波乱万丈の生涯を送ったロビンソンの伝記的事実の紹介をするとともに、彼女と交流があったメアリ・ウルストンクラフトの財産継承に纏わる言説と、『ウォルシンガム』におけるそれとを比較し、サー・シドニーのモデルになったと言われている実在したフランスの外交官でスパイでもあった男装の女性、シュヴァリエ・デオンの存在も手掛かりに、ロビンソンが当作品に込めた女性と財産相続権という問題について考察したい。

⑦「テクスト理論はなぜ現代において再評価されなければならないのか ―現代的『テクスト』に対する偏向的認識を越えて―」                 

鳥飼 真人(高知県立大学准教授)

 本発表の目的は、現代テクスト理論に対する再評価の意義を確認することにある。これまで国内外を問わず、テクスト理論に関する項目を含む文学理論解説書は数多く出版されてきたが、それらの中で高い評価・信頼を受けているものにさえ、以下のような、テクスト理論に対する不適切な理解を引き起こしかねないのではないかという不安を招くような解説が含まれている。(1)現代的テクストの概念が「全く新しい」ものであると宣伝しておきながら、それと旧来のテクストの定義すなわち「テクストとは頁上の文字群である」という意味説明との区別が明示されていない、(2)テクスト理論が「読者の誕生」を宣言するものであるにもかかわらず、テクストの生成領域を作者の手中から解放しきれていない、(3)テクスト理論を展開する学者たちの難解な言説とただ文字通り戯れているに過ぎない。こうしたいわば不十分ともいえる解説=解釈が生じる理由として、以下のことが考えられる。(A)従来のテクスト理論解説は、テクストの概念を言語学的観点から捉えるに留まっているという印象を受ける。現代における「テクスト」のあり方は、その言語学的性質だけでなく、批評=読むことの「方法」と不可分に関わっていると考えることによって初めて明確となる。さらに、(B)上記の言語学的テクスト観の形成と不可分に関係する、構造主義からポスト構造主義への移行に対する文学批評家の認識の多くが偏向的に過ぎるのではないかと考えられる。これらの諸問題を提起することの妥当性を確保し、テクスト理論に対するより適切な(と発表者が考える)理解へ向かうために、本発表では、ロラン・バルトが提唱するテクスト理論を中心に、現代の文学批評に多大な影響を与えた構造主義者・ポスト構造主義者の言説を再検討することを通じて、ポスト構造主義的転回に起因するテクストの現代的概念が、現代においてなぜ再評価される必要があるのか、その根拠を明示する。

◇特別講演要旨
「G・I・グルジェフをめぐるテクスト群」         

講師:浅井 雅志(京都橘大学教授)

 種々あるテクストの中でも、文学というテクストは人間のありようを描くことを主たる目的としてきた。これは、例えば哲学のテクストが真・善・美とは何か、あるいは人間とは何かを論じ、宗教や道徳・倫理などが人間はいかに生きるべきかを説くのに対して、文学の際立った特徴となっている。そこで描かれる人間の容態はさまざまだが、ここではその「悲惨」に焦点を当てたい。しかしここでいう「悲惨」は通常に使われるものではなく、人間の存在そのものにかかわる悲惨、つまりその生と意識の希薄さである。この点をさらに明瞭に見るために、神秘主義、あるいは霊学とか永遠の哲学と呼ばれる伝統を補助線として考察してみたい。
 古来霊学は、現在のみがすべてであり、その瞬間の恩寵を、その奇蹟を感じることこそが真に生きることだと説いてきた。それをアラン・ワッツは簡潔にこう述べている。「真実すなわち生ける現在の自覚とは、どの瞬間においてもその瞬間の経験がすべてだということを発見することである。生きる技術とは、あらゆる瞬間に敏感になりきることだ。その瞬間を全く新しい唯一のものととらえ、心を開き、完全に受容的になるのである」。むろんこれは至難の業だが、永遠の哲学は、何としてもこの意識状態を獲得したいと思う一群の人々によって始められ、継承されてきた。
 この講演では、19世紀から20世紀にかけて生きた謎の多い霊的指導者であるグルジェフが、これをどのように達成しようとしたのか、そして彼の教えに対して、同時代の人々はどう反応したかを述べてみたい。まず文学作品から、人間の意識の希薄さ、およびそれが何らかのきっかけで急激に変化する様子を描いたものを取り上げ、そのあとでグルジェフの生涯と思想を簡潔に紹介し、それに対する、主として英語圏の知識人たち、A・R・オラージュ、K・マンスフィールド、D・H・ロレンスらの反応を述べ、そうしたテクストの絡み合いの中から、グルジェフが何を、どのようにして達成しようとしたのかを考えてみたい。

テクスト研究学会第15回大会プログラム

日時:2015(平成27)年8月28日(金)10:30~17:10(受付10:00から)

会場:関西外国語大学(中宮キャンパス)ICC4階ICCホールと音楽室

 〒573-1001 大阪府枚方市中宮東之町16番1号   Tel. 072-805-2801 (代)

 アクセス:京阪電車「枚方市駅」下車
      京阪バス「北3番」か「北4番」より「関西外大前」下車(約8分)
      ※バスは5分以内おきに出ています。
     ※ICCは「関西外大前」より200m手前です。

◇受  付 10:00~ (ICC4階ICCホール・音楽室付近)

◇開会の辞 10:30~ (ICC4階ICCホール)・・・・・・・

井上義夫(会長・一橋大学名誉教授)

◇研究発表 ➀10:40~11:15、②11:15~11:50(発表:20分、質疑応答:15分)

 第1室(ICC4階ICCホール)              

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

  ➀10:40~ 「“The Black Madonna”のまなざし ―LessingとSparkの短編から―」

                         畑中杏美(国士舘大学講師(非))

  ②11:15~ 「E. M. Forsterの小説における理論と実践 ―Margaret SchlegelとMoll Flandersの人物造形比較―」

      須貝綾子(フェリス女学院大学(院))

 第2室(ICC4階音楽室)            

司会:清水伊津代(元近畿大学教授)

  ➀10:40~ 「動物と人間のあいだ―身体と法から読むThe Island of Doctor Moreau分析―」

中村晴香(京都女子大学講師(非))

                           司会:荒木映子(龍谷大学教授)

  ②11:15~ 「ロラン・バルトのテクスト理論再考 ―文学研究者、文学教育者の視点から―」

   鳥飼真人(関西大学講師(非))

 【 昼食・休憩(11:50~13:00)】

◇研究発表 ③13:00~13:35、④13:35~14:10(発表:20分、質疑応答:15分)

 第1室(ICC4階ICCホール)             

司会:井上義夫(一橋大学名誉教授)

  ③13:00~ 「過去の鎖と幻 ―ジョン・ファウルズ『フランス軍中尉の女』をめぐって―」

中妻 結(東京女子大学講師(非))

  ④13:35~ 「ラズモフは解放されたのか ―ジョウゼフ・コンラッド『西欧人の眼に』(1911年)における語りの「軽さ」とラズモフの告白を統御する戦略―」

田中和也(佛教大学専任講師)

 第2室(ICC4階音楽室)                

司会:鈴木章能(長崎大学教授)

  ③13:00~「ラフカディオ・ハーンの再話テクストにおける翻訳性―「収集」を手がかりに―」

                          木田悟史(三重大学特任准教授)

                         司会:吉村耕治(関西外大名誉教授)

  ④13:35~ “The Essay and the Hourglass: One Way to Teach Basic Essay Organization”

Stephen Shrader(関西外国語大学准教授)

 【 休憩(14:10~14:25)】

◇シンポジウム 14:25~16:45(ICC4階ICCホール)

 テーマ:「ジョン・ラスキンのスタイル」

                  司会・講師:川端康雄(日本女子大学教授、英文学)
                     講師:虹林 慶(九州工業大学教授、英文学)
                     講師:真屋和子(慶應義塾大学講師(非)、仏文学)
                     講師:花角聡美(一橋大学講師(非)、英文学)

◇総  会 16:50~17:00(ICC4階ICCホール)

◇閉会の辞 17:00~ (ICC4階ICCホール)・・・・・

玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)

◇懇 親 会 17:30~19:30(7号館・厚生北館・2階第2食堂)  会費:4,000円

 *研究発表者・大会参加者の控室としては、ICC4階音楽室の後部スペースをご利用ください。

 *昼食についてはICC1階レストラン、7号館1階第1食堂・2階コンビニがご利用いただけます。

 *問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(関西外大内、吉村耕治研究室、内線1058)

 *大会会場へのアクセスは関西外国語大学HPもご参照下さい。   
 (http://www.kansaigaidai.ac.jp/)。
 

【発表要旨】

●研究発表

第1室(ICC4階ICCホール)①
「“The Black Madonna”のまなざし ―LessingとSparkの短編から―」

畑中杏美(国士舘大学講師(非))

 本発表では、Doris Lessing(1919-2013)とMuriel Spark(1918-2006)が書いた、“The Black Madonna”という同一の題名の短編2編を中心に比較考察する。Lessingは5歳から30歳までを南ローデシア(現ジンバブエ)で過ごしたイギリス人作家である。また、Sparkも、結婚後の7年間を同じく南ローデシアで過ごした。Lessingの作品はアフリカ、Sparkの作品はイギリスを舞台にした物語ではあるが、両作品とも人種と性の問題が読み取れる物語となっている。
 Lessingは植民地における白人社会の男女関係の様相を批判している。舞台となるのは“Zambesia” という名前が付けられたアフリカの国である。第二次世界大戦が終息に向かうなか、釈放されたイタリア兵Micheleとドイツ軍のCaptain Stockerはある仕事を任され、3週間を共に過ごす。MicheleとCaptainはお互いに対し友情に似た気持ちを抱くようになるが、Micheleが黒い肌の聖母を描いたことで、関係性に歪みが生じていく。この短編には現地の女性たちが登場しないが、Lessingは彼女らをあえて物言わぬ存在にし、現地の女性たちの性が所有され交換されていた状況を浮かび上がらせたのだと思われる。
 一方、Muriel Sparkの作品の舞台はイングランドである。LouとRaymondの夫婦は、ジャマイカから来た工場労働者と友人になる。37歳のLouには子供が居なかったが、ジャマイカ人たちを家に招き弟のように可愛がり、黒人も白人も平等だと話していた。夫妻が通う教会には、The Black Madonnaの像があり、その像に子宝を願ったLouは、晴れて懐妊する。しかし、生まれてきた女の子はなぜか黒い肌をしていた。赤ん坊は夫妻に拒絶され、養子に出される。Sparkの短編にはアフリカもアフリカの人々も登場しない。しかしSparkがこのような短編を執筆したのはLessingと同じくアフリカで暮らした経験が素地となっているものと思われる。Lessingのデビュー作、The Grass Is Singing (1950)でもほのめかされているように、白人女性が現地の男性と関係をもつことに対して、白人植民者たちは嫌悪感をあらわにしたのである。
 以上に示した2つの短編を中心に、口頭発表では両作家による他のアフリカについての物語についても触れながら、アフリカでの経験が2人のイギリス人作家に与えた影響についても考えてみたい。

第1室(ICC4階ICCホール)②
「E. M. Forsterの小説における理論と実践―Margaret SchlegelとMoll Flandersの人物造形比較―」

須貝綾子(フェリス女学院大学(院))

 E. M. ForsterはAspects of the Novelで小説の登場人物を、その人物の一面しか描かれない「平面的」人物と、多面的な要素を持ち変化する可能性を秘めた「立体的」人物とに分けている。そして「立体的」人物の方が、登場人物としてはより発展したものだと述べている。しかし、Howards EndのMargaret Schlegelには、小説中変わらぬ首尾一貫性が感じられる。具体的には、それは、Margaretの妹Helen Schlegelに対する終始変わらぬ愛情、実務の世界を代表するHenry Wilcoxと精神の世界を代表するHelenとの間に立とうとするMargaretの姿勢などに表わされている。
 この一貫性は、Forsterが創作上では深みに欠けるとしている「平面的」な側面とも考えられるが、Forsterがそのような人物を主人公に据えたのはなぜだろうか。この疑問を考察するために、ForsterによるMargaretの描写を検証していくが、同時に彼がAspects of the Novelで取り上げているDaniel DefoeのMoll Flandersも視野に入れてみたい。なぜならば、Forsterが小説という虚構の世界で充分存在感を感じることができると言っているMollと、小説の牽引役としてのMargaretには共通点があるように思われるからだ。
 以上のことを踏まえHowards EndとMoll Flandersを比較したとき、両者の主人公の描かれ方、またその二作品の性格から、イギリス文学の伝統である「教訓もの」として両作品をとらえることでこの二作品をつなぐことができるのではないだろうか。Margaretには、中道を良しとするForsterの代弁者としての役割が与えられ、Moll Flandersにも、作品を通して読者が何らかの教訓を読み取ってもらいたいというDefoeの意向が感じられるからだ。そして、そのように二作品をとらえた場合、ある意味で、平面的な人物が「教訓もの」には必要な人物造形ではないかという結論が導き出せると考えている。

第2室(ICC4階音楽室)①
「動物と人間のあいだ ―身体と法から読むThe Island of Doctor Moreau分析―」

  中村晴香(京都女子大学講師(非))

 H.G. Wells がThe Island of Doctor Moreau (1896)の中で描く「動物人間 (beast people)」は、「動物と人間をいかに区分しうるか」という問いを読者に投げかける。当時、Charles DarwinのOn the Origin of Speciesから派生した退化論が流行する中、ウェルズのこの小説は人と動物の区分と医科学との関係という、きわめて今日的な問題に対峙していると考えられる。
 本発表では、ウェルズによって描き出される強制的に急激な進化を強いられた動物たちと人間との「差異」を、身体と法の観点から考察する。また、こうした差異化しようとする行為が内包する恣意性についても明らかにしていきたい。動物と人間との間の本質的違いに焦点を当てることで、違いを定める基準それ自体が孕む矛盾についても検討する。
 まず、ウェルズの描き出す「動物人間」たちの奇怪な姿が、違和感を与えながらも人間として受け入れられるという点に注目する。主人公Edward Prendickは動物人間たちの姿から、動物的要素を感じ取るにもかかわらず、彼らの属性を動物ではなく人間と認識するに至る。この判断は、様々な要素によって導きだされるが、主人公が重要視する外見的要素は、判断基準として一貫性を持たないことが示され、彼自身が持つ人間の定義の曖昧性を示すものとなっている。また、身体による基準化の不十分さが露呈するなかで、人間と動物を隔てるものとして機能する法の役割に目を向ける。彼らの人間性は、法を唱えることによりかろうじて維持されるが、絶えず動物性へと退化をとげる傾向がある、きわめて不安定なものである。だからこそ、その法は絶えず唱え続けられなくてはならない。このように、彼らを人間/動物として定義づけるために身体と法が召喚されるが、こうした基準自体がきわめてあいまいで恣意的なものに他ならないことを『モロー博士の島』の分析を通して明示したい。

第2室(ICC4階音楽室)②
「ロラン・バルトのテクスト理論再考 ―文学研究者、文学教育者の視点から―」

鳥飼真人(関西大学講師(非))

 本発表はバルトのテクスト理論に対する研究者としての学術的追求に留まらず、大学教員として文学批評を学ぶ学習者に適切かつ分かりやすく伝えるために、発表者自身が当該の理論に関する知識をいかに理解すべきかを考えるためのものでもある。バルトのテクスト理論は、その難解さゆえに多くの評論家や学者によって解説されている。それら解説の中からいくつかを取り上げてその内容を集約すると、以下のように述べることができる。元来作品に書かれた本文を意味するテクストという語に、いわゆる「学際的」概念を付与したのがバルトであると言われる。これによって我々の研究対象は、作者が生み出した言葉としての作品本文ではなく、我々が現に用いているあらゆる言葉と共に織り上げられた「織物(テクスト)」として捉えられ、学術的範疇を越えて様々な言表=記号表現との関係の中に置かれる。このような考えに至った瞬間から、我々の研究は消費から生産的所作へと転じる。本発表で取り上げられる問題は、上記の解説がバルトの考えるテクストのあり方をむしろ曖昧なものにしているということである。学際性や言葉(言語表現)の相互連関性とは、単にテクストの持つ性質にすぎず、バルトが言わんとするテクストとはそもそも何であるのかを明言するものではない。さらに上記の解説は、現代的な「織物(テクスト)」という概念が旧来の作品本文(テクスト)の概念に取って代わったという大きな誤解を招きかねない。この問題を考えるため、本発表では「作品からテクストへ」の中でバルトが提示するテクストに関する七つの「命題=提言」を読み直すことによって、バルトの提唱するテクストの概念を改めて検討する。その上で、バルトのテクスト理論が前世紀の遺物などではなく、現代の文学研究のみならず文学教育を考える上でも今なお重要な役割を担うものであることを再確認する。

第1室(ICC4階ICCホール③
「過去の鎖と幻 ―ジョン・ファウルズ『フランス軍中尉の女』をめぐって―」

中妻 結(東京女子大学講師(非))

 John FowlesのFrench Lieutenant’s Woman (1969)は、ポストモダンの理論をフィクションとして小説の枠組みにはめた作品である。出版と同時に人気を博し、1980年~90年代には多くの批評がなされた。この作品以降、特にヴィクトリア朝の作品や史実を、現代の理論から照射し変形を加えて語る歴史小説が量産されることになる。本発表は、いわばヴィクトリア文学・文化を書きなおす現代作品の教科書であるこの作品が、ポストモダンの理論特にintertextuality、及びフェミニズム理論を忠実にフィクション化した作品であることを指摘する。ダーウィンの『種の起源』を始めとする科学的文献から文学作品、絵画に至るまでの様々な過去のテクストが、現代的言説と交じり合い交差する現象は、この作品の舞台に幻想的な雰囲気を与えている。加えて、ヴィクトリア朝の小説が表面的には隠蔽してきた、社会理念から逸脱した女性として描かれるヒロインのSarahは、ありのままの自然体の女性でありながら、同時に現代と過去の境界を踏み越えるミステリアスな存在である。様々なテクストを模倣しながら、現実とテクストの相違が積み重なることで、この小説の過去だか現在だかわからない曖昧模糊とした現象を生み出している。
 一方で、過去のテクストがまるで精巧にできた絨毯のように織り込まれるこの作品では、織りなすテクストの先頭に立つこの現代的な作品でさえも、いずれは過去のテクストの鎖に加わると描いている点は注目に値する。新しい語りの試みであったはずのこの小説には、既に同時代の理論がいずれは過去の遺産となることを意識しているかのような描写があるのだ。本発表では、増え続けるヴィクトリア朝現代歴史小説の潮流を経た(あるいは、その途中である)現在から振り返って、既に出版から40年以上たった作品がどのような意義を持つのか考えてみたい。

第1室(ICC4階ICCホール④
「ラズモフは解放されたのか ―ジョウゼフ・コンラッド『西欧人の眼に』(1911年)における語りの「軽さ」とラズモフの告白を統御する戦略―」

田中和也(佛教大学専任講師)

 ジョウゼフ・コンラッドの『西欧人の眼に』は彼の代表作のうち一つとされるが、そうした高評価の大きな理由として、語りの技法があげられる。この小説では、フレーム・ナレーターであるイギリス人語学教師が、ロシア人の主人公ラズモフの日記を解読して語るという、コンラッド好みの枠物語が採用されている。加えて、語りをさらに重層的にしているのが、ラズモフが実はロシア官憲のスパイとして革命家たちに潜入していたという正体が、作品後半までは読者に伏せられているという点である。こうした複雑な語りの構造が理由で、『西欧人の眼に』ではコンラッド作品中でもとりわけてナラトロジー批評が盛んである。だが、それら語りに着目した先行研究に共通しているのは、この小説内容を重厚であるとみなしていることである。その背景には、この作品では作者コンラッドが嫌悪していた帝政ロシアが登場するという伝記的要因や、ロシアの官憲とそれに反抗する革命家たちが登場するという歴史的・政治的要因、主人公のラズモフが最後には革命家たちに自分の正体を告白して心身に傷を負うという悲劇的な結末が関係していると考えられる。しかし実はこの小説には、作品の中心である主人公ラズモフの語りを封じ込める戦略があり、その結果この小説には軽快な一面さえ見出せると私は考える。具体的には、ラズモフが革命家たちの騒動に巻き込まれるきっかけである爆破テロ前後の描写や彼のスパイ時の描写が、作品最後の彼の告白の場面やそれ以後の場面に反復されたり布石になっていたりすることに注目したい。また、ラズモフとその他登場人物との間、特にピーター・イヴァノビッチとの間には分身関係も見いだせる。これらの要素ため、ラズモフは告白によってそれまでの虚偽の自分から解放されたとは言い切れず、彼の告白自体がパロディ化されていると意味づけられる。本発表では、そうしてラズモフの告白を統御する語りのメカニズムを考察しつつ、多義的に見える彼の告白の効果を再考察し、なおかつコンラッドらしい語り口について考えてみたい。

第2室(ICC4階音楽室)③
「ラフカディオ・ハーンの再話テクストにおける翻訳性 ―「収集」を手がかりに―」

      木田悟史(三重大学特任准教授)

 ラフカディオ・ハーン (Lafcadio Hearn) は熱心な収集家だった。作家として本格的に活動を始めたニューオーリンズでは、そこのクレオールたちからことわざや格言を集め、『ゴンボ・ゼーブ』(Gombo Zhèbes, 1885) という小さな辞書を編んだ。さらに、同年に出版された『クレール料理』(La Cuisine Creole) は、その名の通り、クレオール料理のレシピ集である。1890年に来日してからも、収集はやめなかった。むしろ、執拗さを増したと言える。護符や煙管など形のあるものだけでなく、日本人女性の名前や仏教の教えを反映したことわざ、さらには、蝉や蜻蛉を詠んだ俳句などまで集め、それらを題材に作品を書いた。『怪談』(Kwaidan,1904) をはじめとする晩年の再話作品について考える際にも、収集という行為は重要である。妻の小泉セツが回想記で語っているように、ハーンは彼女に助けてもらいながら、再話の元となる日本の物語を収集した。書物のかたちで集めたものもあれば、日本人から直接聞いたものもある。そして、さらに夫人の力を借り、それらを英語に直し、西洋の読者に届けた。
 ハーンの再話作品中には、ローマ字表記の日本語が頻出する。たとえば、「耳なし芳一の話」( “The Story of Miminashi-Hōïchi” ) では、 ‘kijin’ (鬼神)が ‘goblins’ 、 ‘Oni-bi’ (鬼火) が ‘ghostly fires’ または ‘demon-fires’ と、それぞれ置き換えられており、これらはいわば、日本語の収集であると言える。日本の読者にしてみれば、鬼神とgoblinが同等であるとはとても思えず、日本語を使う必要性をあまり感じられない。しかしハーンの再話を、日本の物語や言葉を収集してそれを西洋に展示するプロセスとして捉えるならば、逐語訳的で不十分に見える日本語使用とその語釈にもそれなりの重要性を見出すことが可能となる。また、ハーンの再話には、より作家性の発揮された箇所もあるため、それらを単に創造性の欠如のみに帰することもできない。今回の発表では、「収集」という視点を手がかりにして、ハーンの再話テクストにおける翻訳性を積極的に評価することを目指す。

第2室(ICC4階音楽室)④
“The Essay and the Hourglass: One Way to Teach Basic Essay Organization”

Stephen Shrader(関西外国語大学准教授)

  The conventions of non-fiction writing differ in Japanese and English, which can make it challenging to teach beginning (English major) writers how to compose ideas effectively in the new language. Japanese essays tend to follow the ki-sho-ten-ketsu structure, which can easily confuse English-speaking readers unused to this style. While this method of organization makes sense to readers familiar with Japanese, an English speaking reader will often miss the point of such an essay, or worse, decide the writer has no point at all. It has been argued that this style difference has to do with contrasting perspectives on who is responsible for successful communication – in Japanese, an educated reader is expected to infer the writer's main message. In English, on the other hand, it is the author of a text that is expected to be clear and direct in conveying the point. This relates to Edward Hall's description of certain cultures and communication styles as either high or low context. Cultures where high context communication is more common tend to leave important parts of a message left unsaid, since people are expected to be able to guess such things (and are likely to be able to do so). Cultures where low context communication is the norm expect the main idea to be stated more directly, and communication may fail when this does not happen. Both of these communication styles have advantages, but students preparing to be effective communicators in English must gain some understanding of how to effectively convey what they want to say through familiarity with how ideas are commonly expressed in the language. In this session, the presenter will show one way to use an essay from Nan’un-Do’s Reading Fusion 1 textbook to visually introduce students to the “parts” of an English essay. This can help students with reading comprehension, summarization skills, and composition. This is not a publisher sponsored presentation; however, Nan’un-Do has given permission to use images of the essay as the presenter shares how he uses this textbook to teach both reading and writing. The technique could be used with other texts as long as the selected sample essay is well written.


●シンポジウム

テーマ:「ジョン・ラスキンのスタイル」

                  司会 講師:川端康雄(日本女子大学教授、英文学)
                     講師:虹林 慶(九州工業大学教授、英文学)
                     講師:真屋和子(慶應義塾大学講師(非)、仏文学)
                     講師:花角聡美(一橋大学講師(非)、英文学)

司会:川端康雄(日本女子大学教授、英文学)

 英国19世紀の代表的な批評家の一人であるジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)は、オクスフォード大学在籍中に建築専門誌に『建築の詩美』(The Poetry of Architecture, 1837-38)を発表して以来、晩年の自伝『プラエテリタ』(Praeterita, 1885-89)の執筆まで、半世紀にわたって執筆活動をおこなった。『近代画家論』(Modern Painters, 5 vols., 1843-60)に見られるような息の長い壮麗な文体がラスキンの著作の典型的な特徴として受け取られているが、扱う主題(それは非常に多岐にわたる)と執筆年代、また想定された読者層によって文体は微妙な変化を示している。その一方で、「壮麗な文体」という形容では捕捉できない、ラスキン独特の筆致がその多種多様な著作に通底しているように思われる。その要素はいかなるものか、またどこに由来するのか。その文章力の根底に、幼少期以来母親から受けた聖書の朗読の日課があり、またワーズワースやバイロンといったロマン派詩人の作品への耽溺があったことは、伝記的事実として確認できるが、それだけで済ますわけにはいかないだろう。
 生前、ヴィクトリア時代に当代の偉大な文人として(大方の)讃仰の的となり、逆に没後にモダニズム作家たちによって忌避されて(大方)忘却の淵に沈められ、20世紀後半に再評価の機運が高まって現在に至っている、この批評家の仕事の意義と魅力を、「スタイル」を鍵語として探ってみたい。


「ジョン・ラスキンの『近代画家論』におけるロマン派詩論を巡って」

講師:虹林 慶(九州工業大学教授、英文学)

 『近代画家論』(Modern Painters, 1843-60)は、ジョン・ラスキンの全著作のなかでも特にロマン派の詩作品からの影響が強く表れているものの一つであると言えよう。特にワーズワースの詩への言及は、その題辞での引用も含めて顕著である。だが今回は、直接的に言及されるロマン派の詩作品ではなく、ロマン派の「詩論」を『近代画家論』がどのように取り込んでいるのか、その影響関係について考察してみたい。『近代画家論』は長大な芸術論である上に、長期に渡って執筆されたことから、その論旨も単純ではなく、一様に扱うことは難しい。従って、本発表では、影響関係が見られる部分に議論を絞ることでこれに対応したい。ラスキンのロマン主義的な側面は、ロマン派の詩論と比較してどのように発展し、変質しているのか。そのようなことを考えるきっかけになれば幸いである。

「『アミアンの聖書』とプルースト」

講師:真屋和子(慶應義塾大学非常勤講師、仏文学)

 「作家にとっての文体は、画家にとっての色彩と同様、技術の問題ではなくヴィジョンの問題である。」これは20世紀を代表するフランスの作家マルセル・プルースト(1871-1922)のよく知られた言葉である。作家のこの信念は、ラスキンから学ぶことによって固められていったと言えよう。プルーストによるフランス語訳、『アミアンの聖書』が刊行されたのは1904年のことである。英語力不足と言われていた彼が翻訳を決めたのは、ラスキンの文体と美学にそれほど強く惹きつけられたからであるが、作品を訳すことで、プルーストの炯眼は「ラスキンのスタイル」をつかんだ。彼の考えるラスキンの文体、思考法の特徴とはどのようなものか、まずその点を明らかにしたい。次に、ラスキン的文体やものの見方を消化・吸収し自家薬籠中のものとしたプルーストが、それをどのように小説『失われた時を求めて』のなかにとり込み、昇華させたかについて考察する。

「『フォルス・クラヴィゲラ』と環境思想」

講師:花角聡美(一橋大学非常勤講師、英文学)

 『フォルス・クラヴィゲラ』(Fors Clavigera)は副題に「イギリスの労働者・勤労者への手紙」(Letters to the Workmen and Labourers of Great Britain)とあるように、ラスキンの従来の読者層とは異なる広範な勤労層にむけた書簡体のエッセイであり、1870年から中断をはさんで1884年まで、合計96通の書簡が小冊子のかたちで発表された。そのトピックは同時代の労働の様態から時事評論、自伝的回想、美術批評まで多岐にわたるが、本発表では近代の産業化と都市化の弊害としての環境悪化への警告(これは晩年の講演「19世紀の嵐雲」につながる)と、そのアンチテーゼとしての「セント・ジョージ・ギルド」の構想を語ったくだりに注目する。人間に不可欠な要素としての「きれいな空気と水と大地」、それに「称賛、希望、愛」(第5書簡)を土台としたラスキンの農村ユートピアの実験は蹉跌をきたし、否定的に語られることが多かったが、1世紀半をへたいま、彼の環境思想の理念と実践は見直す価値が大いにあるように思われる。

「囲われた庭と旅の記憶――『プラエテリタ』のスタイル」

講師:川端康雄(日本女子大学教授、英文学)

 ラスキンの未完の自伝『プラエテリタ』(Praeterita)は1885年から分冊刊行され、彼の知的活動が停止する1889年まで書きつづけられた。このラテン語の題名(「過ぎ去りしことども」)には副題として「過ぎ去りしわが生涯において記憶に値するかもしれぬ情景および思考のあらまし」(Outlines of Scenes and Thoughts Perhaps Worthy of Memory in my Past Life)と記されている。他者から見てラスキンの生涯で重要だと思える事柄や人物が網羅されているわけではなく、書き留めておきたいと思う点だけを選択的に記述しており、以前の著作でよく見られた論争調はなりを潜めている。晩年のフラストレイション、挫折感、嵩じる精神失調、老化、終りの意識――そうした状況で回想が書かれ、それが反映されている面もたしかにあるにせよ、折々戯画的な評言や微妙な諧謔をふくませつつ、親しい友人に胸襟を開くような語り口と清澄な文体がこの回想記の独特な魅力になっている。その魅力に迫ってみたい。


テクスト研究学会第14回大会プログラム

日時 2014年8月29日(金) 10: 30~18: 00
場所 武庫川女子大学中央キャンパス 文学1号館(8階)
   〒663―8558 西宮市池開町6-46
   電話 0798-47-1212(代)
   アクセス:阪神電車「鳴尾(武庫川女子大学前)」駅下車、徒歩7分

10:30~ 受付 (文学1号館、8階「C-808会議室」) 

11:00 開会の辞 (文学1号館、8階「L-805」教室)      井上 義夫(会長・一橋大学名誉教授)

●研究発表 (11:10~11:50)
第1室 (文学1号館、8階「L-804」教室)                

     司会:鈴木 章能(長崎大学教授)

11:10「Uncle Tom’s Childrenからアフリカ系アメリカ人の「生きる」を考える」

今崎 舞(武庫川女子大学(院))

第2室 (文学1号館、8階「L-805」教室)

司会:吉村 耕治(関西外国語大学教授)

11:10「手錠で繋がれた夫婦(カップル)―I Love Lucyにおけるギャグの連続性と連結性―」

高木ゆかり(神戸大学(院))

(休憩:11:50~13:00)

●研究発表 (13:00~15:10)  
第1室 (文学1号館、8階「L-804」教室)                

     司会:武田美保子(京都女子大学教授)

13:00「Persuasionにおける女性の自立」             

田中 梨恵(武庫川女子大学(院))

13:45 「The Girls of Slender MeansにおけるJane Eyreの影響」  

畑中 杏美(フェリス女学院大学(院))

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

14:30「Winnieの波紋:Joseph ConradのThe Secret Agentにおける “Optimism” と円環性」

            田中 和也(近畿大学(非))

第2室 (文学1号館、8階「L-805」教室)              

司会:川島 伸博(龍谷大学准教授)

13:00「『失楽園』におけるイヴのアイデンティティー」

堀内 直美(青山学院大学(院))

司会:宮原 一成(山口大学教授)

13:45 「Rosemary Sutcliff の描いた追放と旅路―Outcastの神話性」  

中村 由佳(武庫川女子大学(院))

(休憩:15:10~15:20)

●シンポジウム (文学1号館、8階「L-805」教室:15:20~17:40)
テーマ:「テクストと注釈」

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)
講師:原田範行(英文学、東京女子大学教授)
講師:小林宣之(仏文学・比較文学、大手前大学教授)
   講師:大谷俊太(国文学、京都女子大学教授)

17:40 総会 (文学1号館、8階「L-805」教室)
17:50 開会の辞 (文学1号館、8階「L-805」教室)    玉井 暲(副会長・武庫川女子大学教授)

★懇親会
18:30~20:30  ノボテル甲子園、1F「テラス・オン・ザ・ガーデン」

  • 西宮市甲子園高潮町3-30〔阪神甲子園駅西口前〕 
  • Tel:0798-48-1111
  • http://www.novotelkoshien.com/
  • 大会会場からはマイクロバスにて移動。
  • 会費:5,000円


※大会会場へのアクセスは武庫川女子大学HPをご参照下さい。大阪・梅田、神戸よりの所要時間は30分です (http://www.mukogawa-u.ac.jp/)。
※研究発表者・大会参加者の控室は、文学1号館8階「C-808会議室」をご利用下さい。
※昼食については、夏季休暇中につき学内の食堂は開いておりませんので、ご自身でご用意下さい。なおキャンパスの近くにコンビニはございます。
※問い合わせ先:テクスト研究学会事務局(http://textstudies.web.fc2.com/)

共催:テクスト研究学会、武庫川女子大学言語文化研究所

【発表要旨】

●研究発表

「Uncle Tom’s Childrenからアフリカ系アメリカ人の「生きる」を考える」

今崎 舞(武庫川女子大学(院))

1863年、リンカーンが奴隷解放宣言に署名して今年で151年。2009年には初のアフリカ系アメリカ人の大統領も誕生した。しかし今日のアメリカ社会においてアフリカ系アメリカ人の人種問題はなお引き続いているのが現状だ。1950年代からは公民権運動が起こり、多くの青年がその過酷な現状を訴える運動を始めた。本発表ではその前に執筆活動をしていたリチャード・ライトの初期の短編集Uncle Tom’s Childrenの中の作品から数篇を取り上げ、その主人公たちの人生を比較することで、当時のアフリカ系アメリカ人の生き様とはどういうものだったのかを考察し、彼らにとっての「生きる」とはどういうことだったかに焦点をおく。人間が生きる上で目的でもあり真髄でもある「幸福」、彼らにとっての幸せは何だったのかを探る。


「手錠で繋がれた夫婦(カップル)―I Love Lucyにおけるギャグの連続性と連結性―」  

高木ゆかり(神戸大学(院))

ギャグはコメディには欠かせない要素であるが、従来はその場限りのものとして単体で捉えられる傾向にあった。そのような傾向に異を唱えるため、昨年度の本学会でI Love Lucy (CBS 1951-1957)の言語的ギャグを取り上げ、ギャグと登場人物の置かれた状況との関係について考察した。本発表では“The Handcuffs”というエピソードの視覚的ギャグに焦点を当て、ギャグの連続性・連結性を詳細に分析する。本エピソードでは、主人公であるルーシーが夫と手錠で繋がれるギャグが連続して用いられ、彼女を家庭から外の世界へと連れ出す方向性を作り出している。しかし、この手錠のギャグは結末で大きなひねりが加わることによって、ルーシーと家庭との関係を再逆転させる。この一連の過程でのギャグの巧妙な連鎖構造を明らかにするとともに、ギャグ同士の関係に着目することが作品解釈の重要な一手法になり得ることを例証したい。


「Persuasionにおける女性の自立」                

田中 梨恵(武庫川女子大学(院))

本発表では、女性が、社会的また経済的な物質面での“自立”ではなく、「女性自身が自分の人生について考え、決断し、いかに生きるのか」という精神的な“自立”についてのジェーン・オースティンの考えを、最後の小説『説得』(1818)のヒロインやその他の登場人物たちの言葉・行動から検証することを目的とする。
ハッピーエンドと考えられる「結婚」を一つの側面とみなし、オースティンが考える女性の“自立”について、①オースティンと小説世界との歴史的な相互関係性②オースティンの結婚観(幸せな結婚と不幸な結婚)③結婚に必要な要素④来るべき時代に求められる女性像――の4つの視点から考察する。
これらの点を踏まえ、本発表では、従来の結婚制度に則った結婚ではなく、職業を持つ男性との結婚や上流中産階級以下の男性との結婚について描くことにより、「自分の意志を貫く」という“女性の自立”を提言するオースティンの新しい女性観について論じる。


「The Girls of Slender MeansにおけるJane Eyreの影響」    

畑中 杏美(フェリス女学院大学(院)) 

Muriel Spark (1918-2006)の小説The Girls of Slender Means (1963)は第2次世界大戦終戦間近のロンドンで暮らす人々の人間模様を描いた作品である。Emily Brontë (1818-48)の批評的伝記を出版したことでも知られているSparkだが、本作にはCharlotte Brontë (1816-55)のJane Eyre (1847) に類似したモチーフを見いだすことができる。本発表では、Sparkが研究対象としてはEmilyを主に扱いながら、作品創作に関しては、Charlotteからも影響を受けていたという可能性を示したい。特に、中心的登場人物を比較することで、20世紀のカトリック作家Sparkが、ヴィクトリア朝の作品であるJane Eyreを、彼女独特のユーモアと残酷さが共存するThe Girls of Slender Meansの物語世界にどのようにして取り込んでいったのかということを考えたい。


「Winnieの波紋:Joseph ConradのThe Secret Agentにおける “Optimism” と円環性」

田中 和也(近畿大学(非))

 Joseph Conradの中期小説The Secret Agent (1907) は、爆破テロ未遂事件とそれによるVerloc家の崩壊を描いていて、一見悲劇的な作品である。だが、実はそのテロはグリニッジ天文台を爆破対象に選んでいたり、テロでVerloc家が崩壊したのも夫が善良だと妻Winnieが盲信したせいだったりと、この小説は不条理に溢れている。ましてや、テロは何の影響も英国社会に与えない上に、夫殺害後のWinnieの死も新聞の小記事におさめられて終わる。このため、この小説舞台であるロンドンは、混沌としつつもその中では何も起きえない閉鎖空間であるという印象を読者に与える。そうした一見無秩序に見える作品世界だが、作品中で反復される “optimism” という言葉に注目することによって、登場人物間の祖語のプロセスが解きほぐせると私は主張したい。その際、作品のテーマと構造双方のキーとしてWinnieの役割に注目する。彼女の存在と死が、一見閉塞的かつ円環的な作品世界に波紋を広げて、アナキストたちの問題を炙り出しさえすることを、考察していきたい。


「『失楽園』におけるイヴのアイデンティティー」          

堀内 直美(青山学院大学(院))

 ミルトンの『失楽園』においてイブが創造されたときのことを思い出し、湖に映った自分の姿を振り返る場面は、多くの批評家によってナルシシズムとの関係で論じられた。文学に心理的解釈もしくは精神分析学的解釈が取り入れられたからである。しかし近年、文学の伝統的解釈へ立ち返る傾向が見られる。ノエル・スギムラ(2014.1)は、湖に映った姿に対するイブのwonder「驚き」に着目し、ナルシシズム的解釈を退け、語源的解釈や文学的比較により、古典や聖書へ関連付けている。本発表は、その視点に共鳴する。しかし、登場人物の内面を深く読む心理的分析を完全に捨てず、イブの湖に映る姿に、フーコーが行っているような分析を加える。そしてイブのアイデンティティーにまつわる驚きを、自己への陶酔ではなく、恋への憧れと捉える。イブのアダムへの想いはさらに精神的に昇華され、神の御顔を拝する至福直観へも通ずることを指摘したい。


「Rosemary Sutcliff の描いた追放と旅路―Outcastの神話性」    

中村 由佳(武庫川女子大学(院))

この発表では、英国児童文学作家ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff, 1920-92)の小説Outcast(1955)(邦題:『ケルトとローマの息子』)で描かれた追放劇が表すものと、物語が内包する神話性に着目する。特に主人公ベリックの人物造形と運命を中心に読み解いていきたい。災厄の子だと予言されたベリックの集落からの追放と、そこから続く彼の旅路はいかにも寓話的であり、彼に何らかの象徴性が付与されていたことは明らかである。Sutcliff作品の中でも、Outcastは特に神話的要素を多分に含んでいると思われる。Outcastでは、ベリックが背負った災厄、彼が象徴しているもの、彼の持つ異質性という三つの要素が物語の根幹を為す。これらの重要要素は、神話的・文化人類学的な要素から成り立つものだと考えれば、よりその意義やサトクリフの意図が明らかになると推察した。ジェームズ・フレイザー(James Frazer, 1854-1941)のThe Golden Bough (1890)で言及された「死神の追放」を比較対象に据え、この物語を分析していきたい。


●シンポジウム

「テクストと注釈」

司会:玉井暲(武庫川女子大学教授)

 今日、文学において、あるいは文学研究の世界において、「注釈」はどのような意味をもっているのであろうか。「注釈」は、外国文学や古典文学の初学者にとっては解説の与えられる教科書となるであろう。また、作品をめぐる先行研究の輪郭を知る参考書、作品の新しい読みが提示される批評書、作品のさまざまな読み方の蓄積された解釈史の書ともなるであろう。それに、わが国には、『万葉集』にはじまる数々の古典文学作品についての長い注釈の歴史がある。
昨年(2013年)、英国小説の代表作、ジョナサン・スウィフト『ガリヴァ―旅行記』についての綿密かつ膨大な注釈書(岩波書店)が刊行されたことにあやかって、本学会のシンポジウムにてこのテーマに挑戦することにした。講師の一人は、この『<ガリヴァ―旅行記>徹底注釈』の著書の一人、原田範行氏である。図版や地図を使って、注釈の新鮮な側面を披露してくれるはずである。
フランス文学の世界からは、小林宣之氏に、氏の専門である19世紀小説家ジェラール・ド・ネルヴァルにおいて、注釈が個々の作品の解釈や意味にどのように関わってきたのか、その注釈の展開についてお話していただく。国文学の世界からは、大谷俊太氏に、国文学の世界における注釈の長い伝統を踏まえて、『伊勢物語』を中心にして注釈史の流れについてご紹介をしていただく。
このシンポジウムが、現代における「注釈」の意味や役割を考える良い機会になることを期待している。


「注釈から創造へ――『ガリヴァー旅行記』の場合――」   

講師:原田範行(東京女子大学教授、英文学)

主題を正面から語ろうとはせず、言葉の多義性を生かし、場合によっては対極的なことを語りつつ、しかし本来の目標を鋭く突く―このような言語表現を諷刺と呼ぶならば、『ガリヴァー旅行記』は確かに代表的な諷刺作品と言える。そしてこうした多層的なテクストの理解に欠かせないのが注釈であって、そのことは、『ガリヴァー旅行記』出版直後、既に数々の注釈書が登場していたことからも明らかである。読者はこうした注釈を傍らに置き、作者の本心を探る楽しみに誘われるのだ。だが『ガリヴァー旅行記』の注釈に求められるのは、おそらく、そうした謎解きに終わらないテクストの統合的理解への手がかりであり、そしてそこに新たな創造の可能性を示唆することにあると言えよう。作者スウィフト自身、出版後もこの作品にはコメントを加え続けていた。新たな創造を生み出す注釈とはいかなるものか―例えばオーウェルなどの影響作品や現代の注釈書を含めて、注釈の意義を検討したい。


「ジェラール・ド・ネルヴァルを事例に――」     

講師:小林宣之(大手前大学教授、仏文学・比較文学)

 19世紀フランスの作家ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)は生前、ロマン派周辺の小作家と見なされ、その死後は容易に歴史の波に姿を没するものと思われたが、世紀の後半、友人たちの手で編まれた全集を梃子に、20世紀初頭には詳細な伝記と新たな全集が刊行されて本格的な復活を果たすことになる。以後、紆余曲折はありながら、今日までその文学的な地位は揺らぐことなく、フランス文学史に重要な位置を占めるに至っている。この多読で博識な作家の作品は、その平易な文体にもかかわらず、多岐にわたる主題の詳細をめぐって数多くの注釈の対象となってきた。その一端について紹介してみたい。


「『伊勢物語』を中心にして――」              

講師:大谷俊太(京都女子大学教授、国文学)

国文学では、日本の古典文学作品の江戸時代以前の注釈書を、総じて「古注釈」と呼んでいるが、中でも、古今集・伊勢物語の古注釈については、時代を追って古注・旧注・新注の三つに分類しての把握がなされている。鎌倉時代に行われた仏教的・神道的あるいは説話的な解釈による古注、室町時代後期になっての一條兼良や宗祇以降の簡潔で本文の文脈に即した解釈を行う旧注、江戸時代に入っての契沖をはじめとする国学者による実証性の増した新注の三つである。今回は、伊勢物語の古注釈の実際を紹介し、注釈史の流れを辿り、それぞれの方法の特徴と共通性について考える。そして、そのことを、それらの延長線上にあるものとしての現代の注釈の相対化に繋げてみたい。


テクスト研究学会 第13回大会プログラム

●日 時:2013年8月30日(金) 
●場 所:甲南女子大学3号館
 (キャンパスマップ、交通アクセス、昼食等については、本プログラムの最後をご参照ください。)

受付:3号館334教室(12時20分~)
参加費:学生500円、教員・一般1,000円(当日受付で支払い)
懇親会:第4学生会館2階(18:00〜20:00):4,000円〜5,000円を予定しております。

1. 開 会 の 辞(12:50~12:55)3号館33D教室

2. 研究発表

◇3号館336教室
(13:00〜13:45)                 司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)
(1) The Sheep-Pigの寓話性

木田 悟史(くらしき作陽大学非常勤講師)



(13:45〜14:30)                 司会:武田美保子(京都女子大学教授)
(2) “spinster” たちの青春―戦間期イギリスにおける女性の自立と挫折

畑中 杏美(フェリス女学院大学(院))

(14:30〜15:15) 
(3) スクールガールの野外活動―For the Sake of the School (1915)における市民教育―

志渡岡 理恵(実践女子大学専任講師)

 

◇ 3号館33F教室
(13:00〜13:45)                 司会:鈴木章能(甲南女子大学教授)
(1) 受け継がれる“dream”:A Touch of the PoetのSara Melody考察

牧野内 美帆(京都府立大学(院))

(13:45〜14:30) 
(2) 伊藤輝夫の『お笑い北朝鮮』における北朝鮮表象の考察

李 文鎬(筑波大学(院))



(14:30〜15:15)                 司会:井上義夫(一橋大学名誉教授)
(3) I Love Lucyにおける言語的ギャグの機能について―The Girls Want to Go to a Nightclubを中心に―

高木 ゆかり(神戸大学(院))

 【休憩】(15:15〜15:25)

3. シンポジウム(15:25〜17:35)3号館33D教室
「現代日本ミステリの広がりと問題系」

千田洋幸(司会)東京学芸大学教授

「〈操り〉という亡霊――東川篤哉『ここに死体を捨てないでください!』」

諸岡卓真(講師)北海道情報大学准教授

「可能世界・推論・融合――『絶園のテンペスト』を読む」

西田谷洋(講師)愛知教育大学教授

「〈操り〉と超能力探偵の萌芽――ふたつの『本陣殺人事件』」

横濱雄二(講師)甲南女子大学講師


第Ⅰ部:講師からの発表 (15:25~16:45)
休憩(16:45〜16:55)
第Ⅱ部:フロアを含めたディスカッション(16:55〜17:35)

4. 総会(17:35〜17:45)3号館33D教室

5. 閉会の辞(17:45)3号館33D教室

 【懇親会】(18:00〜20:00)第4学生会館2階


〔発表要旨〕
◆研究発表
◇3号館336教室

(1) The Sheep-Pigの寓話性

木田 悟史(くらしき作陽大学非常勤講師)

イギリスの児童文学作家Dick King-SmithのThe Sheep-Pig (1983) は、映画Babe (1995) の原作として世界的に知られており、動物を題材にした児童文学の中で最も成功をおさめた作品の一つである。イソップ寓話は言うまでもなく、同じイギリスの作家であるKenneth GrahameのThe Wind in the Willows (1908) や、George OrwellのAnimal Farm (1945)が示しているように、動物を擬人化した物語というのは、程度の差こそあれ、現実世界の寓話や風刺となることが多い。従って、The Sheep-Pig に対しても同様の読みを試みることは不可能ではない。同作は舞台が農場であり、一つの社会における各動物の役割や、互いの関係性が浮き彫りになりやすい構造をしている。また、主要なキャラクターが豚であることや、動物たちと農場主との関係が描かれていることなど、OrwellのAnimal Farmとの共通点の多さも寓話的な読みを誘う一因となっている。本発表では、動物を擬人的に扱った先行作品との比較や、King-Smithが作品を書いた当時の政治的・社会的文脈との対照なども取り入れ、The Sheep-Pigの寓話としての可能性を探る。

(2) “spinster” たちの青春―戦間期イギリスにおける女性の自立と挫折

畑中 杏美(フェリス女学院大学(院))

第一次世界大戦後のイギリスでは、男女の人口比率のバランスが崩れ、未婚のまま生涯を終える女性が増えていた。Muriel SparkのThe Prime of Miss Jean Brodie (1961)、D. H. Lawrenceの短編
“The Fox” (1923)に登場するのも当時の“spinster”たちである。Sparkの作品では、1930年代のエディンバラで、女学校の教師Jean Brodieがファシズムを標榜し、お気に入りの生徒たちを自分の意のままに操ろうとする。また、“The Fox”では、女性が小さな農場を経営しようとする姿が描かれる。ズボンをはいて肉体労働に従事する女性は、Land Girls (Women’s Land Army)と呼ばれた農地開発の戦争ボランティアとして活躍した。これらの女性たちには、家庭内労働からの脱出、男性的価値観への共鳴など、ある種の男性化という特徴が見て取れるが、どちらの作品も、女性の自立や成功という形での結末を取っていない。この発表では、以上の作品をフェミニズム的観点から読み解き、彼女たちの挫折をレズビアン的関係における性役割の再生産という観点から指摘したい。

(3) スクールガールの野外活動―For the Sake of the School (1915)における市民教育―

志渡岡 理恵(実践女子大学専任講師)

女子の中等・高等教育やキャリア選択の機会が急速に広がった20世紀前半のイギリスで約50冊のスクールガール小説を書いた人気作家Angela Brazil のFor the Sake of the School では、女学生がキャンプファイアー・ギルドの活動を通して団体精神を身につけ、学校および国の一員として「有能で公共心を持った女性」に成長していく過程が描かれている。イギリスのガールガイドとアメリカのキャンプファイアーはともに20世紀初頭に組織され、キャンプをはじめとする野外活動によって少女たちを「外」へ向かわせ、彼女たちに「外」で生き抜くためのさまざまな知識、技術、対人関係の基礎を身につけさせるのに大きな貢献をしたと考えられている。本発表では、多くの少女たちに愛読されたブラジルのスクールガール小説が提示している新しい理想の少女像と、ガールガイドを中心とする青少年育成組織との関係について考察する。


◇3号館33F教室

(1) 受け継がれる“dream”:A Touch of the PoetのSara Melody考察

牧野内 美帆(京都府立大学(院))

Eugene O’Neill(1888-1953)の戯曲は、初期から中期にかけては死によって、主人公たちの不適応や特異性に決着をつけてきた。しかし長大な連作劇“Cycle”の構想をもとにしたA Touch of the Poet(1939-42年に執筆、1957年に初演)では、主人公Cornelius Melodyに自分と周囲を隔てる執着を捨てさせ、共同体への適応により生きる事を選択させる。
劇の中心はgentlemanだった事に執着するMelodyであるが、今回はその娘Sara Melodyに焦点を当てる。現実的な彼女は最大のMelody批判者であるが、gentleman幻想から醒めたMelodyの変貌は彼女を動揺させ、両者の精神的な安定/不安定は逆転する。過去/伝統のしがらみを手放す事で前へ進んだMelodyに対し、適応を示していたはずのSaraはうろたえ、愚かな父に献身する「弱い」母Noraに励まされる側となる。Saraの不安定化は名家の青年Simonとの結婚という成果を手にした一方で、結末部のMelodyが示唆するアイリッシュとしての自己を、改めて自ら背負う事になった現われである。この認識をもとに、終始父親を批判するために用いられ、しかし最後には自分の未来を語るために発した“dream”という単語を軸に、社会背景、女性のあり方、そしてモダニズムの劇作家O’Neillが、19世紀初頭のアメリカを舞台として語ろうとしたものを検証したい。

(2) 伊藤輝夫の『お笑い北朝鮮』における北朝鮮表象の考察

李 文鎬(筑波大学(院))

 『お笑い北朝鮮』(コスモの本・1993)は伊藤輝夫(テリー伊藤) の訪朝レポートであり、サブタイトル「金日成・金正日親子長期政権の解明」が示すように北朝鮮検証でもある。本書の刊行当時は1991年から始まった日朝交渉をはじめ、ノドンミサイル試射・核疑惑などをうけ日本で北朝鮮に関する情報が急増していた時期である。その中で本書は「北朝鮮のお笑いネタ化」「既存の北朝鮮検証本の克服」を標榜しベストセーラーとなった。日本における北朝鮮表象の変遷をたどる本発表では、北朝鮮が「悪魔化」されていくプロセスの中の初期に当たる1993年の日本の社会的コンテクストからテクストを考察する。論点としては①1990年代初期のメディアの側面から日本が北朝鮮をどのように消費していたか②『お笑い北朝鮮』が提示する北朝鮮の「謎」と「真相」の語りは北朝鮮をいかに表象しているのか③『お笑い北朝鮮』おいての「お笑い」なるモノの意味とな何か、以上3点である。

(3) I Love Lucyにおける言語的ギャグの機能について―The Girls Want to Go to a Nightclubを中心に―

高木 ゆかり(神戸大学(院))

 アメリカのシチュエーション・コメディI Love Lucy(CBS1951-1957)の言語的ギャグに焦点を当て、その笑いと機能について論じる。The Girls Want to Go to a Nightclubというエピソードで『マザー・グース』や児童文学に登場する人物の名前がギャグとして使用されている。子供時代を想起させたり動物に関連したりするギャグは、単体でも十分に喜劇的効果を生むのだが、繰り返し用いられることにより、単体のギャグが反復性の笑いへと昇華される。このような喜劇的要素に加え、物語展開の見地からこの繰り返されるギャグを分析してみると、時間が進行しても主人公であるルーシーのおかれた状況が変化しないという閉塞感を強調する役割も果たしている。言語的ギャグが、喜劇的効果のみならず、物語の進行に重要な機能を担っているという二面性を明らかにし、ギャグもまたエピソードの構成を支える要素として作品構造に深く組み込まれていることを指摘したい。


◆シンポジウム:3号館33D教室
「現代日本ミステリの広がりと問題系」

千田洋幸(司会)東京学芸大学教授
西田谷洋(講師)愛知教育大学教授
諸岡卓真(講師)北海道情報大学准教授
横濱雄二(講師)甲南女子大学講師

いわゆる「本格ミステリ」の歴史は、エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人事件」(1841年)にはじまるとされる。論理的な謎解きを主眼とするこの種の物語は、日本では江戸川乱歩や横溝正史、松本清張らの活動を経て、様々なタイプの作品を生み出してきた。第二次世界大戦直後にブームがあり、1960年代に社会派の隆盛を見た現代日本のミステリは、90年代に「新本格」の時代を迎え、その後現在までに実作、批評ともに洗練されてきている。本シンポジウムでは、小説、アニメ、映画を題材として、現代日本のミステリの広がりを見るとともに、「操り」や「後期クイーン的問題」など、ミステリ論の問題系によるテクスト読解の可能性について考えたい。

諸岡卓真(講師)北海道情報大学准教授
「〈操り〉という亡霊――東川篤哉『ここに死体を捨てないでください!』」

 現代日本のミステリにおいては、とりわけ1990年代以降、謎やトリックの徹底的な追求・蕩尽の中で、結末のどんでん返しを演出するための手法の一つとして〈操り〉トリックが極端化されてきた。〈操り〉とは、犯人が探偵を含めた他のキャラクターを意のままにコントロールし、他人の手を借りて犯罪を発生させるパターンを言う。このトリックは作品世界を特権的な存在が作中の出来事を完全にコントロールするという意味で、出来事を「必然」化するための方策でもあるのだが、2000年代にはむしろそのような〈操り〉の崩れに注目した実作が増加している。本発表では、そのような作例から東川篤哉『ここに死体を捨てないでください!』(2009年)を取り上げ、本格ミステリと〈操り〉トリックの親和性に注目し、このジャンルにおける偶然と必然の混淆について検討していきたい。

西田谷洋(講師)愛知教育大学教授
「可能世界・推論・融合――『絶園のテンペスト』を読む」

 『絶園のテンペスト』は以下の二つの点で興味深いアニメである。1)ミステリ:本作は不破愛花密室殺人事件や、世界の理を統べるはじまりの樹の謎をめぐるミステリである。推理を破綻させる「後期クイーン的問題」の解決は、物理的な証拠ではなく魔法と(主に原作で)インターネットである。前者は魔法による移動で推理空間と経験世界を一致させ、後者はいわば一般意志2.0によって真実に到達する。しかし、当該問題は内部観測の帰結としてミステリに限らないが、経験世界では往々破棄され、アニメでネットの比重が低下するようであるのは一般意思の欠陥の回避とも言えよう。2)融合:本作はシェイクスピア「テンペスト」・「ハムレット」の翻案として、不破愛花をめぐる三角関係や鎖部葉風の魔法の喪失による大団円といった構図を持ち、人物が二作の台詞を引用し場面や人物の状況と混淆することで意味を生成する。こうした問題について考えてみたい。

横濱雄二(講師)甲南女子大学講師
「〈操り〉と超能力探偵の萌芽――ふたつの『本陣殺人事件』」

 1910年代に日本で一世を風靡した『ジゴマ』を引き合いに出すまでもなく、ミステリ(探偵小説)は映画の歴史のごく初期から、その題材の供給源でもあった。第二次世界大戦後の探偵小説ブームの嚆矢たる横溝正史『本陣殺人事件』(1947年)もまた、時を置かず『三本指の男』(1947年、東横映画、片岡千恵蔵主演)として映画化されている。この両作品を謎解きの観点から眺めると、犯人やトリックが異なるだけでなく、その扱い方にも顕著な相違が見られる。小説では犯人の弟が兄にトリックを示唆したことが明らかになるのだが、映画ではこの関係はすべて省略され、代わりに探偵による直観的な断定が物語を進行させてゆく。このような相違は本作小説を特に有名にしている琴糸のトリックに対する扱いにも顕著である。本発表では、上記二作品をミステリの立場から比較検討し、犯人による〈操り〉や超人的な探偵像の萌芽がこれらの作品に見られることを指摘したい。


【連絡事項】
1. 昼食
・キャンパス内では、第4学生会館2階のレストランでお食事ができます。また、同1階には生協があり、お弁当やインスタント食品がございます。ともに11時00分~13時00分までやっております。(場所は、下記「キャンパスマップ」参照)

・キャンパス外の近所には食堂がございません。もっとも近いところは、「甲南山手駅」駅前通りの西側に、ラーメン「ホープ軒」、回転寿司「スシロー」がございます。また、「甲南山手駅」の隣にコンビニエンスストアがございます。(甲南山手駅までは、下記「JR甲南山手駅からの案内図」参照)

2. 喫煙
キャンパス内は禁煙となっております。喫煙は恐れ入りますが、キャンパス外にてお願いいたします。正門を出たところ、あるいは、第1学生会館右隣にある階段を下り、南門を出たところでお願いいたします。


テクスト研究学会 第12回大会プログラム

●日 時:2012年8月31日(金) 
●場 所:甲南女子大学3号館(キャンパスマップ、交通アクセス、昼食等については本プログラムの最後をご参照ください)

受付:3号館334教室(10時00分~)
参加費:学生500円、教員・一般1,000円(当日受付で支払い)
懇親会:第4学生会館2階(18:00〜20:00):4,000円〜5,000円を予定しております。

1. 開 会 の 辞(10:30~10:35)3号館33D教室

2. 研究発表

午前の部(10:40〜12:00)

◇3号館335教室

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

(1) 科学技術の発展が産む犠牲と人間関係―鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』における利他的心理の発達について                

西貝 怜(和光大学(院))

(2) Lafcadio Hearnの再話テクストをめぐって―その拡散力と書き換えへの開放性

木田 悟史(神戸大学(院))

◇3号館33E教室

司会:玉井 暲(武庫川女子大学教授)

(1)「植民地帰り」を取り巻く幻想―George Eliot作 ‘Brother Jacob’(1864)を中心にして―

濱 奈々恵(福岡女子大学(院))

(2) MiddlemarchからThe Lost Girlへ―イタリアと、解放されたイギリス人のヒロインたち―

谷本 佳子(青山学院大学(院))


 ★昼休憩(12:00~13:00)


午後の部(13:00~15:10)

◇3号館335教室

司会:井上 義夫(一橋大学名誉教授)

(3) 間テクストで読むRaymond Carverと村上春樹― “Where I’m Calling From”と「アイロンのある風景」を中心に

山根 明敏(武庫川女子大学准教授)

司会:福岡 忠雄(元関西学院大学教授)

(4) Rosemary SutcliffのSword at Sunsetにおける民族と女性―2つのプロットの意味―

中村 由佳(武庫川女子大学(院))

(5) 切り取られたのではなく必要なかったテクスト―『ジュード』の悲劇の根源を読み解く―

鳥飼 真人(関西大学非常勤講師)

◇ 3号館33E教室

司会:田中 浩司(防衛大学校教授)

(3) キリスト教におけるテクスト解釈者の持つ権威

能勢 岳史(関西学院大学(院))

(4) 聖書学における信仰と学知

岩嵜 大悟(関西学院大学(院))

(5) 欽定訳聖書におけるRose of Sharon ―どのように「誤訳」が生じたのか―

溝田 悟士(広島大学大学院研究員)

 ★休憩10分(15:10〜15:20)

3. シンポジウム(15:20〜17:40)3号館33D教室
「定期刊行物と文学/歴史」
 「ニューレフトの誕生」 近藤 康裕(司会・講師)東洋大学専任講師
 「「円本」と翻訳文学受容」 佐藤 美希(講師)札幌大学准教授
 「奴らの歌・俺の歌――船乗りと文学について」 脇田 裕正(講師)都留文科大学非常勤講師

 第Ⅰ部:講師からの発表 (15:20~17:00)

 ★休憩10分(17:00〜17:10)

 第Ⅱ部:フロアを含めたディスカッション(17:10〜17:40)

4. 総会(17:40〜17:50)3号館33D教室

5. 閉会の辞(17:50)3号館33D教室

 ☆懇親会(18:00〜20:00)第4学生会館2階



〔発表要旨〕

◆研究発表
◇3号館335教室
(1) 科学技術の発展が産む犠牲と人間関係―鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』における利他的心理の発達について                

西貝 怜(和光大学(院))

 鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』シリーズは、主として魔法を司る魔術師らの存在する宗教団体などの魔術サイドと、科学技術によって超能力を付与された超能力者らの存在する学園都市という科学サイドの物語について描かれている。その中でも科学サイドの物語では、「一方通行(アクセラレータ)」と呼ばれる登場人物の超能力の質を向上させるために、「妹達(シスターズ)」と呼ばれる御坂美琴のクローンの集団二万人を「一方通行」に殺害させる計画が描かれる。そして、計画が主人公の上条当麻によって阻止された後の物語では、「一方通行」が思考を改め、生き残った「妹達」の一人であり、様々な危機に晒されることになる「打ち止め(ラストオーダー)」を自身が傷つくことも厭わず守ろうとする行動と心理が主に描かれていく。この「打ち止め」を守ろうとする「一方通行」の利他的とも言える心理は、「打ち止め」を始めとする登場人物との交流を主とした多くの環境要因によって変化していく。そこで本発表では、科学技術の発展によって産まれた犠牲について加害者がどのような心理的変化を辿るのか、という問いの一端を明らかにするために、「一方通行」の利他的な心理が「打ち止め」との交流を主とした人間関係によって発達していく過程を考察していく。

(2) Lafcadio Hearnの再話テクストをめぐって―その拡散力と書き換えへの開放性

木田 悟史(神戸大学(院))


Kwaidan(1904)に代表されるLafcadio Hearnの再話作品は、現在でも児童文学や絵本、あるいは英語学習者向けの教材など、様々な形に書き換えられ続けている。つまりHearnの再話とは、絶えずオリジナルからずれ続けるテクストであると言える。口承文芸に強く魅かれていたHearnは、目の前の語り手の生きた声に熱心に耳を傾けた。だが最終的には、作家として、それらを文字に固定せざるを得なかった。これは、一回性や唯一性といった口承文芸の本質に反する行為であると言えるが、本発表では、Hearnの再話が不可避的に孕むことになった「オリジナルとのずれ」という点を積極的に評価することにより、一見必要悪と思われる「書かれる言葉」であったからこそ獲得できた、Hearnの再話の拡散力や書き換えに対する開放性、そしてそこから導き出される、「話される言葉」を志向したHearnの脱音声中心主義的なあり方などについて考察したい。

(3) 間テクストで読むRaymond Carverと村上春樹― “Where I’m Calling From”と「アイロンのある風景」を中心に          

山根 明敏(武庫川女子大学准教授)

 “Where I’m Calling From”はCathedralに収められた作品の中で、“A Small Good Thing” “Cathedral”とともに救いの要素が見出される作品であるとされてきた。語り手は作品の結末の部分でJack Londonの“To Build a Fire”に言及し、自らが救済される可能性を示唆している。しかし“To Build a Fire”には内容の異なる二つの版が存在し、Carverはどちらの版を意識していたのかは明確にはしていない。本発表は二つの版を間テクストとして導入し、新たな解釈の可能性を模索する。さらに Carverの影響を強く受けて書かれたと考えられ、“Where I’m Calling From”と同様に“To Build a Fire”が作品中で言及されている、村上春樹の「アイロンのある風景」(『神の子どもたちはみな踊る』に収録)を取り上げ、Carverを村上がどのように受容しているのかという問題を考察する。

(4) Rosemary SutcliffのSword at Sunsetにおける民族と女性―2つのプロットの意味―

中村 由佳(武庫川女子大学(院))

 英国の児童文学作家ローズマリー・サトクリフがアーサー王伝説を元にして大人向けに執筆した小説、Sword at Sunsetを取り上げる。まず、ローマン・ブリテン時代にブリテン島で共存していたケルト人・ローマ人・Little Dark Peopleという三つの民族が登場する意味について、続いて、神秘的に描かれ物語を大きく動かす役割を持つ主要な女性キャラクターの意味について考察する。この考察を踏まえ、次に、二つの主要プロットの存在に着目したい。この物語には「アルトス(主人公)の戦い」というメインプロットと、「アルトスの私生活」というサブプロットが存在する。メインプロットではケルト人・ローマ人・Little Dark Peopleが力を合わせ、アングロ・サクソンとの戦いに挑む。サブプロットではローマとケルトの混血であるアルトスが自身のケルトの血を否定し、またアルトスの妻はLittle Dark Peopleを差別する。前者がアルトスの勝利に終わり後者が悲劇に終わるという二つのプロットの葛藤から、この小説に「融和の大切さ」というメッセージが読み取れると結論付けたい。

(5) 切り取られたのではなく必要なかったテクスト―『ジュード』の悲劇の根源を読み解く―

鳥飼 真人(関西大学非常勤講師)

 トマス・ハーディが自身の小説を通じて我々に投げかける最後にして最重要のメッセージ、それは『日陰者ジュード』の中でジュードが放つ言葉-「文字は殺す」(コリント人への第二の手紙)-の中に秘められている。この言葉に関する様々な議論がこれまで提出されているが、その多くは、この言葉がそれを含む一連の文句-「文字は殺し、御霊は命をお与えになる」-から切り取られたということを前提としている。つまり「文字=律法」による人間の罪の宣告の部分を切り取ることで、社会の掟に反逆する者、または最終的にその掟に屈し死んでいく殉教者にジュードを仕立て上げるというものである。しかし「文字=律法」を神の「言=ロゴス」に書き換え、さらにこの「ロゴス」という語に内在するもう一つの意味-最も根源的な形而上学の第一の問いに基づく意味-に辿り着く時、我々はジュードが放つ「文字は殺す」というテクストの新たな意味を知り、それによって「御霊は命をお与えになる」というテクストが、ハーディにとって単に必要なかったものであると気づかされる。
 本発表ではこの必要のないテクスト=聖書言説を取り払うことによって、「ロゴス」という語における根源的な形而上学的意味を開示し、その上で『ジュード』において展開される悲劇をどう考えるべきかという問題について一つの新たな見解を示すことを試みる。

◇3号館33E教室
(1) 「植民地帰り」を取り巻く幻想―George Eliot作 ‘Brother Jacob’(1864)を中心にして―

濱 奈々恵(福岡女子大学(院))

 19世紀半ば、英領の植民地では帝国主義の圧制に反発が相次いだ。イギリス本土でも論争に発展することが多かった当時、George Eliotは植民地の問題に関して個人的な発言をしなかった。この沈黙は帝国主義に対する彼女の態度を探りにくくし、時には「黙認」と解釈されることもある。
 Eliotの場合、帝国主義の活動そのものよりもそれを取り巻く人間の描かれ方に特徴がある。そこで本発表では短編‘Brother Jacob’(1864)を中心に扱い、Eliotの態度を探っていく。この作品はジャマイカで菓子職人としての成功を夢見た青年が夢破れて帰国し、その後は「植民地帰り」という肩書きを利用して人々を騙すという話で、露骨な植民地幻想が随所に表れている。まずはこの短編をもとにしてEliotの揶揄や批判の矛先を考察し、同時に彼女の他の作品における帝国表象や植民地幻想などにも触れて、Eliotの態度を示していきたい。

(2) MiddlemarchからThe Lost Girlへ―イタリアと、解放されたイギリス人のヒロインたち―

谷本 佳子(青山学院大学(院))

 ヴィクトリア朝、エドワード朝の多くのイギリス人にとって、北のイギリスとは対照的な、解放感に満ちた南の国イタリアは、自分たちを、自国での抑圧から解き放ってくれる場であった。イタリアに対するこのような認識は、同時代の小説にもあらわれており、イタリアを訪れたイギリスの作家たちは、イタリアとイギリスを舞台にした作品において、とりわけイギリス人の女性たちが、イタリアから精神的な影響を受けて解放される様を描いた。George EliotのMiddlemarch (1871-72)はその先駆的なものであり、これに続くかたちで、George GissingはThe Emancipated (1890)、E. M. ForsterはWhere Angels Fear to Tread (1905)とA Room with a View (1908)、そしてD. H. LawrenceはThe Lost Girl (1920)を書いた。本発表では、これら5作品の比較を通して、本来作風の異なる4人の作家たちが共通して描いた、イギリス人のヒロインたちを解放させる力を持つイタリアとはどのようなものであるかを明らかにしたい。

(3) キリスト教におけるテクスト解釈者の持つ権威

能勢 岳史(関西学院大学(院))

 本研究発表は、文芸批評の観点からジュリア・クリステヴァによる「間テクスト性」、スタンリー・フィッシュによる「解釈共同体」、ハロルド・ブルームによる「創造的誤読」の概念をヘブライ語聖書学に取り入れ、解釈共同体内でのテクストを「聖典」とする宗教の解釈者が持つ権威を問題としたものである。近年解釈共同体の概念は、キリスト教神学において取り入れられている。S・Mハワーワスによる「物語の神学」もその一つである。彼は、ひとつの宗教がひとつの枠組みを持った解釈共同体としての機能を持ち、ひとつの「共通の物語」としてのテクスト解釈の伝える重要性を説く。本発表は、解釈者がテクストを読む際に、解釈共同体の解釈に依存することを否定するものではない。むしろ、ハワーワスの抱える問題は意図的に解釈共同体が形成され、それが個人のテクスト解釈の排除のための「戦略」として使用される点にある。その戦略が排除と包摂、支配と依存の権力構造の中に個人を閉じ込め、自らのテクスト解釈が完全だという幻想を形成ためである。本発表は、宗教がテクストを扱う場合、解釈共同体により与えられた既存の意味に固定するのではなく、常に創造的誤読を通して解釈が修正される必要性を提案するものである。

(4) 聖書学における信仰と学知

岩嵜 大悟(関西学院大学(院))

 聖書解釈において、信仰と学知はどのように関係しているのだろうか。しばしば聖書をもとにして、「キリスト教は間違っている」、「聖書は間違っている」、「一神教は暴力的だ」などという批判がなされる。しかし、このような批判を行う書物・識者の聖書理解は、聖書を字義通りありのままで理解しようとする点で、原理主義的な聖書理解だといえる。そして、そのような聖書批判を伴わない場合でも、キリスト教の信仰的読みが聖書を読む唯一の方法だと考える現代日本人は少ないだろう。しかしながら、聖書の批判的研究を目指す近代聖書学は、近代啓蒙主義の影響を受け、教義学から訣別することで、成立したものである。では、この近代聖書学では信仰と学知、聖書の記述と倫理性が衝突し葛藤を生じる場合、いかなる方法で両者を調停するのだろうか。本発表では、まず聖書をもとに批判を行う見解を確認し、次に近代聖書学の基本的立場を検討し、さらに具体的な聖書解釈をもとに信仰と学知が矛盾や葛藤が生じた際にどのように調停してきたのかを明らかにしたい。

(5) 欽定訳聖書におけるRose of Sharon ―どのように「誤訳」が生じたのか―

溝田 悟士(広島大学大学院研究員)

 本研究では、近代英語の散文発展に大きく寄与した欽定訳聖書(1611年:略称KJV)における、雅歌2:1に存在している‘Rose of Sharon’(「シャロンのばら」)という有名な訳語の起源を探究する。
 このroseという訳語は原典のヘブライ語のhabatselethに対して不適切な「翻訳」であるとされ、実際にはなんらかの球根植物であるとする学説が最有力である。
 しかし一方で、なぜKJVにおいてroseという「誤訳」が採用され、その起源がどこにあるかということに関して、筆者が知る限り十分な研究はなされていない。
 本研究では、古代からKJVに至る翻訳の文献学的な比較によって、2世紀のAquilaによるギリシャ語訳のkalukosisという定義に対し、ギリシャ語辞書の系譜においてにおけるkaluxをrodonとする誤った定義が影響したことが、バラと訳される遠因になったという仮説を提示する。

◆シンポジウム:3号館33D教室
「定期刊行物と文学/歴史」

近藤 康裕(司会・講師)東洋大学専任講師
佐藤 美希(講師)札幌大学准教授
脇田 裕正(講師)都留文科大学非常勤講師

 ごく狭い意味での「文学テクスト」の初出がしばしば文芸誌などの定期刊行物であるように、文学研究と定期刊行物の分析は切り離せないものだと言えようが、本シンポジウムではそのような狭義のテクストの読解にとどまらず、文学が生み出され受容された時代の言説をかたちづくる広い意味でのテクストの読解へとつながる議論を、定期刊行物のテクストを出発点にして試みる。発表者三者三様のテクスト分析は、20世紀前半から後半にかけての日英における文学を端緒とした歴史=テクスト読解の可能性を広げる試みである。

近藤 康裕(司会・講師)東洋大学専任講師
「ニューレフトの誕生」
 第二次世界大戦後のイギリスにおいてニューレフトが有した文化的、社会的な意義は極めて大きいと言えるが、その中心となった_New Left Review_誌が1960年にできるまでは、_New Reasoner_と_Universities and Left Review_が草創期ニューレフトの言論の重要な舞台であった。本発表では、これら2誌の記事をさまざまに読みながら、ニューレフトの文学的、文化的な意義と、そうしたテクストを読むことの重要性とをあらためて考えたい。

佐藤 美希(講師)札幌大学准教授
「「円本」と翻訳文学受容」
 大正15年から昭和初期に相次いで出版された「円本」が一般大衆の文学受容を拡大させた諸相は、既に論じられている(ex. 青山 1990,紅野 1999; 2009、永峰1999; 2000など)。本発表では、円本が翻訳や外国文学(特に英文学)受容に対する意識にどのような影響を与えたのか、円本の月報と円本以前・以後に書かれた翻訳言説などから再検討したい。

脇田 裕正(講師)都留文科大学非常勤講師
「奴らの歌・俺の歌――船乗りと文学について」
 日本の初期プロレタリア文学を牽引した前田河廣一郎は、後年、アメリカでの船員生活を回顧した自伝の中で、余暇に船中でコンラッド作品を読んだと語っているが、メルヴィルからコンラッド、そして前田河まで、船乗り出身の作家の系譜を見ると、時代や国籍、人種といったものを越えて、どうやら船乗りと文学の親密な関係といったものがあるように思われる。今回の発表では、1920年代から40年代までの日本の商船会社が発行した機関誌や海軍の機関誌、さらには船員の労働組合が発行した機関誌について検証する。船員たちの短歌からコンラッドの海洋小説まで、様々な文学作品がこれらの機関誌には掲載されているが、これら船乗りたちの「文学作品」は従来の文学史からは忘れられた存在であるといっても過言ではない。彼らが何を思い、何を歌い、何を読んだのか。彼らの「文学」を見ていくことで、陸=土地の人々とは異質な、忘れられてきた彼らの独自性とその悲哀を浮上させることになるだろう。

【連絡事項】
1. 昼食
・キャンパス内には「第1学生会館」2階の「甲南そば」でお食事ができます。また、第4学生会館1階に生協があり、お弁当やインスタント食品がございます。ともに11時00分~13時00分ごろまでやっております。(場所は、下記「キャンパスマップ」参照)

・キャンパス外の近所には食堂がございません。もっとも近いところとしましては、甲南山手駅前通りの西側に、ラーメン「ホープ軒」、回転寿司「スシロー」がございます。また、甲南山手駅の隣にコンビニエンスストアがございます。(甲南山手駅までは、下記「JR甲南山手駅からの案内図」参照)

2. 喫煙
キャンパス内は禁煙となっております。喫煙は恐れ入りますが、キャンパス外にてお願いいたします。正門を出たところ、あるいは、第1学生会館右隣にある階段を下り、南門を出たところでお願いいたします。

第11回大会情報

テクスト研究学会第11回大会プログラム
● 日 時:2011年8月26日(金) 受け付け午後12時30分から
● 場 所:甲南女子大学3号館 33D教室
甲南女子大学へのアクセスについてはこちらから。
<バスは特別ダイヤをご覧ください。>

参加費:学生500円 教員・一般1,000円(当日受付で支払い)
※参加希望者は、事前に学会ホームページからオンラインで申し込んでください。


◆ 開 会 の 辞(13:00~13:05)

◆研究発表:13:05〜15:05
(1)「悪と蜂蜜—The Inheritorsにおける人間像とその表象—」春日友里(日本女子大学・院)
(2)「聖書学における「読みのポリティクス」—創世記22章を例にして—」岩嵜大悟(関西学院大学・院)
(3)「再話のテクスト論—Lafcadio Hearnとオリジナリティの逆説」木田悟史(神戸大学・院)

休憩10分:15:05〜15:15

◆シンポジウム:15;15〜
「クロスカルチャル・リーディング—D. H. Lawrence著"The Shadow in the Rose
Garden"と横光利一著「ナポレオンと田虫」を題材に—」
本シンポジウムでは、テクストの読みを様々な領域・文化とテクストの結束点に浮かびあがるものとの立場から、D.H.ロレンスの"The Shadow in the Rose Garden"と横光利一の「ナポレオンと田 虫」を題材に、講師とフロア、またフロア内で様々な読みを披露し合い、自由闊達な議論を行いたいと考えています。ご参加にあたり、トップページから二つのテクストをダウンロード・印刷し、事前にお読みいただければと存じます。また、二つのテクストを当日ご持参ください。なお、ロレンスのテクストの翻訳を当日、会場にて配布いたします。
第Ⅰ部:講師からの発表
清眞人(近畿大学教授)
上西妙子(神戸女学院大学名誉教授)
宇治琢美(天理大学元教授)
休憩10分:16:45〜16:55
第Ⅱ部:フロアを含めたディスカッション:16:55〜17:25

総会:17:25〜17:30

閉会の辞:17:30

懇親会(第4学生会館2階):17:40〜19:40
(4000円〜5000円を予定しております)



発表要旨

(1)悪と蜂蜜―The Inheritorsにおける人間像とその表象―
春日友里
本発表では、William GoldingのThe Inheritors (1955)における新人類とネアンデルタール人との本質的な違いと、その表象としての蜂蜜honeyの描写から、Goldingの当時の人間観について考察する。
本作品はLord of the Flies (1954)直後の作品であり、同様の人間に対する悲観的な思想が根底に流れていることが推察できる。作品が、あえて知能の低いネアンデルタール人の異化された視点から語られる点に着目し、浮き彫りにされる両種族の決定的な違いを、George Batailleの侵犯の理論を用いて分析する。さらにその差異を各所に現れる蜂蜜honeyの表象に求めることで、1962年の「人間は蜂が蜜honeyを生み出すように悪を生み出す」という発言や、この作品がGoldingのお気に入りであるという、82年のJames. R. Bakerによるインタビューで明らかにされた事実との関連が期待できるのではないか。
したがって、本発表では両種族の違いを示すにとどまってきた従来の研究から、さらにその違いをhoneyという単語に集約させることにより、作品のテーマ性の強化を試みたい。


(2)聖書学における「読みのポリティクス」—創世記22章を例にして—
岩嵜大悟
 近代以降現代にいたるまで、聖書学は、客観性を追求する「歴史的・批判的研究」が主流である。これは、①教義から自由であり、②理性に従って判断し、③聖書の諸文書の成立を歴史的に研究し、④諸文書の歴史的成立を明らかにするため原文・原語を重視する、ことを特徴にする近現代の聖書解釈に特徴的な研究である。しかも、このような特徴を有する研究では、あたかも「読み手」としての「解釈者」は存在しないかのようにして、解釈が記述されてきた。本発表では、創世記22章1−19節に記された、「アブラハムによるイサク犠牲」と呼ばれる聖書テクストについてなされてきた、主要な歴史的・批判的研究による解釈を検討する。この聖書箇所は、アブラハムの信仰を示したテクストであるとされ、ユダヤ教・キリスト教において、重要視されてきた。このテクストを検討することを通して、聖書解釈において「読み手」としての「解釈者」の存在を無視してきたこれまでの聖書学の「読みのポリティクス」を明らかにする。

(3)再話のテクスト論―Lafcadio Hearnとオリジナリティの逆説
木田悟史
Lafcadio Hearnは数多くの日本の物語を英語で語り直した。それらは一般に再話物語と呼ばれているが、重要なのはそれがHearnの芸術家としての到達点であったということである。したがって、Hearnが再話に拠ったのは独力で作品を生み出すことができなかったからだと簡単にかたづけてしまう訳にはいかない。Hearnにとって再話とは単なるあきらめの結果ではなく、もっと積極的な意味を持つ行為だったのである。
来日以前、アメリカにいたHearnは、フランス文学の翻訳とクレオール民話の採録に打ち込んでいた。それを見れば、Hearnがオリジナルであることに強くこだわっていたことが分かる。本発表では、アメリカ時代から晩年の再話へと至る変遷、およびKwaidan(1904)その他の作品をとりまく状況を明らかにすることにより、Hearnの再話のテクストにおける逆説的なオリジナリティのあり様について探ってゆきたい。

第10回大会情報

テクスト研究学会第10回大会プログラム
● 日 時:2010年8月27日(金) 受け付け午後13時から
● 場 所:近畿大学本部キャンパスA館(文芸学部棟)101教室
〒577-8502 大阪府東大阪市小若江3-4-1 TEL:(06)6721-2332(代表)
近鉄大阪線・長瀬駅下車、徒歩約10分、近鉄線奈良駅・八戸ノ里駅、徒歩約20分)
● 参加費:1,000円(当日受付で支払い)
※参加希望者は、事前に学会ホームページからオンラインで申し込んでください。


◆ 開 会 の 辞(13:30~13:40)

◆ 研究発表(13:40~14:20)
司会: 深 澤 俊(中央大学名誉教授)
発表: 田 中  和 也(大阪大学大学院博士後期課程)
「冒険小説の転覆
――Joseph ConradのAn Outcast of the Islandsにおける海・歴史・遅延」

◆ 特別講演①(14:30~15:30)
  講演者: 井 上 義 夫(一橋大学特任教授)
      「村上春樹の文学――『風の歌を聴け』から『1Q84』まで」
  司 会: 清 水 伊 津 代(近畿大学教授)

◆ 特別講演②(15:40~16:40)
講演者: 森 晴秀(神戸大学名誉教授)
「デイヴィッド・ロッジの小説――文体を中心に」
司 会: 深澤 俊(中央大学名誉教授)

◆ 総 会(16:35~16:50) 

◆ 閉 会 の 辞(16:50~17:00)

◆ 懇親会(17:15~19:15)
  会場:ノーヴェンバー・ホール地階「カフェテリア・ノーヴェンバー」
  会費:一般(4,000円)、学生(2,000円)を予定

発表梗概および参考文献はこちらのページからご覧ください。


テクスト研究学会第9回大会プログラム

●日 時:2009年8月28日(金) 受け付け午前9時15分から
●場 所:大阪大学豊中キャンパス(教室等は学会HPでご確認ください。) 
〒〒560-0043 大阪府 豊中市 待兼山町 1-1 TEL:06-6850-6111(代表)
(大阪モノレール・柴原駅から徒歩5分、阪急宝塚線・石橋駅から徒歩15分)
●参加費:500円(当日受付で支払い)
※参加希望者は、事前に学会ホームページからオンラインで申し込んでください。
◆ 開 会 の 辞(10:00~10:05)
◆ 研 究 発 表 [文41室]
研究発表1(10:10~10:45) 司会:深澤 俊(テクスト研究学会会長・中央大学名誉教授)
吉村 エリ(神戸女学院大学大学院博士後期課程)
「瞳の力――Janet's Repentanceにおける声の回復」

研究発表2(10:45~11:20) 司会:深澤 俊(テクスト研究学会会長・中央大学名誉教授)
大西 祥惠(京都女子大学大学院博士後期課程)
「Mrs Dallowayにおける色とその政治性」

研究発表3(11:20~11:55) 司会:森 晴秀(神戸大学名誉教授)
   金谷 壮太(筑波大学大学院博士課程)
   「多義性の〈深さ〉――ロラン・バルトにおける「コノテーション」について」

研究発表4(11:55~12:30) 司会:森 晴秀(神戸大学名誉教授)
   西村 智(中部大学教授)
「Henry Jamesの“The Figure in the Carpet”における批評の可能性と限界
――修辞的観点からの再考」

< 昼 食(12:30~13:30)>

研究発表5(13:30~14:05) 司会:玉井 暲(大阪大学大学院教授)
   岩崎 雅之(早稲田大学大学院博士課程)
   「Howards Endにおける「わたしたち」のありかた」

  研究発表6(14:05~14:40) 司会:玉井 暲(大阪大学大学院教授)
川崎 明子(駒澤大学専任講師)
「孤独と社交――アニータ・ブルックナーの『家を出る』の一人称の語り」

◆シンポジウム(15:00~17:30)文41室
テーマ:「エドワード・サイードをめぐって」
講 師: 川田 潤(司会・福島大学准教授)
齋藤 一(筑波大学講師)
西 亮太(一橋大学大学院博士課程)
大河内 昌(ディスカッサント・東北大学教授)

◆ 総 会(17:30~17:40) 
◆ 閉 会 の 辞(17:40~17:45)
◆ 懇親会(18:00~20:00) 大阪大学豊中キャンパス内 学生交流棟レストラン 宙(そら)
              会費:一般(4,000円)、学生(2,000円)を予定


第9回大会発表梗概および参考文献

研究発表1
「瞳の力―Janet’s Repentanceにおける声の回復」

吉村 エリ(神戸女学院大学大学院博士後期課程)

本発表では、Janet’s Repentanceにおける瞳と声の描かれ方に注目し、ヒロインJanetが視線の力によって声を回復する過程を検証する。
 従来の研究は、Janetの飲酒を文化的背景から問題定義したものや、JanetとScenes of Clerical Lifeの他の2作品に登場するヒロインとの比較研究が主流である。しかし本発表では、先行研究の見地から離れ、Janet瞳と声の描かれ方に注目することによって、作品における視覚と聴覚の重要性を示してみたい。
Janetは、物語の前半では自由に弁舌を振るうDempsterとは対照的に、夫の意見に逆らったり、自己主張することもない。Dempsterの暴力にも無言で耐え忍ぶJanetは、まさに声を抑圧された人物である。しかし、Janetが徐々に自己の意思を声にできるようになり、最終的に改悛に至るまでの心理的変化には、彼女の瞳の力が大きく影響している。母親譲りのJanetの黒い瞳は、声とは裏腹に、その内面の強さを表すかのように印象的に描かれている。Janetの改悛に貢献したTryanとの間に交わされる視線を介した無言の会話が、抑圧されたJanetの声を回復させていく過程を分析し、この作品において、瞳の力がJanetに声を与える重要な要素であったということを証明する。

【参考文献】
Brady, Kristin. George Eliot. London: Macmillan, 1992.
Eliot, George. Scenes of Clerical Life. Ed. Jennifer Gribble. London: Penguin
Books, 1998.
Knoepflmacher, U.C. George Eliot’s Early Novels: The Limits of Realism.
Berkeley: California UP, 1968.
Yano, Nana. “The Figure of the ‘Dark Heroine’ in ‘Janet’s Repentance’”
白百合女子大学言語・文化研究紀要 2001. 


研究発表2
「Mrs Dallowayにおける色とその政治性」

大西 祥惠(京都女子大学大学院博士後期課程)

Virginia Woolfは、「偉大な作家は偉大な色彩研究家(colourists)である」 (“Walter Sickert”, 182) と述べ、小説における色彩表現の重要性を指摘している。これは、ウルフが後期印象派展や同時代の画家や美術評論家から強い影響を受けたことと関係していると思われる。実際にMrs Dallowayでは、色の描写がきわめて意識的になされており、それらは装飾としての機能を果たしているだけではなく、そこにさまざまな意味が付与されていることが分かる。従来の研究では、色のイメージにおいて、同じ色調が繰り返し使われることにより、人々の共通意識が提示されていることが明らかにされているが、ここではさらに、対比的な色使いや、グラデェーションを伴った色彩描写などのさまざまな色彩描写がもたらす効果とその政治性について考察していくことにしたい。たとえば小説内では、Clarissa Dallowayのパーティの場面に代表されるような、多彩な色彩が共存する場面描写を通して、それぞれ異なる個性を持った個別の人物の存在が許容されていることが示されている。その一方で、それとは対照的に、人々の個別性を排除し、均一の色に染め上げようとする医師たちの動きは、支配階級を表す灰色の単一的で固定的な色使いによって提示されている。それゆえ本発表では、『ダロウェイ夫人』の中のこうした多彩で鮮やかな色使いと灰色の均一的な色使いとの対比、さらにはさまざまな工夫が凝らされていると思われる色彩描写を具体的に分析することで、階級の問題や心身の健康についての当時の医学思想、個人の守られるべき孤独である「魂の孤独」として提示される個人の尊厳などの問題と色との関わりについて考えていきたい。

【参考文献】
Beer, Gillian. Virginia Woolf: The Common Ground. Edinburgh: Edinburgh UP, 1996.
Bradshaw, David. “Introduction.” Mrs Dalloway. New York: Oxford, 1992.
Miller, J. Hillis, “Mrs Dalloway: Repetition as the Raising of the Dead.” Virginia Woolf Modern Critical Views. Ed. Harold Bloom. New York: Chelsea House Publishers, 1986.
Showalter, Elaine. “Introduction.” Mrs Dalloway. London: Penguin, 2000.
Woolf, Virginia. . Mrs Dalloway. New York: Oxford, 1992.
―. “Mr. Bennet and Mrs. Brown.” A Woman’s Essays : Selected Essays. Vol. 1. London: Penguin, 1992.
―. “Modern Fiction.” The Common Reader First Series. New York: Harvest, 1984.
―. “ Pictures.” The Moment and Other Essays. London: Hogarth, 1952.
―. “Walter Sickert.” The Captain’s Death Bed and Other Essays. London: Hogarth, 1950.
遠藤不比人「テクストの言葉は作者を裏切る―『ダロウェイ夫人』のレトリックを読む」『シリーズ もっと知りたい名作の世界⑥ ダロウェイ夫人』窪田典子 編 ミネルヴァ書房 2006.
加藤洋介『D・H・ロレンスと退化論―世紀末からモダニズムへ―』北星堂 2007.
丹治愛『モダニズムの詩学』みすず書房 1994.
深澤俊『ヴァージニア・ウルフ入門』北星堂書店 1982.
―『イギリス小説研究序説』中央大学出版部1981.
森晴秀 「Mrs. Dalloway覚え書き―ある文体論的アプローチ―」『イギリス現代小説Ⅰ』東海大学出版会 1988.
―「ヴァージニア・ウルフ―俳句―そして,ジョルジュ・ス―ラ」『ジャポネズリー研究学会会報6』ジャポネズリー研究学会 1987.


研究発表3

「多義性の〈深さ〉――ロラン・バルトにおける「コノテーション」について」

金谷 荘太(筑波大学大学院博士後期課程)

 「コノテーション(共示)connotation」は、論理学で言う「内包」(ある概念に含まれる諸属性)、そして「付加的・暗示的意味」(要するに含意)と一般的に理解されているが、フランスの批評家ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915-1980)のキャリアを語るうえで、この二次的な意味作用が果たした役割は大きい。バルトのキャリアのなかでコノテーションは、元々衣服や広告などに対する記号学的分析のために理論化されたが、70年代に入って彼の活動の重点が記号学からいわゆる「テクスト理論」へとシフトされると、意味が持つ複数性に結びつけられ(たとえば『S/Z』)、意味の「ずれ」や「横すべり」などといった「換喩的な」側面(隣接関係による意味の移動)においてこれまで捉えられてきた。
 文学作品や写真のイメージなど様々な対象をバルトは「付加的意味」として分析していた。本発表では、デノテーション(外示、字義的・明示的意味)の「仕方」という観点から、主に言語を素材としたバルトの分析にアプローチすることで、コノテーションが持つ「提喩的な」側面(包含関係による意味の移動)について検討する。そうすることによって、バルトの分析が依拠した多義性の根拠の一つとして「提喩性」が働いていること、すなわち包含関係による意味作用の「深さ」(垂直的次元)を提示したい。


研究発表4

「Henry James の “The Figure in the Carpet” における批評の可能性と限界―修辞的観点からの再考」

西村 智(中部大学教授)

 Henry James の “The Figure in the Carpet” は二十世紀後半において一部の批評家たちの間に過剰とも思われる論争的な反応を引き起こした。主要な反応はジェイムズ研究の方面からではなく批評理論の方面からのもので、この短篇を通じて「曖昧性」「文学作品の作用」「決定不能性」などの問題が論じられた。このようにこの短篇はある特定の批評家たちの間で特別な関心の対象となり、文学作品の意味の明晰性や安定性の概念を問題化する批評的寓話として扱われたのである。こうした事情を踏まえた上で改めて注目したいことは、この短篇自体は批評家の存在や批評という営みを揶揄しており、作者の存在や作品における作者の意図あるいは意味の重要性に注意を引いているということである。この短篇の登場人物の一人である小説家 Hugh Vereker は批評が作品の本質や作家の狙いから遊離しがちであることに批判の目を向けているが、言うまでもなく彼の見解は作家としてのジェイムズ自身が批評というものに対して抱いていた不満を反映している。だが、ジェイムズは、批評家が作家を尊重するような仕事をすれば両者の調和的共存が可能になると言っているわけではない。本発表で詳しく論ずるように、“The Figure in the Carpet” における作者擁護に含意されているのは、作者こそが作品の意味の起源であり権威であるという主張ではなく、小説家が小説家でありそして小説を書くのは小説でしか書くことができないことを書いているからであるという認識である。これは、修辞的観点から言えば、文学作品とは比喩的にしか表現できないものの比喩すなわち「濫喩」であり、ここに批評の可能性と限界があるということである。


研究発表5
「Howards Endにおける「わたしたち」のありかた」

岩崎 雅之(早稲田大学大学院博士課程)

E. M. フォースター(E. M. Forster, 1879-1970)の『ハワーズ・エンド』(Howards End, 1910)の語り手は、自らを劇化した人物として物語を伝えている。この語り手は、多くの批評家が指摘しているように、論評者や解説者としての性格を強く有しており、読者に提示される視点を調節し、融け合わせ、支配する。フォースターは『小説の諸相』(Aspects of the Novel, 1927)で登場人物と視点の問題に言及し、幻想が消えてしまうために、語り手は登場人物の秘密話を読者との間でしてはならないと論じている。しかし、『ハワーズ・エンド』では、主人公のマーガレット・シュレーゲルの内面や、彼女に対する他登場人物の心理が語り手によって伝えられてしまうために、後年論じられるこの「禁止行為」が繰り返し行われている点を指摘することができる。十数年の間にフォースター自身の文学観が変化した可能性は否めないが、なぜこの「禁止行為」が彼自身の作品にあらわれているのか、また、自ら禁じ手として自覚しつつもこの手法を用いたとするのならば、それは作品にどのような影響を与えたのだろうか。この点に注目すると、語り手の発する「わたしたち」と読者、およびマーガレットを中心とした登場人物の関係性は、正統派文学の伝統にのっとっているものの、それまでの文学テクストが想定していたような読者とテクストの関係がもはや存在していないことに気づかせてくれる。
 本発表では、当時の出版状況および草稿と最終稿の比較を行いながら、語り手が発する「わたしたち」に注目し、登場人物たちの「声」のありようと読者との関係性を明らかにする。そして、この関係性が『インドへの道』(A Passage to India, 1924)に続く手法上の大きな変化の一環であることも示したいと思う。

【参考文献】
Bakhtin, M. M. 『小説の言葉』 Ed. 伊東 一郎. 東京: 平凡社, 1996.
The Cambridge Companion to E.M. Forster. Ed. David Bradshaw. New York: Cambridge UP, 2007.
Colmer, John. E.M. Forster: The Personal Voice. London: Routledge & K. Paul, 1975.
E.M. Forster. Ed. Harold Bloom. New York: Chelsea House, 1987.
E.M. Forster: Critical Assessments. Ed. J. H. Stape. Mountfield near Robertsbridge, East Sussex: Helm Information, 1997?.
Feltes, N. N. Modes of production of Victorian novels Chicago : University of Chicago Press, 1986
Forster, E. M. Howards End. London : Edward Arnold, 1973
Furbank, Philip Nicholas. E.M. Forster: A Life. Oxford: Oxford UP, 1979.
Kirkpatrick, B. J. A Bibliography of E.M. Forster. 2nd. ed. ed. Oxford: Clarendon Press, 1985.
Lodge, David. The Art of Fiction: Illustrated from Classic and Modern Texts. London: Penguin, 1992.
Medalie, David. E.M. Forster's Modernism. New York: Palgrave, 2002.
Feltes, N. N. Modes of production of Victorian novels Chicago : University of Chicago Press, 1986


研究発表6
「孤独と社交―アニータ・ブルックナーの『家を出る』の一人称の語り」

 川崎 明子(駒澤大学専任講師)

孤独をテーマとすることが多いブルックナーの小説でも、『家を出る』(Leaving Home, 2005)は、テクスト全体が孤独を感じさせる。語られる主人公が孤独であるのみならず、主人公の語りそのものが孤独だからである。若い女の主人公は、他の登場人物に書く手紙や、パーティや不動産購入などの際に他者と交わす会話では、十分社交的で、適切な言語行為により自分の希望を実現する能力を備えている。翻って地の文における彼女の語りでは、修辞的・編集的能力を発揮せず、読者とのコミュニケーションという面で彼女の孤独が強調される。このことを、同じく孤独な女主人公が自分の経験を語るが、その語りにコミュニケーションへの意志が見られるブルックナーの『私を見て』(Look at Me, 1983)や、テクスト内で唯一題が言及される小説で、孤児が主に言語行為でもって社会に居場所を見つけ、その高い言語能力を読者にも発揮する『ジェイン・エア』(Jane Eyre, 1847)の一人称の語りと比較しながら分析し、『家を出る』において、語られる内容と語る様式のテクストの二つの位相で孤独が支配していることを証明し、一人称の語りの可能性を検討したい。


第8回大会情報
★大会プログラムのダウンロード(pdf版)は<こちらからダウンロードできます>LinkIcon
☆会場校の地図は<こちらからダウンロードできます>
★大会および懇親会参加受付はウェブ上で登録をしています。<こちらから>

●日時: 2008年8月29日(金曜日)  受付10:30~
●会場: 大阪大学豊中キャンパス 文法経講義棟地図はこちらからLinkIcon
阪急石橋駅,大阪モノレール柴原駅 下車
●参加費 500円(当日受付で支払い)

 研 究 発 表 
◆11:00~11:35
[文12室] 司会: 富山 太佳夫(青山学院大学)
数藤 久美子(関西大学・院修了) 「現在形の次元―Paul Auster, Ghostsにおける時制とStoryの機能」
[文41室] 司会: 森 晴秀(神戸大学名誉教授)
山岸 倫子(早稲田大学・院) 「The Representation of Children in Cloud Nine

◆11:35〜12:10
[文12室] 司会: 富山 太佳夫(青山学院大学)
中井 麻記子(大阪大学・院) 「表象と自己の狭間で―Sia Figiel のWhere We Once Belongedにおける自己覚醒」   
[文41室] 司会: 森 晴秀(神戸大学名誉教授)
柴田 聡子(昭和女子大学・院)「The Return of the Native における “Return” の意味再考」

◆12:15~12:50
[文12室] 司会:鈴木 章能(大阪産業大学)
平沼 公子(同志社大・院)
「Time, Space, and a Black Man:James BaldwinのGo Tell It on the Mountainにおける共同体再考」
[文41室] 司会:大河内 昌(山形大学)
原口 治(福井高専准教授)
「エルガー、パイソン、そしてエリザベス女王―『プロムス最終夜』における「イギリスらしさ」とは」

◆12:50~13:25
[文12室]  司会: 能口 盾彦(同志社大学)
三枝 和彦(東北大学助手) 「ハクスリーのためらい―建築の表象における価値観の模索」

◆13:25~14:15   昼 食

◆14:15~14:50
[文12室]  司会: 能口 盾彦(同志社大学)
一ノ谷 清美(名城大学准教授)
「1741年のヘンリー・フィールディング―政治諷刺版画をとおして読むThe Opposition. A Vision
[文41室] 司会: 大河内 昌(山形大学)
中村 麻衣子(日本女子大学非常勤講師) 「公と私の「わたし」―ロジャー・ケイスメントの日記をめぐって」   

 シ ン ポ ジ ウ ム(文41室)
◆15:00~17:30
テーマ: 「南太平洋という物語空間――<英・米・日>トランス・パシフィック文学論」
司会・講師:  服部 典之(大阪大学教授・イギリス文学)
講師: 原田 範行(杏林大学教授・イギリス文学)
講師: 橋本 安央 (関西学院大学教授・アメリカ文学)
講師: 出原 隆俊(大阪大学教授・日本文学)

◆17:30~  総会  
◆18:00~  懇親会(大阪大学豊中キャンパス内 学生交流棟レストラン 宙(そら)

発表に関する連絡先:
●事務局
フェリス女学院大学 向井 秀忠研究室内 (各種連絡は事務局まで)
連絡先 mukai [at mark] ferris.ac.jp
※スパム防止のために,アドレスを一部変えて表記しています.お手数ですが,[at mark]の部分を@に変えてください.


第8回大会発表梗概および参考文献

数藤 久美子(関西大学・院修了) 
「現在形の次元―Paul Auster, Ghostsにおける時制とStoryの機能」

〔梗概〕
 Paul Austerの小説、Ghostsは、現在形で進む小説である。登場人物は色の名前を持ち、非人称を感じさせる抽象的な語り手が、現在時制で物語を語り、終盤で一人称に変わる。文中には引用符がなく、章立てもしていないので、語り手と登場人物の時間がおりなす不思議な世界を成立させている。
 小説の時制に関して、たとえばバルトは、単純過去形で作中人物の物語を綴ることによって、登場人物たちは、創造者の手の中に収められて暗黙裡に因果の連鎖の一部を成すのだと言っている。Ghostsにおいては、ナレーターの語る現在形は、時間を超越した単純現在形の用法と思われる。そのような語りのなかで、登場人物と、それを語るナレーターが、テクスト内でどのように作用していくのか、それを検証するのが本発表の目的である。
 テクスト全体をつらぬく時間枠を超えた感覚は、地の文の時制によるところが大きい。いわば、語りの現在形は、単純過去形に対して、単純現在形という形を基本にすることで、より抽象度の高い次元をテクストに実現しているともいえる。以下、ナレーターの語る時制を、テクスト内の役割に即して見てゆき、テクストを流れるダイナミズムを検証したい。
〔参考文献〕
Quirk, R, S.Greenbaum, G.Leech and J.Svartvik, A Comprehensive Grammar of the English Language (Longman, London, 1985)
ロラン・バルト、『零度のエクリチュール』渡辺淳一、沢村昴一訳(みすず書房、1971)
Paul Auster, “Ghosts,” in The New York Trilogy (Faber and Faber, 1988)


山岸 倫子(早稲田大学・院)
「The Representation of Children in Cloud Nine」

〔梗概〕
Cloud Nine(1979)はCaryl Churchillの十三作目にあたる戯曲であり、彼女をイギリス現代演劇のスターダムに押し上げた、最初の商業的ヒット作として有名である。同時に、この作品は多くの批評家達の関心をも集め、数あるChurchill作品の中でも、特に多くの議論が交わされてきた作品といえる。しかし、劇中に頻繁に登場するにも関わらず、これまでの研究の中で注目されることの少なかったモチーフがある。それは「子ども」であり、この「子ども」というモチーフや、このモチーフに関わる、特に母子関係といったテーマは、Alice Raynerの言葉を借りると、「劇のより主要な関心事である父権制度、ジェンダー・アイデンティティ、コロニアリズムとあまり相容れない[ために]、完全に理解されることも探求されることもなく、周辺に留まって」きた。しかし、実際に舞台を見たことのある者ならば、「子ども」というモチーフが注目されてこなかったという事実に違和感を覚えるかもしれない。何故なら、舞台上での子どもたちはある種、異様な存在感を放っているからである。例えば第一幕において、少年Edwardは成人女性によって演じられ、幼子であるVictoriaは人形として舞台に登場する。また、第二幕に登場する少女Cathyは、大人の登場人物が普通に演じられる中で、一人だけ、成人男性によって演じられる。本発表では、この「子ども」の「異様な」存在感に注目し、Cloud Nineにおいて、子どもたちがどのような役割を担っているのかを考察する。
 また、「子ども」はチャーチルが好んで使うモチーフの一つであるが、Cloud Nineにおける子どもたちは、チャーチルの作品における子どもの表象の転換点になっていると思われる。例えば、それまでの子どもたちが、舞台上には現れないか、もしくは舞台上で沈黙を保っていたのに対し、Cloud Nineにおける子どもたちは舞台を縦横無尽に駆け回る。しかし、それだけではなく、彼らが示す性質もまた、チャーチルがそれ以前に描いた子どもたちとは異なっているようである。よって、本発表では、Cloud Nineのみにおける「子ども」の表象だけでなく、Cloud Nineの子どもたちを、それまでの子どもの表象と比較して論じてみたい。(The presentation will be conducted in English.)

〔参考文献〕
Churchill, Caryl. Cloud Nine. Plays: Two. London: Methuen, 1990.
Harding, James M. “Cloud Cover: (Re) Dressing Desire and Comfortable Subversions in Caryl Churchill’s Cloud Nine.” PMLA113 (1998): 258-272.
Kritzer, Amelia Howe. The Plays of Caryl Churchill: Theatre of Empowerment. Hampshire: Macmillan Professional and Academic, 1991.
Rayner, Alice. “All Her Children: Caryl Churchill’s Furious Ghosts.”Essays on Caryl Churchill: Contemporary Representations. Ed. Sheila Rabillard. Winnipeg: Blizzard Publishing, 1998. 206-224.


 中井 麻記子(大阪大学・院)
「表象と自己の狭間で―Sia Figiel のWhere We Once Belongedにおける自己覚醒」 

〔梗概〕
 サモア人女性作家シア・フィジェルのWhere We Once Belonged(1996) は、主人公の少女アロファの成長を描いているが、それは伝統的な教養小説が主人公の自己形成、またはその挫折を描いているのとは大きく異なる。作品半ばを過ぎた辺りの章 “We” 、そして最終章の “I” というタイトルが示すように、これはアロファという「私」が戸惑いながらも「私たち」という共同体から分離されるまでの話である。物語の構造も、アロファの成長が時間軸に沿って直線的に描かれるのではない。彼女の血族や友人たちに加え、アロファの周囲にあった無数の人間が書き込まれ、かつ、過去と現在、現実と土着の神話的世界が錯綜する。最終的に叔母のシニヴァの自殺をきっかけに「私」に目覚めるまで、アロファが語り歌うのは、寧ろサモア人女性を中心とした共同体の唄である。しかしタイトルの “once” が示すようにその共同体はすでに形骸化している。
 抜け殻になっているのはサモア社会だけではない。サモアは西洋文化において「南海の楽園」表象を押し付けられ続けてきた。これは押し付けられる側も「楽園」という観光資源を提供するという点で西洋と共謀関係にある。また、キリスト教や学校で教えられるワーズワースの詩などの「正当な」西洋文化は、テレビや映画が伝える大衆文化と同等に受け止められており、アロファたちにとって「西洋」は現実味の薄い表象の塊である。テーブルクロスとテーブルのたとえ話にあるように、物語世界には「本質」を隠す表層が氾濫している。テーブルクロスは無限に重り、何枚めくってもテーブルは見えてこない。こうした表層的「楽園」表象ではない「真の」サモア的な何かを仄めかすものとして、女性の体臭や声が実体化している。つまり、肉体と土地を媒介に「サモア的なもの」が一応は示唆されている。しかしそれは単純なナショナリズムとも伝統賛美とも違う。だからこそ、アロファは「私たち」の夢から目覚めなければならなかったのだ。
〔参考文献〕
Figiel, Sia. Where We Once Belonged. New York: Kaya Press, 1999.
Keown, Michelle. “ “Gauguin is Dead”: Sia Figiel and the Representation of the Polynesian Female Body.” Journal of the South Pacific Association for Commonwealth Literature and Language Studies 48–49 (1999): 91–107.
小杉世「シィア・フィジェル『私たちがもといたところ』―サモアの日常」木村茂雄編『ポストコロニアル文学の現在』晃洋書房、2004.
中村和恵「「水仙」と植民地の女たち―キンケイド、リース、そしてフィジェル―」『英語青年』147 (2002): 690–95.
--- 「島めぐり文学ノート(2)―南太平洋、カリブ海、日本、それから―」『英語青年』150 (2005): 686–89.


柴田 聡子(昭和女子大学・院)
「The Return of the Native における “Return” の意味再考」

〔梗概〕
 トマス・ハーディが生きた時代は、18世紀後半に始まった産業革命に伴い、科学の進歩や発達などが目覚しい変遷の時を迎えていた。特に注目すべきことは、19世紀中頃に、チャールズ・ダーウィンが『種の起原』で人間を含めたあらゆる生物の起源と進化を科学的に証明し、キリスト教的世界観を根底から覆したことである。このことによって、これまでの教会からの教義を疑うことなく受け入れてきた人々の心に動揺が広がっていった。心の支えとなっていた信仰心が崩れていかざるをえなくなってしまったという深い悲観を抱いたハーディは、あらためて人間が何に拠り所を見出していくのかということを探求したのである。
 そこで、トマス・ハーディの『帰郷』を題材にして、作品の舞台であるエグドン・ヒースや、主人公クリム・ヨーブライトの妻ユーステイシア・ヴァイの人物像、さらに “I have come home” とクリムが語る意味を分析することにより、『帰郷』における “return” の意味について考察する。
 まず、エグドン・ヒースでは、主体となって四季を育み、村人や動物たちのコミュニティを創造する脈動ある大地であることに注目したい。次に、ユーステイシアの人物像では、炎の化身であるユーステイシアと炎との象徴性について考える。そして、生まれ故郷のエグドン・ヒースに帰ってきたクリムが語る “I have come home” という言葉の意味では、クリムにとっての “home” はエグドン・ヒースであると述べる。結論として、『帰郷』における “Return” とは、生命が息づく躍動感あふれる動的要素のあるエグドン・ヒースに、生命力を宿した動的存在であるクレアが帰ることであるとまとめる。
〔参考文献〕
深澤 俊『慰めの文学 -イギリス小説の愉しみ』 中央大学出版部 2002
日本ハーディ協会編『トマス・ハーディ全貌』 音羽書房鶴見書店 2007
ガストン・バシュラール著 渋沢孝輔訳『蝋燭の焔』 現代思想社 1966
ジリアン・ビア著 渡部ちあき・松井優子訳『ダーウィンの衝撃 -文学における進化論-』 工作舎 1998


平沼 公子(同志社大・院)
「Time, Space, and a Black Man:James BaldwinのGo Tell It on the Mountainにおける共同体再考」

〔梗概〕
 本報告では、アフリカン・アメリカン作家James BaldwinのGo Tell It on the Mountain における『コミュニティ意識』(Sense of Community)という概念を、都市という空間と時間の歪みの分析から再考する。
 一般的にアメリカ黒人文学における『コミュニティ意識』という言葉は、ジェンダー化され、アメリカ黒人女性文学を批評する場合において多用されてきた。また、この『コミュニティ意識』という概念は、その源をハーレム・ルネッサンス以前、都市化が急激に進む前のアメリカに見出すことが多く、Baldwinと同様にRichard WrightやRalph Ellisonが活躍した1940年代から1960年にかけてのアメリカ黒人文学においては、当時の現実を反映し、都市における孤独なアメリカ黒人男性像が主流なものである。Baldwinの主人公Johnもまた、私生児という烙印を押され、家庭の中でさえもアウトサイダーである運命を背負わされている。
 しかし、本来であれば、時代背景や主人公のジェンダーを考えるとEllisonの描いた『見えない人間』のナレーターやWrightのBiggerと同様、都市で孤独に闘うアメリカ黒人男性であるはずのBaldwinのJohnは、作品の最終段階でハーレムという共同体の愛によって自己の魂の救済を経験することとなる。この違いはどこからどこから生まれるのであろうか。ここで、Baldwinが描いた都市における共同体とは、ジェンダー化されたものではないことに注目したい。ハーレムの黒人教会という特殊な空間を中心に据えたことにより、Baldwinの描く共同体は女性が中心のものではなく、男女共に『コミュニティ意識』を支えあうことの出来る空間となって読者の目の前に現れてくる。また、実際にはほんの一昼夜の出来事を描写している本作品においては、これまでの批評家が指摘してきたとおり、フラッシュ・バックの多用による時間と空間の歪みが多く見受けられる。それらは勿論、私生児として生まれた主人公Johnの運命を、白人に汚されたアメリカ黒人全体の運命として示唆するものであろう。しかしまた、この時間と空間の歪みは、それ自体がジェンダーの歪みとなり、主人公の経験を奴隷制時代から今に至ってなお続く、アメリカ黒人としての経験を性差を超えた俯瞰図として見せることとなり得るだろう。
 本報告では、上記に述べたことを踏まえた上でGo Tell It On the Mountainを再読することによって、現代の、ともすればジェンダー化されがちな『コミュニティ意識』という概念のリミットを広げることの出来る作品としてのその可能性について論じたい。
〔参考文献〕
関口功、『アメリカ黒人の文学』(南雲堂、2005年)
荒このみ、『アフリカン・アメリカン文学論:「ニグロのイディオム」と想像力』(東京大学出版会、2004年)
Baldwin, James. Go Tell It on the Mountain. 1953. New York: Dell, 1980.
Harvey, David. The Condition of Postmodernity. 1980. Oxford: Cambridge UP, 1990.
Scruggs, Charles. Sweet Home. London: Johns Hopkins UP, 1993. (『黒人文学と見えない都市』松本昇 行方均 福田千鶴子訳 彩流社 1997年)
1st Vintage Books ed. Vintage Baldwin. New York: Random House, 2004.


原口 治(福井高専准教授)
「エルガー、パイソン、そしてエリザベス女王―『プロムス最終夜』における「イギリスらしさ」とは」

〔梗概〕
Ⅰ.序論 
 誰もが「気軽に」楽しめるようにとの意を込めて命名されたはずの「プロムス」が「排他的な文化現象となっている」――イギリスのホッジ文化相が今年4月に表明した見解は、特に「プロムス最終夜」に顕著な愛国的熱狂振りに苦言を呈したものであった。しかし、このようないわゆる「プロムス論争」は今回に始まったことでない。「今年もまた『あの』論争が始まった」と冷ややかに同相の言を報道した『週刊ガーディアン』によれば、「最終夜」とは、「ばかげたイギリスらしさが典型的に表象」され、「国旗を振りながら大声で愛国心をあおる定番の歌を合唱する場」である。とはいえ、「最終夜」は現在BBCの看板番組の一つで、世界各国に幅広く衛星中継されている。この魅力はやはり「最終夜」の第2部で毎年のように定番演奏されるエルガー等の曲と、それに合わせて熱狂的に合唱する観客の姿にあるといえよう。
 本発表は、発表者が実際に観覧にした2004年の「最終夜」のプログラム分析を中心に同コンサートにおけるイギリスらしさの一表象を論じたい。
Ⅱ.「プロムス最終夜」におけるイギリスらしさの構築
第2の国歌とも評される『威風堂々第1部:希望と栄光の国』をエルガーが発表したのはエドワード朝初期の1901年であった。エドワード7世の戴冠式のために用意されたこの曲は大好評をはくし、ヘンリーウッドにより「プロムスコンサート」のプログラムに組み込まれたのであった。
 しかし、現在のように「定番」としてプログラムが組まれるようになったのは、第2次大戦直後のイギリス斜陽期であった。イギリス国旗やセント・ジョージの十字架旗を始めとした様々な旗が振られる中で、行進曲『希望と栄光』や『ルール・ブリタニア』を力強く合唱するという形態がその特徴として定着し、今ではプロムスの代名詞とまでなった。
この情景から形成されるイギリスらしさのイメージを考えてみる。これはエドワード朝から戦間期の時代に特有なイギリスらしさとその特徴が重なる。「ノスタルジア」が鍵語となるイギリスらしさである。
Ⅲ.アメリカ人指揮者の振るエルガー
 近年の「最終夜」で注目すべきは2000年のアンドリュー・デイヴィス卿指揮のプログラムである。彼は「最終夜」のイギリスらしさの確立に大きく貢献した。彼の引退後、2001年より指揮者となったのがアメリカ人レナード・ストラッキンであった。この2人の相違が『プロムス最終夜』の一特徴を表わす。
発表者は2004年9月に、『プロムス』常任指揮者として最後となるストラッキンの「最終夜」をアリーナ中央第2列目より観覧した。この場で国旗は振るだけのものではなかった。それを身にまとう観客が多くいた。ナショナリズムが強調されないように、国旗のイヤリングに止めたという女性観客もいた。このような観客たちが体験するイギリスらしさとはどのようなものか。
Ⅳ.『パイソン』とエルガーが結びつけ(リンク)られた 
 通常、「最終夜」の『希望と栄光』の演奏前には指揮者が仕切り直すために小休止を入れる。観客の高揚感を煽るのその大きな目的だが、2004年の「最終夜」は従来と違ったプログラム構成で注目を引いた。『自由の鐘』から『希望と栄光』へと小休止を入れずに、ストレートに演奏が移ったのである。『自由の鐘』といえば、いわずともしれたBBCコメディ『モンティ・パイソン』のテーマ音楽。アメリカらしさを容易に想起させる曲である。いわば、『希望と栄光』と対をなすものである。ストラッキンはこの曲で観客全体に手拍子による参加を促した。例年、『希望と栄光』で行なわれる観客参加型のお決まり行事がこの時は一足早く行われたのである。パイソンとエルガー、異なる2者がつながったことになる――パイソン流に言えば見事な「リンク」であった。  
Ⅴ.結論
 2004年の「最終夜」はガーディアン紙がいうプロムスの雰囲気を崩そうとする興味深いプログラム構成であった。しかし、わずか2年後の「最終夜」の衛星放送では、『希望と栄光』の演奏中にエリザベス女王の映像を流すことで、おなじみのイギリスらしさのイメージが強化されている。BBCはイギリスらしさの探求をテーマに、Who Do You Think You Are?という番組まで制作している。メディアによる「イギリスらしさの探求=ナショナルアイデンティティの構築」はまだまだ続くのであろう。
「最終夜」は第一にコンサートであるが、BBCでテレビ放映される人気番組でもある。「最終夜」の観客とテレビの視聴者には大きな相違がある。それはあたかも、ロイヤル・アルバートホールの土間で国旗を振り大声で歌う観客と、それをボックス席から見下ろす観客との相違でもある。「最終夜」のイギリスらしさの表象とは、コンサートの観客だけでなく、そのテレビ放映を観る視聴者によっても増幅されていくことになる。
〔参考文献〕
指昭博,編.『イギリスであること――アイデンティティ探求の歴史』.東京:刀水書房,
1999.
須田泰成.『モンティ・パイソン大全』.東京:洋泉社,1999.
ターナー,グレアム.『カルチュラルスタディーズ入門――理論と英国での発展』.訳.溝
上由紀,他.東京:作品社,1999.
水越健一.『エドワード・エルガー希望と栄光の国』.神奈川:武田書店,2001.
蓑葉信弘.『BBC イギリス放送協会――パブリック・サービス放送の伝統』.東京:東信堂,2002.


一ノ谷 清美(名城大学准教授)
「1741年のヘンリー・フィールディング―政治諷刺版画をとおして読むThe Opposition. A Vision」

 1741年12月、ヘンリー・フィールディングは匿名で『反対派』と題する政治パンフレットを出版した。長年、ウォルポールの政治手法を批判し続けてきたフィールディングが、この政治的寓話作品では一転して、ウォルポール政権に反対する勢力(反対派)のふがいなさを諷刺し、ウォルポールを好々爺として描いている。この変化をどのように理解したらよいのだろうか。フィールディングの政治観が変わったと了解してよいのか。本発表では、同年2月から4月に売り出された一連の政治風刺版画をとおしてこの政治パンフレットを読む。具体的には、ドロシー・ジョージの言う「絵による論争」という観点から、党派的意図と図像との関係を抽出する。つまり、両党派の応酬として版画出版をとらえる。次に、これらの版画群とフィールディングの政治パンフレットに共通する党派的レトリックを指摘しながら、『反対派』が当時の読者には明らかにウォルポール側の出版物と受け止められたであろうことを証明する。
と同時に、定型化した表現を多用することは、作者の政治観を韜晦することにも結びつく点に着目したい。この観点から『反対派』を解釈するとき、フィールディングの「変節」を証明することは、見かけ以上に困難になる。しかし、この作品を政治動向の反映と見る先行研究を再考しながら、フィールディングの執筆意図について考察しようと思う。
『反対派』が出版されて2ヵ月後の1742年2月、ウォルポールは引退する。最後に、『反対派』が、ウォルポール引退を射程に入れた作品であることを指摘したいと思う。

〔参考文献〕
Atherton, Herbert. Political Prints in the Age of Hogarth: A Study of the Ideographic Representation of Politics. Oxford: Clarendon Press, 1974.
Coley, W. B. “Henry Fielding and the Two Walpoles,” Philological Quarterly 45 (1966): 157-78.
Fielding, Henry. Contributions to the Champion and Related Writings. Ed. W. B. Coley. Oxford: Clarendon Press, 2003.
George, M. Dorothy. English Political Caricature : A Study or Opinion and Propaganda. 2 vols. Oxford: Clarendon Press, 1959.
Ribble, Frederick G. “Fielding’s Rapprochement with Walpole in Late 1741.” Philological Quarterly 80(2001): 71-81.



中村 麻衣子(日本女子大学非常勤講師)
「公と私の「わたし」―ロジャー・ケイスメントの日記をめぐって」  

〔梗概〕 
ロジャー・ケイスメントは、今日アイルランドの国家建設のプロセスでの英雄のひとりとされている。彼の名を歴史に残すことになったのは、主として彼によるふたつの文書、1904年にコンゴ領事であった際にゴム採集地における原住民の虐待を告発した『ロジャー・ケイスメント領事による報告書』と、1916年に処刑された後にその存在が明らかになった『黒い日記』である。ケイスメントのコンゴやブラジルでの活動、とりわけ彼の同性愛が克明に記されたこの日記の真贋は常に様々な議論がおこなわれたが、2002年の筆跡鑑定では、ほぼケイスメントによるものだという結果が出された。彼の名を轟かせたのは、その人権擁護に対する活動よりも、むしろこの日記、その死から長きにわたって開かれることのなかった日記の存在によるといっても過言ではないだろう。しかしアイルランドで1993年まで違法とされていた同性愛という影が常につきまとっていたケイスメントが、いかにして英雄となりえたのか。本発表では、『黒い日記』と共に、反逆罪に問われた裁判での彼自身の言説を中心的に分析することにより、ケイスメント像の神話化と脱神話化のプロセスを明らかにする。
〔参考文献〕 
・Casement, Roger. ‘In Ireland alone, in this twentieth century, is loyalty held to be a crime.’ The Penguin Book of Historic Speeches. Ed. Brian MacArthur. London: Penguin Books, 1996. 418-424.
・Dudgeon, Jeffrey. Roger Casement: The Black Diaries. Belfast: Belfast Press, 2002.
・Miller, D.A. ‘Open Secret. Secret Subject.’ Dickens Studies Annual 14(1985)
・Yeats, W.B. ‘Roger Casement’ The Irish Press 2 February, 1937, 6.
・富山太佳夫 『シャーロック・ホームズの世紀末』(青土社、1993年)




三枝 和彦(東北大学助教)
ハクスリーのためらい:建築の表象における価値観の模索

〔梗概〕
 1920年代初期のロンドンを舞台として書かれたAldous Huxleyの二作目の小説Antic Hay(1923)は、第一次大戦後という時代の雰囲気を感じ取った社会風刺的小説として位置づけられている。そこではヴィクトリア朝・エドワード朝的な宗教観や価値観に幻滅してこれを受け入れず、むしろそういった社会的規範を軽視して奔放に振る舞う若者たちが主人公として描き出されている。また、作品に織り込まれた当時としては大胆な男女の交友関係や性的描写も、戦前までの道徳観に対する反抗的な態度のひとつに数えられる。それらを好意的に受け入れる読者が存在した一方で、憤慨して非難する読者も少なからず存在し、それが理由で所蔵を拒否する図書館が現れたほどである。この小説は、ハクスリー自身が「戦争世代とでも呼べるようなもののひとりが同世代のために書いた」と表現しているように(Baker 2)、第一次大戦後の若者たちが共有する意識を表現しており、著者自身が世代の代弁者と目されることに寄与している。しかしながら、確かに作品中では若者世代の振る舞いに焦点が当てられ、前世代のもつ価値観が否定的に描写されているものの、作品が表明する両世代への態度を単純な二項対立として捉えることは性急である。その態度は必ずしも一定しておらず、肯定と否定のあいだで揺れ動いているように見えるからだ。Milton Birnabaumはハクスリーの作品では常に「価値観の探求」が行われており、「1920年代に出版された小説はすべて・・・価値観の伝統的な拠り所がいかに戦後世代には欠けているかを表そうとしている」と述べているが(5)、だとすればこの態度の揺らぎはこの拠り所の欠如に関わりがありそうだ。
この小説では建築物の描写や建築に対する人々の反応や考え方に頻繁に出会うが、ここに価値観の揺らぎを認めることができる。そこで本論はこれらを分析して整理したい。そうすることによって、戦前と戦後というふたつの世代に対するこの小説の態度をより明確に理解することが可能になり、さらには作品の背後に存在するハクスリーの態度への洞察がもたらされるだろう。また、この分析においてはガンブリル父子の関係にも焦点が当てられることになるため、戦間期の小説に描かれた父子関係についての考察にもなるだろう。
 ガンブリル氏が住む家は背の高い、地下室を備えた五層からなる立派な建物である。屋敷に付設された小さな庭には、屋敷を包み込んで外部からの影響を遮断するかのように木々が植えられ、その梢にはムクドリが囀り、さながらカントリーハウスのような空間を作り出している。ところが屋敷の姿は歪み、内部や骨格には奇妙にも早い劣化が進んでいる。周囲に目を向ければ数年前までは一画を占めていた立派な屋敷が姿を消し、それに代わって現代都市的な建造物であるみすぼらしいメゾネットが次々と姿を現している。更に屋敷の住人たちが立ち去った街の通りには、それまでは入り込むことのなかった近隣のスラムに住む子供たちが侵入して闊歩している。中産階級の居住地は、都市が現代化するにつれて下層階級の居住地へと変貌を遂げていた。ガンブリル家はこのようにいわば衰退しつつある街の一画に立ち続ける、朽ちてゆく家である。この家と街並みの描写は、ハクスリーがCrome Yellow(1921)で行ったのと同様に、カントリーハウスないしはタウンハウスの風刺的表象である。急速に変化する街並みの中で、この変化から取り残されたように立ち続けるガンブリル家は不思議な存在である。木々や小鳥に守られた牧歌的な空間は、現代的な住宅地の中で明らかに違和感を生じさせていて、滑稽ですらある。その存在を維持する無理が祟ったかのように思わせる家の内部の状況が、その印象をいっそう強めている。何世代にも渡って継承されるカントリーハウスは伝統的価値観を体現する存在であり、近代化する社会においてはノスタルジアを喚起する装置として機能してきた。人々はハウスを通して自分たちのアイデンティティを確認し、安心感を得ることができた。しかしガンブリル家はそのような拠り所として描かれてはいない。周囲との調和を欠いたこの屋敷は時代に逆行する存在として揶揄される対象である。そしてこの揶揄の矛先はハウスにノスタルジアを抱いて満足するような姿勢にまで向けられているのである。カントリーハウスの風刺的表象は同時代の作家Evelyn Waughと同様の手法である。伝統的文化に強い憧憬を抱いたウォーによる表象は愛着の屈折した表現だと考えられるが、偉大な文人の家系に生まれてマナーハウスで生活を送り、伝統的な文化に親しんでいたハクスリーにもこのことが当てはまるのではないだろうか。
 ノスタルジアに対する風刺はガンブリル氏の取り扱いにおいて顕著である。ガンブリル氏は芸術家的な姿勢が強すぎるあまり商業的な成功を収めることのできない建築家だ。彼は隠遁者のように外界との積極的な関わりを避けて時代遅れの屋敷で静かに暮らしているが、理想の建築を実現しようという情熱を燃やし続けており、それをミニチュア模型という形で密かに具現化している。また、機会があれば建築論についてしばしば長広舌を披露もする。しかしこういった姿は自分の息子からさえ暖かい賛同を得ることはできない。例えば息子セオドアが辞職を報告しにやって来たときのことである。氏は息子を作業場へと案内し、そこで制作しているロンドンのミニチュア模型を披露する。それは多様な建築物の寄せ集めだが氏の情熱の結晶である。氏は息子に模型の建造物の説明をしてやり、それを熱のこもった建築論へと発展させていくが、やがて感情が高ぶりすぎてそれ以上言葉を続けることができなくなってしまう。それまで父の弁論を聞いていたセオドアは、話が途切れるやいなや腕時計に目をやって「もう寝る時間だ」と言い放つ(29)。氏が制作した模型も建築論も息子の関心を十分に引きつけることができず、冷たく見えるほどにあっさりした反応を受けてしまう。別の折りには息子とその友人シアウォーターに、壮大なロンドンの街並みの模型を見せながら哲学的とも言える建築論を滔々と述べ立てていく。それはロンドン大火の後の再建案として建築家クリストファー・レンが考案した図面を基にした大規模な模型である。模型自体は驚嘆といくぶん好意的な反応を受けるものの、ガンブリル氏の情熱はここでも空回りをしてしまう。

Gumbril Senior expounded his city with passion. He pointed to the model on the ground, he lifted his arms and turned up his eyes to suggest the size and splendour of his edifices. His hair blew wispily loose and fell into his eyes, and had to be brushed impatiently back again. He pulled at his beard; his spectacles flashed, as though they were living eyes. Looking at him, Gumbril Junior could imagine that he saw before him the passionate and gesticulating silhouette of one of those old shepherds who stand at the base of Piranesi’s ruins demonstrating obscurely the prodigious grandeur and the abjection of the human race. (158)

これまでの建築家人生の集大成とでも言うべき大作を前にして、ガンブリル氏は活き活きと説明をするのだが、セオドアはその姿からピラネージの作品に描かれた、遺跡のふもとに立って大仰な身振りを交えつつ人類の偉大さと零落を説明する老羊飼いを想像する。雄大な古典的建築に対する憧憬が、大言をわめき散らす予言者が醸し出す滑稽さとして受け取られてしまっているのだ。
 これらの場面では伝統的文化への憧憬とそれに対する軽視とが対置されており、その結果、急速に現代化する社会において過去へのノスタルジアを抱き続けることが風刺されている。ガンブリル氏の情熱は息子から冷たくあしらわれているのだが、小説の展開からも好意的な扱いを受けることができない。氏は精魂こめて造り上げた模型をアルバート・ヴィクトリア博物館に売却してしまう。友人であるポルテアス氏が息子の借金を返済するために蔵書を売り払ったことを哀れに思い、いくらかを買い戻せるよう資金を援助するためである。模型の人道主義的な運命はガンブリル氏が現代社会において有益であることを示すエピソードとして解釈することもできる。しかしながら博物館の所蔵物となった模型は、それが実際に建設される可能性を完全に失う。ガンブリル氏が実現を夢見る建築の模型は他の過去の遺物に混じって展示されるだろうが、その結果ノスタルジアを提供するだけの存在に過ぎなくなってしまう。
 ここまでのように、建築という主題を通して伝統的文化と現代的文化への態度が顕著に提示されている。だが興味深いことに、ガンブリル氏が一定して伝統的な建築への愛着と現代的なそれへの非難を繰り返すのに対し、セオドアの態度は一定していない。彼は父親のノスタルジアを揶揄しながらも、伝統的なものに対して必ずしも否定的というわけではないのである。自分の発明品を売り出すためにイギリスを離れる直前、彼はヴィヴィアッシュ未亡人と夜のロンドンをタクシーで駆け巡る。ヴィヴィアッシュが夜空に輝きを放つ空中広告に魅了されて賞賛の声をあげるが、そんな彼女をセオドアはたしなめる。彼にとってそれらは現代社会の下品で愚かな面の表れであり、むしろ消防署の荘重で威厳のある建物の方が好ましいという。彼は戦後世代の若者でありながら、現代的な建造物である空中広告に社会の虚飾を、伝統的な建造物に価値を見出している。セオドアは更に教育においても現代の問題を鋭く指摘する。彼は歴史の教師であるが、自分の実践している教育が、下手な書き手によって一般化された歴史の教科書を学生に読ませ、程度がいっそう低下したエッセイを書かせていることに気づく。彼はこの文化的な悪循環に対して憤りを覚えて糾弾する。彼は事態を改善するための努力をすることなく安易に辞職してしまうが、現代文化に対して批判的な眼差しを向けてもいることは確かである。
 このように一定しないセオドアの態度は人物造形における欠陥とみることもできようが、拠り所とすべき価値観を見出せずにいる若者の態度だと解釈することもできよう。彼等は大戦前の価値観を受け入れることができないが、それに代わる価値観を戦後間もない社会に見出すこともできずにいるのである。
建築を巡るガンブリル氏とセオドアとの関係はとりもなおさず父と息子との対立であるが、この対立はAntic Hayより十数年先立って書かれた、Edmund Gossの自伝的小説Father and Son(1907)にも見ることができる。そこでは厳格な信仰と道徳観に縛られた父親の頑迷さを、息子が冷静な眼差しで観察し、辛辣とも言える評価を下している。ハクスリーの小説はこの反復である。ガンブリル氏はゴスとほぼ同世代と考えられるため、三世代にまたがって息子から父親への批判が繰り返されていることになる。
ゴスの小説は、息子の側に視点をおいた一人称の語りという構造上の性質から、公平さを図ろうという試みはあるものの、どうしても一方的な批判になっている。Antic Hayでは父親の息子に対する評価も書き込まれている。ガンブリル氏はセオドアのだらしのない性格や職業への適性を辛辣に指摘する。また、クラブで遊び呆ける息子に対するポルテナス氏の嘆きも、父親と息子との対立の一例である。ハクスリーは同世代の愚かしさにも目をつぶることなく描き留めており、その結果、この小説は両世代をその射程に入れた風刺小説となっている。
 戦前と戦後の世代両方に攻撃の矛先を向けることによって、Antic Hayは社会風刺としてのバランスを図っているが、これは一方を肯定することへの作家ハクスリーの不安感の表われとも考えられる。戦後の若者世代を代表する作家として、父親世代がもつ価値観に批判的な眼差しを向ける一方で、同世代の振舞いや現代的な文化に対して不安を感じ、拠り所とするべき価値観を見出せずにいる。このようにAntic Hayは、大戦後の復興期に新たな価値観を打ち立てようと模索する姿勢を、建築の表象において顕著に表した作品である。だが現代文化に対する不安感は一層強まり、未来をも射程に入れた風刺小説であるBrave New World(1932)として実体化したのである。

Works Cited and Consulted

Atkins, John. Aldous Huxley: A Literary Study. New and Revised Edition. London:
Calder and Boyars, 1967.
Baker, Robert S. Brave New World: History, Science, and Dystopia. Boston:
Twayne, 1990.
Birnabaum, Milton. Aldous Huxley’s Quest for Values. Knoxville: U of Tennessee P,
1971. 
Brooke, Jocelyn. Aldous Huxley. Rev. ed. 1958. Essex: Longman, 1972.
Gill, Richard. Happy Rural Seat. New Haven: Yale UP, 1972.
Gosse, Edmund. Father and Son. 1907. Ed. with Intro and Notes by Michael
Newton. Oxford: Oxford UP, 2004.
Huxley, Aldous. Antic Hay. 1923. London: Vintage, 2004.
---. Brave New World. 1932. London: Vintage, 2004.
---. Crome Yellow. 1921. London: Vintage, 2004.
Kelsall, Malcolm. The Great Good Place: The Country House and English
Literature. New York: Harvester Wheatsheaf, 1993.
Watts, Harold H. Aldous Huxley. Boston: Twayne, 1969.



シンポジウム
「南太平洋という物語空間――<英・米・日>トランス・パシフィック文学論」

司会・講師: 服部 典之(大阪大学教授・イギリス文学)
   講師: 原田 範行(杏林大学教授・イギリス文学)
   講師: 橋本 安央(関西学院大学教授・アメリカ文学)
   講師: 出原 隆俊(大阪大学教授・日本文学)


今回のシンポの趣旨は、18世紀後半のクックやブーガンヴィルの南太平洋航海以来、ヨーロッパにおける「南海表象」の歴史が展開してきたが、その虚実をイギリス・アメリカ・日本の文学を中心に辿りたいというものである。太平洋戦争が北太平洋を席巻していた日本と南太平洋を押さえたアメリカを中心とする欧米の間の戦いであったことが象徴的に示すように、太平洋はユートピア幻想という想像力を喚起するトポスであったと同時に、帝国的野心にとっては垂涎の的であった。ただ、今回のシンポジウムは、ポストコロニアル理論の型どおりの議論で南太平洋を一刀両断することを目的にするわけではない。

20世紀前半に活躍した日本の博物学者とでも言える蜂須賀正氏は『南の探検』(1943)で「地図の上に胡椒を撒き散らしたような太平洋の名も知れぬ島々を探検したら、学界未知の動物を発見すると同時に、かのダーウィンまたはウォーレスにも勝るような生物界の真理を発見できるような気がしてならない」と言っている。我々のシンポは博物学ではなく文学を扱うものだが、太平洋に焦点を絞った議論がディシプリンを越えてなされてきてないように思われることを考えると(トランス・アトランティック文学論は最近語られるが)、我々は蜂須賀の感じたような好奇心を覚えざるを得ない。

今回は、近代のイギリス文学の観点でクックの『南太平洋周航記』の翻訳者である原田範行(はらだ のりゆき)に、クックやブーガンヴィルを中心に18世紀のヨーロッパからみた南太平洋表象について話をいただき、メルヴィルの専門家であり高橋和己論の著書もある橋本安央(はしもと やすなか)には、マルケサス諸島やタヒチで展開する物語である『タイピー』『オムー』などを論じていただき、服部典之(はっとり のりゆき)はサモアを中心に展開するスティーヴンソンの南海物語をユートピア幻想とそこに侵入する反乱と貪欲の幻滅を語り、日本の近現代小説のほぼすべてに通暁されている出原隆俊(いずはら たかとし)には、スティーヴンソンの『宝島』を書き換えた物語『光と風と夢』など南海物語を何冊か残した中島敦を論じていただくという計画である。

トランス・パシフィックな文学冒険旅行に出帆したい。


テクスト研究学会第7回大会プログラム

● 日 時:2007年8月24日(金) 受け付け午前9時15分から
● 場 所:青山学院大学総合研究所ビル(教室等は学会HPでご確認ください。) 
〒150-8366 東京都渋谷区渋谷4-4-25 TEL:03-3409-8111(代表)
(JR渋谷駅,東京メトロ銀座線表参道駅下車)
● 参加費:500円(当日受付で支払い)
※参加希望者は、事前に学会ホームページからオンラインで申し込んでください。
◆ 開 会 の 辞(10:00~10:05) 
◆ 研 究 発 表(10:10~10:45, 10:45~11:20, 11:20~11:55)
研究発表1(10:10~10:45) 司会: 服 部 典 之(大阪大学)
金 子  洋 一(東京理科大学専任講師)
「Joseph Andrewsの法的解釈―証拠/証言法からの読みの可能性」
研究発表2(10:45~11:20) 司会: 服 部 典 之(大阪大学)
白 鳥  義 博(慶應義塾大学非常勤講師)
「小説家ヘンリー・フィールディングと名声の政治学」
研究発表3(11:20~11:55) 司会: 富 山 太 佳 夫(青山学院大学)
川 崎  明 子(駒澤大学専任講師)
「作家であることの功罪―『デヴィッド・コパフィールド』に見る自伝小説の一人称の語り」
< 昼 食(11:55~13:00)>
  研究発表4(13:00~13:35) 司会: 富 山 太 佳 夫(青山学院大学)
   年 岡  智 見(京都大学大学院博士課程)
 「『不思議の国のアリス』に見られる名詞・代名詞の用法に関して―認知的・機能的観点から」
  研究発表5(13:35~14:10) 司会: 富 山 太 佳 夫(青山学院大学)
   数 藤  久 美 子(関西大学大学院修士課程修了)
「引用符を巡る物語行為―Paul Auster, The Locked Room」
  研究発表6(14:10~14:45)司会: 向 井 秀 忠(松山大学)
西 村  和 泉(名古屋芸術大学専任講師)
「ヌーヴォー・シルクにおける表現の可能性について―“白面の道化”の考察を中心に」
◆ シンポジウム(15:00~17:30)
 テーマ:「結婚しようよ…♪―オースティン、ディケンズ、ロレンス、そしてラドクリフ・ホール」
講 師: 富山 太佳夫(司会・青山学院大学教授)
中村 裕子(神戸大学非常勤講師)
新野  緑 (神戸市外国語大学教授)
武藤 浩史(慶應義塾大学教授)
◆ 総 会(17:40~18:00) 
◆ 閉 会 の 辞(18:00~18:05)
◆ 懇親会(18:30~20:30) 場 所:青学会館


 テクスト研究学会第6回大会プログラム

● 日 時:2006年8月25日(金) 受け付け午前10時15分から
● 場 所:青山学院大学総合研究所ビル 〒150-8366 東京都渋谷区渋谷4-4-25
TEL:03-3409-8111(代表) 
JR渋谷駅,東京メトロ銀座線表参道駅下車
● 参加費:500円(当日受付で支払い)
◆ 開 会 の 辞(11:00~11:05) 第18会議室
◆ 研 究 発 表(11:10~12:10, 13:10~13:40) 第18会議室
研究発表1(11:10~11:40) 司会: 井上 義夫(一橋大学)
福 井 彩 乃(愛知淑徳大学大学院修士課程)
「翻案小説として読むアナスタシア伝説」
研究発表2(11:40~12:10) 司会: 有満 保江(同志社大学)
加 藤 匠(上智大学大学院博士後期課程)
「パトリック・ホワイトにおけるオーストラリア」
< 昼 食 >
研究発表3(13:10~13:40) 司会: 森 晴秀(京都女子大学)
小林 雄一郎(法政大学大学院博士後期課程)
「コーパスに基づくGraded Readers研究序説」
◆ シンポジウム(13:50~16:20) 第19会議室
  テーマ: 「現代批評とどう向き合うか」
  講 師: 折島 正司(青山学院大学教授)、富山 太佳夫(青山学院大学教授) ほか
◆ 特別講演(16:30~17:30) 第19会議室
講演者: 羽矢 謙一(元明治大学教授)   
演 題: 「私と英文学」
司 会: 深澤 俊(中央大学名誉教授・テクスト研究学会会長) 
◆ 総 会(17:35~17:55) 第19会議室
◆ 閉 会 の 辞(17:55~18:00)
◆ 懇親会(18:30~ )    
場 所:青学会館       
【研究発表の梗概および参考文献】
研究発表Ⅰ
翻案小説のモチーフとして読むアナスタシア伝説
福井 彩乃(愛知淑徳大学大学院修士課程)
 明治・大正時代にブームとなり,黒岩涙香らが発展させた翻案小説の歴史と特色は現代まで受け継がれてきた.翻案小説とは,海外文学と国文学の見事な融合であるだけでなく,日本文学の独特なジャンルでもあり,吉武好孝氏は「翻案という分野は,日本文学の近代化の過程においてもっとも大きな役割を果してきている」と明言している.また,日本のTVドラマや映画には小説や漫画等から翻案されたものが多く存在し,近年は文化面においても翻案は注目されているはずだ.翻案小説の核となるモチーフは何度も,数多くの作家に好まれて使用される.20世紀最大のミステリーと謳われたアナスタシア皇女の伝説は,ロシアで誕生し,アメリカで発展し,日本で翻案小説のモチーフとして好まれている.
 アナスタシア・ニコライエヴナ皇女は,ロシア・ロマノフ王朝皇帝ニコライ二世の四女として1901年に誕生した.1917年に革命が起こり,皇帝一家は軟禁状態に置かれ,翌年の1918年に処刑され,遺体は地中深く埋められ,1989年まで発見されなかった.処刑のニュースは新聞で伝えられたが,行方不明の一家に関する様々な噂が世界中を駆け巡る.当時流れた噂の中には,皇帝の子どもたちは行方不明だが生き延びていて遺産を相続する,というものがあった.この噂に呼応して,1920年代にはロマノフ家の遺産を相続しようとした詐称者たちが出現し,メディアの注目の的となった.この詐称者の中で最も有名なのがアンナ・アンダーソンという女性である.彼女は1920年にベルリンの運河にて投身自殺を図り,のちに自分はアナスタシア皇女であると主張した.彼女はロシア宮廷の知識やアナスタシアの少女時代の記憶について語ることができた.アンナは, 皇女と認められるための裁判を起こし,その裁判は判決までに30年以上もかかり,人々の注目を集め続けた.アンナの語る物語は,主にアメリカで戯曲・映画・小説化され,イングリッド・バーグマン主演のハリウッド映画『追想』(1956年 原題はAnastasia)などがある.行方不明のアナスタシアに関する噂は半ば伝説化され,アンナの半生がアナスタシア伝説となっている.94年にDNA鑑定によってアンナはアナスタシアではなかったと証明されたが,未だに謎の部分もあり,伝記作家Peter Kurth氏によれば,この伝説は今後も続くとのことである.
 ハリウッド映画の効果とアンナがアメリカに移住したことが影響して,1980年代のアメリカでは数多くアナスタシア伝説を取り扱った小説が執筆されている.この伝説はアメリカで発展したものであるとの解釈が多いが,日本においてアナスタシア伝説は翻案小説のモチーフとしての歴史がある.
 最も古くに創作されたとされる,アナスタシアやロマノフ家に関するミステリーを題材にした小説は, 1930年にアメリカで出版されており,定説では,アナスタシア伝説のゆかりの地はアメリカということになっている.しかし,武藤康史氏の論文を参照すると,これより先の1919年に菊池寛が短編「たちあな姫」にて皇帝一家処刑の噂を小説のモチーフとして柔軟に取り入れている.また,1928年には夢野久作が短編「死後の恋」にてアナスタシア伝説を取り入れており,日本においての初期のアナスタシア伝説の変遷に関する武藤氏の論文は,世界に先駆けてアナスタシア伝説が日本において最も早く翻案されていたことを裏付ける.
菊池・夢野がアナスタシア伝説を巧みに翻案することができた背景には,明治時代より発展した翻訳文学ブームの影響が見受けられると思われる.また,アナスタシア伝説を翻案とする小説は1980年代から現在に至るまで数多く書かれた.阿刀田高,小川洋子,山崎洋子などが執筆しており,10作品以上が生み出されている.また,1997年には『追想』をリメイクしたアニメ映画がハリウッドで創られ,アナスタシア伝説は世界中でフィクション類のモチーフとして好まれている.
日本で誕生したアナスタシア伝説を翻案した作品の数々をハリウッド映画やアメリカで書かれた小説と比較すると,独特な「ずれ」が生じている.「翻訳というのは,そもそも言語と言語,文化と文化が衝突する現場だ」と鴻巣友季子氏が語るように,翻訳・翻案のプロセス上で「ずれ」が生じたためか,処刑から蘇生した皇女という噂話に恐怖を感じるためか,どの作品も一筋縄ではいかないプロットである.日本におけるアナスタシア伝説のイメージは,映画『リング』(1998)における,井戸から這い上がって蘇生する少女・貞子のイメージと重なり合うように思われる.日本において独自のイメージを確立しているアナスタシア伝説を翻案小説・翻訳文学のモチーフとして捉えて読み解き,欧米と日本におけるこの伝説のイメージを考察し,比較文学の一例としての可能性を論じたい.

【参考文献】
・Kurth, Peter. Anastasia: the Riddle of Anna Anderson [1983]. (Boston, Toronto: Little Brown Company. 1986.)
・阿刀田高 「白い蟹」 (新潮社、『花あらし』所収、2001年)
・小川洋子 「蘇生」 (角川書店、『偶然の祝福』所収、2000年)
・‐‐‐. 『貴婦人Aの蘇生』 (朝日新聞社、2002年)
・鴻巣友季子『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮社、新潮新書、2005年)
・武藤康史「日本におけるアナスタシア伝説」(山梨県立文学館、雑誌『資料と研究 第四輯』所収、1999年)
・山崎洋子 『横浜秘色歌留多』[1989] (講談社、講談社文庫、1992年)
・吉武好孝『近代文学の中の西欧』(教育出版センター、1974年)

研究発表2
「パトリック・ホワイトにおけるオーストラリア」
上智大学大学院博士後期課程3年:加藤 匠
作家にとって、自らが属する国はどのような意味をもちうるのだろうか。この問題は、大英帝国の流刑地という特異な歴史をもち、それが国としてのアイデンティティ形成にかかわってきた国オーストラリアの作家にとっては、特に痛切な問題となるはずである。そのような意識は、「現在のオーストラリアを語るうえで、流刑地という過去から目をそむけることはできない」としたピーター・ケアリーにまで引き継がれている。
 本発表では、オーストラリア文学に多大なる影響を与えた作家パトリック・ホワイトがその系譜のなかでどのような位置を占めるのか、換言するならば、彼が作品のなかで祖国をいかなる形で捉え、その姿勢から浮上してくるものは何かについて論じる。小説、戯曲、自伝などを通じて、生涯にわたって祖国について取り組まざるを得なかった彼は、祖国のあり方を批判する発言でも知られている。その彼が植民地時代を扱った作品Vossを軸としながら、特に<オーストラリアという国をめぐる神話>の形成をいかに捉えたかということを踏まえて、DNBにおいてなされている「祖国に対する両義的な姿勢」を見せたという記述にどこまで妥当性があるのか、作品レヴェルで再考する。

参考文献:
Peter Wolfe, Critical Essays on Patrick White. Boston, Mass.: G.K. Hall, 1990.
Mark Williams, Patrick White. New York: St. Martin’s Press, 1993.
Barry Argyle, Patrick White. Edinburgh, London: Oliver & Boyd, 1967.
David Marr, Patrick White: a life. New York: Knopf, 1992.
Elizabeth Webby, The Cambridge Companion to Australian Literature. Cambridge: Cambridge UP, 2000.
有満保江「ロレンスとパトリック・ホワイト:イギリスとオーストラリアをめぐって 」、D.H.ロレンス研究会編『カンガルー』。東京、朝日出版社 、1990年。

研究発表3
コーパスに基づくGraded Readers研究序説
小林 雄一郎 (法政大学大学院)
 Graded Readers (以下、GRと略記)とは、英米小説の語彙や構造を制限した多読用英語教材である。それは、第2言語教育・外国語教育の中で幅広く使われているが、その語彙制限やテクスト構造を数量的に実証した研究は非常に少ない。従って、本研究の目的は、コンピューター可読なGRのデータベース(コーパス)を構築し、その語彙頻度や統語構造を体系的に記述することにある。今回は、その端緒を開くべく、① GRが設定する見出し語とは何か、② GR間における重なり語率はどれくらいなのか、③ GRはどの程度基本語を含んでいるのか、という3つの問題を中心に議論を展開する。
 本発表では、100万語のGRコーパスであるThe Hosei-Meikai Corpus of Graded Readers (HMCGR)に収められているCambridge English Readersのデータ(約30万語)を分析し、必要に応じてPenguin ReadersとOxford Bookworms Libraryのデータと比較する。このCambridge English Readersは、既存の小説を書き直した他のGRと異なり、全てオリジナルのテクストである。その限りで、このシリーズは、従来のGR研究の焦点であったテクストの「真正性 (authenticity)」の問題をクリアしている。また、書き下ろしの物語であるが故に、他のGRと比べて、語彙や文法がより厳密に制限されていると推測し得る。
 分析にあたっては、コーパス言語学の方法論を用いる。コーパスに基づく研究法の利点は、コンピューターを利用することによって、手作業では扱い得ない大規模な言語データを一括処理し、客観的な分析を可能にすることにある。具体的なデータ処理の方法としては、第1に、自動品詞タグ付けプログラムを用いてコーパスに言語情報を付与し、簡単な構文解析を行なう。第2に、市販のコンコーダンサーを用いて基本的な統計情報を抽出し、スクリプト言語Perlと統計処理言語Rでより柔軟なテクスト処理・統計処理を行なう。第3に、コーパスにおける語彙使用を計量するために、RANGEプログラムなどの外的な尺度を用いる。
 そして、以上の作業で得られた統計解析結果を語彙習得の視座から解釈し、コーパスに基づく量的分析を補完する質的分析を試みる。とりわけ、異レベル間および同レベル間のGRの重なり語率が、未知語の推測に関する学習者の認知能力にとって充分なものであるか否かを明らかにし、今後のGR開発の一助となるような情報を模索する。

【参考文献】
・齊藤俊雄・中村純作・赤野一郎(編)(2005)『英語コーパス言語学――基礎と実践』(改訂新版) 東京: 研究社出版. 
・投野由紀夫(編著)(1997) 『英語語彙習得論――ボキャブラリー学習を科学する』 東京: 河源社.


テクスト研究学会第5回大会プログラム

●日時 2005年8月26日(金曜日)  受付10:00~
●会場 青山学院大学(JR渋谷駅,東京メトロ銀座線表参道駅下車) 
●参加費 500円(当日受付で支払い)
==== 研究発表 =======
◆10:30~11:00
[1室] 司会: 服部典之(大阪大)
石井義秀(東京都立大院)
「A Passage to Indiaにおける不安と支配」      

[2室] 司会:川端康雄(日本女子大)
福西由実子(東京大院)
「〈家族〉としての英国:第二次大戦期におけるジョージ・オーウェルの国民文化表象」     

◆11:05~11:35
[1室] 司会: 服部典之(大阪大)
志渡岡理恵(聖マリアンナ医大研究員)
「『女クルーソー』とプロテスタントのコンダクトブック」   

[2室] 司会:川端康雄(日本女子大)
西村和泉(愛知県立大非常勤講師)
「サミュエル・ベケット『事の次第』におけるコクーニングとノマディスム」

◆11:40~12:10
[1室] 司会:谷田恵司(東京家政大)
杉村醇子(同志社大嘱託講師)
「父と娘の物語ーThe Mayor of CasterbridgeにおけるHenchardの変化について」

[2室] 司会:向井秀忠(松山大)
畑山浩昭(桜美林大助教授)
「現代レトリック研究におけるテクストの理解」

◆13:10~13:40
[1室] 司会:谷田恵司(東京家政大)
西村智(愛知文教大助教授)
「トマス・ハーディのレトリック-『帰郷』における擬人法をめぐって-」    

==== 講演,シンポ =======
13:40~16:00
シンポジウム 「ハリー・ポッターほか ― ファンタジー文学の魅力」
企画 富山太佳夫(青山学院大)
講師 松井優子(駿河台大学)
    増田珠子(駿河台大学)
    新井潤美(中央大学)
    団野恵美子(姫路獨協大学)
16:10~17:00 
講演 深澤 俊(中央大) 「The ache of modernism」
17:20~ 懇親会
研究発表の概要
◆10:30~11:00
[1室] 石井義秀(東京都立大院)
「A Passage to Indiaにおける不安と支配」      
 本論では、E.M.ForsterのA Passage to Indiaにおける対立の諸相を、不安と支配という観点から論じた。Forsterの小説では、俗物的な人物が登場し、彼らの偏屈な態度が面白おかしく描写されている。しかし、評論においてForsterは、俗物的な人物は、盲目的についていける英雄を求めるようになると述べ、彼らの持つ危うさを警告している。この考えは、Hanna Arendtとの類似点がうかがえる。Arendtは、階級社会崩壊が、アトム化した不安に苛まれる大衆を出現させたという。彼らが不安を消してくれる指導者を求め、その指導者は壮大な目標を与える。この目標へ向かって、熱狂的に運動する過程が全体性を形成し、運動に加わらない人を弾圧するようになるという。要するに、孤独からくる不安が反動となって、自分の心を満たしてくれる何かを強く求め、そこに全体的な排他性が生まれている。これはA Passage to Indiaにおいて、故国を離れ見知らぬ海外で働かざるを得なかったイギリス人植民地官僚達にも当てはまるのではなかろうか。彼らは、理性を持つ優秀な自分達が、野蛮を根絶して文明化させるという帝国主義を正当化した使命を懸命に遂行し、自分の存在への不安を打ち消そうとする。しかし、帝国の使命を遂行してインド人を支配すればするほど、自分達より劣ると思い込んでいるインド人に軽蔑感を持ち、傲慢になっていく。日常生活でもイギリス人達は排他的グループを作り、インド人を差別し、両民族の対立の一因となっている。実は、このような不安と支配は、イギリス人達の排他的態度を批判し、インド人に理解を示そうとしているAdelaにも共通しているのである。それは、ところどころで確認できるが、一番よく読み取れるのが、マラバー洞窟での彼女の態度である。マラバー洞窟に入る前に、婚約者のRonnyを愛していないことを知り、彼女は空虚になっている。自分に他者が愛せるだろうかと不安になったところで、全てを無へと変えるこだまに出会う。彼女は、それに合理的な意味づけを行おうとするが、それができず混乱してAzizを訴える。これは、彼女が東洋の無を認めることができず、理性に頼って判断することで暴力的に東洋の価値を押さえつけようとしていると解釈できる。そして、意味づけができずに、自己の意思の下へ支配できないことの敵意がAzizに向かったように思える。裁判でAzizの味方をしたFieldingも洞窟のこだまが理解できず、Azizとの間に溝ができてしまった。内面的なやさしさを持つMooreは、Azizの無罪を信じるものの裁判で彼の証言台に立つことはせず、何もしないで帰っていく。これは、彼女が冷たいからではなく、こだまの無を受け入れたことを意味し、東洋を尊重したからだといえる。こだまの無を受け入れた彼女は、唯一不安に苦しめられることも無く、他者を支配しようとは思わないのであり、結果的に神秘的なやり方ではあるが、彼女が対立を静める調和的な役割を果たすことになると思われる。

 E.M.ForsterのA Passage to Indiaは、東洋と西洋の異文化対立をテーマに扱っているが、その主要な対立は、Forsterの小説で頻繁に登場する俗物的な人物達によってではなく、彼らに批判的でForsterと考え方が近い人物によってなされる。本論では、この対立のパターンを不安と支配という観点から論じていく予定である。発表ではまず、対立を引き起こす俗物的な人物について述べたForsterの評論とHanna ArendtのThe Origin of Totalitarianismを比較することで、不安と支配という対立のパターンを取り出し、A Passage to Indiaにおけるアングロ・インディアンとインド人との軋轢を見ていく。次にインド人と対等の友人になろうとするFieldingやAdelaが、やはりアングロ・インディアンと同じような過程を経て対立に陥っていく様子を取り上げる。ここで、対立に陥らなかったMoorにも目を向け、彼女の役割について考えてみる。最後に、以上のような対立を通して浮かび上がってくる作者の意図についても言及してみたい。

・参考文献
・Arendt, Hannah. The Origins of Totalitarianism. 1951. San Diego: Harcourt, 1976. (『全体主義の起源1 反ユダヤ主義』大久保和郎訳 みすず書房 1972年、『全体主義の起源2 帝国主義』大島通義・大島かおり訳 みすず書房 1972年、『全体主義の起源3 全体主義』大久保和郎・大島かおり訳、みすず書房 1974年)
Bloom, Harold. ed. E.M.Forster’s A Passage to India: Bloom’s Modern Critical Interpretations. Philadelphia: Chelsea House Publisheres, 2004.
Bradbury, Malcolm. ed. E.M.Forster: A Passage to India. London: Macmillan, 1970.
Deane, Seamus. “Imperialism/Nationalism.” Critical Terms for Literary Study. Frank Lentricchia and Thomas McLaughlin. eds. Chicago: The University of Chicago Press, 1995. 354-368.
Eldridge, C.C. The Imperial Experience: From Carlyle to Forster. London: Macmillan, 1996.
Forster, E.M. A Passage to India. 1924. London: Penguin, 2000.
---. Two Cheers for Democracy. 1951. London Edward Arnold, 1994.
◆10:30~11:00
[2室] 福西由実子(東京大院)
「〈家族〉としての英国:第二次大戦期におけるジョージ・オーウェルの国民文化表象」     
  本報告では、第二次大戦下のイギリスで、George Orwell (1903-1950)が描いた共同体像について考察する。彼はイギリスを〈家族〉とみなし、異なる階級の人々が、当時現れた新たな消費文化を同時に享受しつつ国民意識を共有する、いわば「家庭の中でのみ通用する言語と共通の記憶をもち、外敵が近づくとたちまち隊列を引き締める」集合体であるとした。開戦直前にあって、彼は異階級間の共存・連帯を訴えるべく、国家を構成する〈家族〉としての国民というヴィジョンを作りあげたのである。このヴィジョンは当時の国内世論に多大な影響を与え、開戦後は戦争プロパガンダとしての役割をも担う結果となった。この研究では、The Lion and the Unicorn (1941)、BBCラジオ放送原稿等のテクストを扱い、他の同時代作家・ジャーナリストらによる国民文化表象との比較分析を通じ、彼が到達した共同体アイデンティティ構築の試みの意義とその限界について論じたい。

・参考文献
川端康雄、『オーウェルのマザーグース――歌の力、語りの力』(平凡社、1998年)
LeMahieu, D.L. A Culture for Democracy: Mass Communication and the Cultivated Mind in Britain Between the Wars. Oxford: Clarendon Press, 1988.
McKibbin, Ross. Classes and Cultures: England 1918-1951. Oxford: Oxford UP, 1998.
Orwell, George. The Lion and the Unicorn: Socialism and the English Genius. London: Secker and Warburg, 1941.
Scannell, Paddy and David Cardiff. A Social History of British Broadcasting. Oxford: Basil Blackwell, 1991.


◆11:05~11:35
[1室] 志渡岡理恵(聖マリアンナ医大研究員)
「『女クルーソー』とプロテスタントのコンダクトブック」

いわゆる「ロビンソンもの」がイギリスのみならず、ヨーロッパ各国にも多数存在することはよく知られているが、孤島に漂着する女性、「女クルーソー」を主人公にした小説もまた存在することはあまり知られていない。本発表では、1767年にロンドンで出版された The Female American を取り上げ、大西洋横断中にひとり船から放り出され、孤島で生活することを余儀なくされた混血のヒロイン(ネイティブアメリカンの母とイギリス人入植者の父をもつ)が、ギリシャ語の聖書と、英国教会牧師の伯父から受けた教えを精神的な支えとして苦難をのりこえ、年に一度島を訪れるネイティブアメリカンを改宗させる姿を描くこの作品を、プロテスタントのコンダクト・ブックの伝統のなかに位置づける読みを提示する。そのさい、主人公のジェンダーと人種を変えて『ロビンソン・クルーソー』を語り直すことで生じると思われる効果についても指摘したい。   

◆11:05~11:35
[2室] 西村和泉(愛知県立大非常勤講師)
「サミュエル・ベケット『事の次第』におけるコクーニングとノマディスム」
 ベケットの小説作品はこれまで「主体の崩壊」を描くものと見なされる傾向にあったが、草稿の書き換え部分を分析すると、複数の主体が複数性を保ったまま統一するというポリフォニックな構造が浮かび上がる。『事の次第』草稿に残された数々の数学的記号(とりわけ行列と円環)から、ベケットの閉鎖空間は袋小路ではなく、内部で絶えず組換えが行われる開かれた動的空間であることが窺える。ここには、全ての人間が固有名や場所や役割を入れ替え続けることによって善悪や差別の思考を無効化するプロセスが見られる。不定形な泥の中を這う主体たちと同様に、テクストやエクリチュールも未決の断片の集まりであり、それぞれの同時共存と交換可能性を保障することこそがベケットの創作の条件なのである

  本発表の目的は、サミュエル・ベケットのテクスト分析を通して、複数の主体の共存可能性を明るみに出すことにある。ベケット作品は、バフチンやシクロフスキーが豊饒なポリフォニー文学と見做すドストエフスキー、スターン、ラブレーらの多大な影響の下に執筆されたにも拘らず、従来は「絶望」、「貧しさ」、「主体の死=自己同一性の崩壊」といった対極のイメージで捉えられてきた。しかし、それぞれの作品を分析すると、語り手および登場人物の人称や固有名や身体的特徴は常に変化の中に置かれ、喪失される確固たる同一性は元々存在していないことが分かる。バフチンは、多数体系的物語を線的に読む研究者を「モノローグ主義」と批判し、矛盾したフレーズを「根本から多元的な世界」として重視したが、ベケットも同様にエクリチュールのヴァリエーションに注目し、矛盾・中断・反復表現を積極的に用いている。ベケット作品は、通常隠蔽、排除されているエクリチュールの豊かな可能性を内包しているが故にポリフォニックと考えられるのではないか。1960年に出版された小説『事の次第』においては、文頭の大文字も句読点も全く用いられず、フレーズは内容とは無関係に一行から十行の断片にまとめられている。語り手とされる「わたし」が、語る声は自身のものではなく、聴こえてくる声の引用であると述べることや、「ピム」、「ベム」、「ボム」といった他の登場人物たちと頻繁に入れ替わることなどからも、本作品には語りのオリジナリティーの否定や永遠にずれてゆく自己といったインターテクスチュアリティーの問題が含まれていることが分かる。実際、草稿には行!や円環の図が描かれており、ベケットが厳密な数学的思考を通して、流動する世界を凝縮した形で示そうとしていたことが窺える。そこで重要なのは全体の構成であり、記号で書かれた人物たちは自在に組み換えられる対象として動き続ける。ベケットはコクーニング=閉鎖空間を通して主体やエクリチュールの交換可能性を追求し、結果的にノマディスム=豊饒な運動の様態を創出したのである。

主な参考文献
・BECKETT (Samuel), Comment c’est, Paris, Minuit, 1961.
・BECKETT (Samuel), How It Is, New York, Grove Press, 1964.
・BECKETT (Samuel), Disjecta : Miscellaneous Writings and a Dramatic Fragment, 1983, textes anciens ou inedits en francais, anglais ou allemand publies en 1984, edites par Ruby Cohn, New York, Grove Press.
・BAKHTINE (Mikhail) , La poetique de Dostoievski, traduit du russe par Isabelle Kolitcheff, Seuil, 1970.
・NISHIMURA (Izumi), Micromegatexte : L’intensite de la conscience interieure dans l’?uvre de Samuel Beckett」、『演劇研究センター紀要II』、早稲田大学21世紀COEプログラム、2004年1月、93-106頁。

◆11:40~12:10
[1室] 杉村醇子(同志社大嘱託講師)
「父と娘の物語ーThe Mayor of CasterbridgeにおけるHenchardの変化について」
1979年、The Mayor of Casterbridgeに対するフェミニズム批評からのアプローチとして、Elaine ShowalterはHenchardの変化を「女性化」と見なす新しい視点を提供した。
ショウォールターのこの見解については同意できるが、しかし同時に彼女が指摘したヘンチャードの父性についての論及は十分になされているとは言いがたい。
そのため本発表においては、作品を通してのヘンチャードの変化を「女性化」としてではなく「親となる変化」としてとらえて、再考する。さらに、これまでヘンチャードやLucetta、Farfraeらの関係を見守る「観察者」として評価されてきたElizabeth-Janeを、ヘンチャードと同じく変化する主体としてとらえなおしてみたい。
そして最終的に、変化したヘンチャードと娘エリザベス・ジェインとの関係から、この作品の新しい悲劇的な要素を明らかにすることが本発表のねらいである。

◆11:40~12:10
[2室] 畑山浩昭(桜美林大助教授)
「現代レトリック研究におけるテクストの理解」
  本発表では,現代のレトリック研究におけるテクストの取り扱われ方や理解について整理し,レトリックとテクスト研究の新しい方向性を模索する.レトリックは長い間,特定のディスコースがオーディエンスに与える影響について興味を持ってきた.当然,言語テクストはその中核をなし,ことばの運用による説得的テクストの構築はレトリック理論にとって重要な位置をしめてきた.しかし説得性についての研究の焦点が,文化や心理,歴史,民族など,個別のディスコースにとってはコンテクストとして取り扱われる要素に移っていく中で,テクストそのものの研究は修辞の部分だけになってしまった.一方で,テクストの科学的な分析は,言語学においては談話文法や会話分析,文学では,ニュークリティシズムを原点とするテクスト内の統一性の研究などに発展し,客観的に言い切れる現象だけに重きが置かれるようになった.そうはいってもディスコースの解釈の問題は残ったままであり,ポストモダン以降の,テクストが表現対象を創造するという考え方に基づくならば,テクストが本来持っているレトリック性を解明しなければならないことになる.テクストの理論と実践についてのレトリック批評を行うことが,本発表の目的である.

  レトリック研究の中でテクストを考察することは、現代社会の中で非常に意義深いことである。情報ネットワーク化が進んだ社会では、様々なテクストが人々の日常生活や勉学、あるいは仕事等で、重要かつ主要な意味媒体として機能している。また、テクストが、人間の思考に影響を与え、特定の行動まで促すことも多い。従って、テクストをひとつのコミュニケーションの意味媒体として定義し、コミュニケーション経験とその結果を吟味するレトリックのアプローチにより分析することが有効だと考えられる。個々人が、テクストのレトリック性を理解することによって、テクストに対する向き合い方が変わり、より良い思考や判断、行動につながることが期待されるからである。

 本発表では、テクストを「言語による表現」とし、まとまった意味を産出するテクストを研究の対象とする。レトリックは、いわゆるクラシックのレトリック理論と、近代における批評理論及び実践としてのレトリックを、テクスト分析の手法として用いる。筆者は、テクストを「コンポジションの結果」とみなしている。コンポジションにはディスコース上の意図と政策が含まれる。よって、すべてのテクストは「レトリカルテクスト」であるとする立場をとる。

 発表では、1)何が語られ、何が語られないか、2)何がどのように語られるか、という視点でテクストを考察する。これを手がかりに、テクスト制作者が持つ共有コードとしての言語についての知識ではなく、「語られ方とその効果についての知識」を探る。なぜならこの考え方が、レトリック的なアプローチだからである。フォスのレトリック批評や、近年のディスコース分析の手法を取り入れながら、レトリック的なテクストの理解について議論する。

参考文献
Foss, Sonja K. Rhetorical Criticism. Illinois: Waveland Press. 1996
Johnstone, Barbara. Discourse Analysis. Malden: Blackwell Publishers. 2002
Mailloux, Steven. Rhetorical Power. Ithaca and London: Cornell University
Press. 1989.

◆13:10~13:40
[1室] 西村智(愛知文教大助教授)
「トマス・ハーディのレトリック-『帰郷』における擬人法をめぐって-」    
ヒリス・ミラーが述べているように、ヴィクトリア朝作家が自然を扱う場合、実際は自然以外の何かの問題―精神、自己、言語などについて―を提起していることが多い。トマス・ハーディもまたそうした作家の一人であり、彼の場合、自然への関心は、擬人法という文彩へのずらされた関心である。このことは、彼の主要小説の一つ『帰郷』においてとりわけ明白である。擬人法は一見したところ隠喩と同じような構造をしているが、それは単に字義的所与に比喩的な別名を与える方法であるというより、ポール・ド・マンが指摘するようにむしろ固有名化の機能を持ち、かくて認識論的吟味を逃れがちな修辞法である。
『帰郷』における「エグドン・ヒース」もまたこの意味で固有名であり、そのように名づけられ主体化された自然はここで単なる比喩や象徴以上の何かとして存在している。すなわち、エグドンは、擬人法を通じて「ユーステイシア」や「クリム」などの固有名を持った作中人物たちと対等の存在となり、それら人々の間の相互主観的関係から成る共同体空間に入り込み、かくて人々の運命に実質的な言語的影響を及ぼしているのである。


テクスト研究学会第4回大会プログラム

●日時 2004年8月27日(金)10:00~18:00 [受付開始 9:40]
●会場 京都女子大学J校舎(〒605-8501京都市東山区今熊野北日吉町35 ?075-531-7030)
(市バス「馬町」下車.「馬町信号」東へ坂を上って左300M) ※京女大メインキャンパスから離れています.
●参加費 500円(当日受付で支払い)

<研究発表>
(第1室:英語学系)
=司会:片岡宏仁(関西外国語大学大学院生)=
10:00~10:30  梅田尋道(神戸大学非常勤講師) 「新聞における情報性と娯楽性」

10:30~11:00  刈込亮(駒込中学・高等学校) 「行為の実現を表すcould とテクスト性」

(第2室:英文学系)
=司会:井上義夫(一橋大学教授)=
10:00~10:30  近藤康裕(一橋大学大学院生) 「ジョン・ファウルズの A Maggot におけるパフォーマティヴィ ティ」

=司会:福岡忠雄(関西学院大学)=
10:30~11:00  高橋路子(関西学院大学大学院生) 「V.ウルフの『波』における"prehistoric monster"
 のイメジェリーと両性具有」

11:00~11:30  大北勢津子(関西学院大学研究員) 「Sense and Sensibilityとセンシビリティ崇拝-女性化する男性,男性化する女性-」

<ワークショップ>
11:40~12:30  石川慎一郎(神戸大学助教授) 「コンピュータを用いた文学テクスト分析入門」

<講演>
13:30~14:20  上西妙子(神戸女学院大学教授)「スランス文体論の諸相―プルーストをめぐって―」

<シンポジウム「文学と音楽」>
=司会:富山太佳夫(青山学院大学教授)=
14:30~15:20  児玉実英(広島女学院大学教授) 「ポーランドのバラッドとショパン:テクストとしての楽譜」

15:30~16:20  深澤俊(中央大学教授) 「ベートーベンとフォースター」

16:30~17:30  「放談:文学の魅力・音楽の魅力」
               小野寺健(横浜市大名誉教授)・児玉実英・富山太佳夫・深澤俊 [50音順]

17:30~17:40 事務報告・閉会の言葉

18:00~19:30 懇親会(京都パークホテル)

研究発表の概要

梅田尋道(神戸大学非常勤講師)
「新聞における情報性と娯楽性」

 最近の各種メディアは大事故や戦争が生じたとき、過剰ともいえるほど徹底的な報道をおこなう。
事件はしばしば人間化され、ドラマ仕立てで伝えられる。ニュース項目の中には、テレビにせよ新聞にせよ、
明らかに社会的重要性よりも話題性や映像のインパクトを重視したものがある。
 本発表では、2003年2月3日付けのThe Dayly Yomiuriにおける、スペースシャトル・コロンビアの墜落事故
に対する報道記事を取りあげ、新聞が伝える情報の意義について考えたい。


刈込亮(駒込中学・高等学校)
「行為の実現を表すcould とテクスト性」

 was / were able to とcould の使い分けは「行為の実現性」を基準とすることが通説となっている。
一般に、特定の行為の実現が認められる場合にはcould の使用は避けられる。両者の使い分けは
was / were able toが表す「実践的能力」とcouldが表す「潜在的能力」との対比である。この点について、
異論はないと思われる。
 しかしながら、British National Corpus (BNC)にて、could を含む例文を採取すると、行為の実現が
認められるものを確認できる。本発表では、因果関係が成立するテクストにおいて、couldが「行為の
実現」を表す場合があることを明らかにする。同時に、このテクストにおいて、could が表す意味は「能
力」ではなく、「機会」であることを提示したい。


近藤康裕(一橋大学大学院生)
「ジョン・ファウルズの A Maggot におけるパフォーマティヴィティ」

 英国の作家ジョン・ファウルズの A Maggot (1985) は、シェイカー派の創設に関る歴史上の人物が登場人物
として設定されているが、作家はこの小説を歴史小説ではなく、「奇想= "maggot"」なのだという。ロンドンの娼
婦だった女性が謎めいた事件を経てシェイカー派の創始者を産む、という物語はどう読めばよいのか。ファウル
ズの「奇想」は何を意図したのか。
 代表的なメタフィクションとされるThe French Lieutenant's Woman (1969) によって有名なファウルズは、ポス
トモダンの作家として位置づけられることが多い。この発表では、ポストモダンと呼ばれる文化、思想のなかで
も90年代以降とくに議論の中心に据えられてきた "performativity" の概念が、A Maggot という小説の能く描
き得たものであり、ファウルズが作家としての実践において意図したものであることを指摘する。


高橋路子(関西学院大学大学院生)
「V.ウルフの『波』における"prehistoric monster"のイメジェリーと両性具有」

 V.ウルフの小説にしばしば挿入されている「先史」のイメジェリーはテキストのジェンダーをめぐる問題と密
接に結びついている。その意味において、ウルフの両性具有論を分析する上でも極めて興味深いテーマで
あるが、発表では『波』(1931)における「先史」のイメジェリーがいかにジェンダー化され、またそうすることで
テキスト内の「歴史」――登場人物の一人は「伝記」を書いている――にどのような影響を与えているかを分
析する。さらには、進化論的言説が隆盛した19世紀末から20世紀初頭にかけての英国社会における「先史」
観とウルフのテキストにおける「先史」とを比較することで、『波』における「先史」のイメジェリーによって表出さ
れる作家独自のジェンダー論ないし両性具有論を再考することを目標とする。

大北勢津子(関西学院大学研究員)
「Sense and Sensibilityとセンシビリティ崇拝-女性化する男性,男性化する女性-」

 Jane Austen のSense and Sensibilityを論ずる。理性の時代から感情の時代への移行期であり意味の変換
期にあったsentiment, sensibility, sentimentality, sentimentalismといった用語に着目する。センシビリティ崇拝
真っ只中,男性が多感になるに連れ,女性は男らしくなるか過度に女性らしくなるかという選択を迫られた。
 そのような時代において,Sense and Sensibilityの登場人物にどのような形でそれらの語が反映されている
のかを検証し,そこから見出される男性性と女性性の問題をジェンダ-の面から捉えなおし考察する事を目的
とする。また,「容易く病に転ずる神経の性質」とも定義付けられるsensibilityによってもたらされる病の役割,
特定の登場人物達に取り付く病のイメ-ジについても分析も行う。最終的にセンチメンタルコメディ-とも比較
対照しながら結論を導きたい。
学会スナップ

文学系研究発表風景



英語学系研究発表風景


ワークショップ,講演風景


シンポジウム風景

シンポジウム風景



テクスト研究学会第3回大会報告


●日時 2003年8月30日(土)9:30(受付開始)~17:30
●会場 京都女子大学J校舎(市バス「馬町」下車.「馬町信号」東へ坂を上る.左300M)
      京都市東山区今熊野北日吉町35 ※京女大メインキャンパスからは離れていますのでご注意ください.
●参加費 500円
●参加者 約65人


プログラム

09:30 受付開始

09:50 開会の言葉 本会代表幹事 森晴秀(京都女子大学)

総合司会 午前―団野恵美子(姫路獨協大) 午後―上西妙子 (神戸女学院大)


10:00-10:50 研究発表1 (質疑応答込み50分)    
司会:石川有香(広島国際大学)
石上文正(人間環境大学教授)
「間テクスト性、フレームそして「図」・「地」について―エンロン問題を中心にして―」


11:00-11:50 研究発表2 (質疑応答込み50分)
司会:向井秀忠(松山大学)
中村裕子(神戸大学非常勤講師)
「作家ジェーン・オースティンのイメージの変遷を辿る」


11:50-13:10 昼食休憩(80分)

13:10-13:20 事務報告 本会事務局:清水伊津代(近畿大学)


13:20-14:30 セミナー1(70分)
司会:中井敦子(同志社大学)
吉田典子(神戸大学教授・仏文学)
「文学と絵画:ゾラと印象派の画家たちにおける近代都市パリとその表象」


14:45-15:45 セミナー2(60分)
司会:伊藤貞基(桃山学院大学)
加藤文彦(京都女子大学教授・英文学)
「インターテクスチュアリティー今昔」


16:00-17:20 セミナー3(80分)
司会:服部典之(大阪大学)
富山太佳夫(青山学院大学教授・英文学)
「文芸批評論文を読む」


17:20-17:30 閉会の言葉  本会常任幹事 杉本龍太郎(大阪女子大名誉教授)

17:50-19:30懇親会(会場:ホテル東山閣)


研究発表・講演の概要

研究発表

石上文正 「間テクスト性、フレームそして「図」・「地」について―エンロン問題を中心にして―」

●発表者紹介
人間環境大学教授.California State University, Hayward人類学部大学院(修士課程)卒業(M.A.).近刊論文に「ブッシュ大統領の「同時多発テロ」演説のフレーム分析」
(『こころとことば』第1号、人間環境大学、2002年3月31日)など.

●発表要旨
2000年末頃から、米国では株価が大幅下落し、それに伴い多くのドット・コム企業が破綻した。2001年の12月には、エンロン(米巨大総合エネルギー会社)が破綻した。このエンロンの破綻をめぐる報道記事は、エンロンの破綻=ドット・コム企業の破綻というフレームから記述される場合があった。本来、この2つの破綻は別のものとして記述されるべきであるが、同じように記述されている。
 本発表の目的は、何故このようなことが生じたかという「原因論」の問題ばかりでなく、本来別のものが同じように扱われているその現象を記述・考察することにある。本発表では、フレーム、間テクスト性および「図」と「地」の3つの視点から記述・考察を加える。これらの3つのアプローチの学問的起源はまちまちだが、テクスト分析においては、統合されるべきものと考えられる。フレーム分析で、執筆者の認知構造をさぐり、その認知構造の起源がどこにあるのかを間テクスト性の問題として考察し、「図」と「地」の分析によって、その先行テクストが、現行テクストにいかに配置されているかを考察する。

●参考文献リスト
1.鹿野晋 1996 「政治コミュニケーション研究におけるフレーミング分析」(『慶応義塾大学大学院・法学政治学論究』、30, 389-417)
2.拙論 「ブッシュ大統領の「同時多発テロ」演説のフレーム分析」 (『こころとことば』第1号、人間環境大学、2002年3月31日)
(上記論文は、ishigami@uhe.ac.jpにメールで請求していただければ、PDFファイル形式の論文をお送りします。)
3.『テクストとしての小説』(ジュリア・クリステヴァ著、国文社)


中村裕子 「作家ジェーン・オースティンのイメージの変遷を辿る」

●発表者紹介
神戸大学・京都外国語大学・大阪電気通信大学非常勤講師(英語・英文学担当).神戸大学大学院文化学研究科単位取得退学.主要論文は「見えない存在としての黒人――フランシス・バーニー『忙しい一日』――」(神戸英米学会、『神戸英米論叢』第14号、2000年8月),「『マンスフィールド・パーク』の素人芝居――批評の流れをたどる――」(神戸英米学会、『神戸英米論叢』第15号、2001年8月),共訳書にネッド・ウォード『ロンドン・スパイ』――都市住民の生活探訪――』(法政大学出版局、2000年11月),『ジェイン・オースティン事典』(鷹書房弓プレス,2003)がある.

●発表要旨 
 ジェイン・オースティンとその小説を取り巻く状況は、この10数年のあいだに非常に大きな変化を見せた。
 その変化の原因のひとつは、『文化と帝国主義』においてE. W. サイードがジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』をとりあげ、この小説が帝国主義的ヴィジョンの強化に加担していると論じたことである。これによって、政治やイデオロギーとは最も無縁な作家の一人と考えられていたオースティンの作品がもつ政治性が議論の俎上に引きずり出され、これまでその政治性を見落としてきた読者のあり方にも批判が向けられることとなったことは、オースティン研究者にとってとくに衝撃的であった。
 もうひとつの変化の原因は、1990年代の半ばから、オースティン作品のBBCによるドラマ化やハリウッドによる映画化が続き、そのうちのいくつかが大ヒットしたために、オースティン・ブームが起こったことである。これは、オースティンの作品の読者を増やしただけでなく、オースティンの作品を彼女の作品そのものからではなく映画などの二次的な作品によって知る人々を増やし、さらには、オースティン作品の続編やオースティンを主人公とした探偵小説なども書かれたので、それらすべてを含めたかたちでオースティンの世界を把握する人々も多く生み出した。
 また、オースティンの作品をめぐる状況の変化と歩調を合わせるかのように、この10数年は、オースティンについての伝記類の出版も相次ぎ(1990年以降だけでも10冊以上)、作家オースティン自身のイメージも微妙な変化を見せ始めている。
 今回の発表では、これらの動きを概観しつつ、とくにオースティンに関する伝記類をとりあげ、作家ジェイン・オースティンのイメージの変遷を追ってみたい。

●参考文献リスト
クレア・トマリン『ジェイン・オースティン伝』(矢倉尚子 訳、白水社、1999年)
ディアドリー ル・フェイ『図説 ジェイン・オースティン(シリーズ作家の生涯)』(川成洋、太田美智子 訳、ミュージアム図書、2000年)
講演

吉田典子 「文学と絵画:ゾラと印象派の画家たちにおける近代都市パリとその表象」

●講師紹介 神戸大学教授(仏文学). 近刊論文は「ショーウインドーとしての絵画ーゾラと印象派の画家たちにおける芸術と商業」(『美術フォーラム21』第7号、醍醐書房、2002年)、「1900年パリ万国博覧会ー政治・文化・表象」(『国際文化学』第3号、神戸大学国際文化学会、2000年)、「ゾラ『愛の一ページ』と女性画家ベルト・モリゾー近代都市とジェンダーに関する一考察」(『国際文化学研究』第12号、神戸大学国際文化学部紀要、1999年)など。翻訳はバルザック『金融小説名篇集』(藤原書店、1999年)、ロザリンド・ウィリアムズ『夢の消費革命』(工作舎、1996年)など。研究テーマは、19世紀フランス小説(特にゾラ)の作品を通した、近代の産業社会と文化、ジェンダーの問題、および西洋近代の視覚文化と文学テクストの相関関係。目下、ゾラのデパート小説『ボヌール・デ・ダム百貨店』の翻訳(藤原書店《ゾラ・セレクション》)を準備中。

●参考文献リスト
 宮下志朗・小倉孝誠編『いま、なぜゾラかーゾラ入門』(藤原書店、2002年)
 エミール・ゾラ『パリの胃袋』(朝比奈弘治訳、《ゾラ・セレクション》、藤原書店、2003年)
 エミール・ゾラ『制作』(清水正和訳、岩波文庫、1999年)


加藤文彦 「インターテクスチュアリティー今昔」

●講師紹介 京都女子大学教授(英文学).近著に『相互テクスト性の諸相』(国書刊行会,2000),『文学史とテクスト』(ナカニシヤ,1996)ほか.R.バルトやJ.デリダに代表される1960年代以後の感性は、言語が作る現実の幾つものヴァージョンをテクストと呼び変え、自己と世界の複数性を肯定的に捉え直したが、『文学史とテクスト』はそのテクスト論を批判的に見直した文学基礎論序説。[ナカニシヤ出版案内より]

●参考文献リスト 
 廣松渉、吉田宏晢共著、『仏教と事的世界観の前哨』 (1979年 朝日出版)
 石川淳、井上やすし、大岡信、杉本秀太郎、野坂昭如、丸谷才一、結城昌治著、『酔いどれ歌仙』 (1983年 青土社)
 峯岸義秋校訂、『六百番歌合・六百番陳状』  (1936年、岩波書店)
 ソシュール 『一般言語学講義』


富山太佳夫  「文芸批評論文を読む」

●講師紹介 青山学院大学教授(英文学). 近著に『ポパイの影に-漱石、フォークナー、文化史』(みすず書房,1996),『『ガリヴァー旅行記』を読む』(岩波書店,2000)など.「19世紀のイギリス(ヴィクトリア時代)の文学、とくに小説と、文化の研究を行なっています。その研究の必要上からダーウィン、シャーロック・ホームズ物語、19世紀の漫画の研究もやってきました。これから手をつけようとしていることのひとつはチャールズ・ディケンズの研究と、それからイギリス小説史を書きあげることです。」[青山学院大学ホームページより]


司会者 

総合司会者
 団野恵美子(姫路獨協大学:英文学) 研究テーマ:「シェイクスピア・ エリザベス朝文化」 共訳書:ネッド・ウォード『ロンドン・スパイ』』(法政大学出版局,2000)ほか. 
 上西妙子 (神戸女学院大学:仏文学) 研究テーマ:「20世紀フランス文学・文化」 著書:『絵画とプルーストの文体』(パリ第3大学)ほか.

研究発表司会者
 石川有香(広島国際大学:英語学) 研究テーマ:「社会言語学(フェミニズム的視点から見た英語性差研究)」 共編著書:『ティームティーチングの指導』(大修館,1998)ほか.
 向井秀忠(松山大学:英文学) 研究テーマ:「Jane Austenを中心とするRegency期の小説の政治性」 編著書:『ジェイン・オースティン事典』(鷹書房弓プレス,2003)ほか.

講演司会者
 中井敦子(同志社大学:仏文学) 研究テーマ:「フランス自然主義文学/ 文学が他の芸術と連動してどのような自律的世界を構築するか」 著書:『点からネットワークへ:エミール・ゾラ『ルーゴン・マカール叢書』における文学テクストと建築空間』(パリ第7大学)ほか.
 伊藤貞基(桃山学院大学:米文学) 研究テーマ:「脱構築以後のポストモダン的状況の中で、主体や倫理の問題が、文学や文学批評の中にどう立ち現れている(あるいは、立ち現れてくる)のかを探る」 共著書:『アメリカ文学史――植民地時代からポストモダンまで――』(ミネルヴァ書房,1989/2000)ほか.
 服部典之(大阪大学:英文学) 研究テーマ:英文学・インターネットの言語教育への応用. 著書:『詐術としてのフィクション-デフォーとスモレット-』(大阪大学)ほか.

講演コメンテーター(吉田講師の講演)
 植田和文(安田女子大学:英米文学) 研究テーマ:「アメリカ都市文化研究(アメリカ合衆国の急速な都市化に伴う諸問題の研究)」 著書:『群衆の風景:英米都市文学論』(南雲堂)ほか.


テクスト研究学会第2回大会プログラム


●日時 2002年8月31日(土)午前10時00分~午後5時30分

●会場 京都女子大学J校舎(市バス「馬町」下車.「馬町信号」東へ坂を上る.左300M)

      京都市東山区今熊野北日吉町35 

      ※京女大メインキャンパスからは離れていますのでご注意ください.

●参加費 500円(資料代等実費.当日徴収します)



●プログラム      総合司会:清水伊津代(近畿大)

09:30受付開始

09:50 開会の言葉   代表幹事 森晴秀(京都女子大)

10:00-10:30 研究発表1 (30分)    司会:吉村耕治(関西外大短大部)

  「『哀れ』なる常葉-『平治物語絵巻』の常葉観と世界観」  

  加藤好広(愛知淑徳大大学院研究生)

10:30-11:00 研究発表2 (30分)    司会:吉村耕治(関西外大短大部)

  「The Mystery of Edwin DroodをThe Moonstoneのパロディとして読む可能性」

  宮川和子(神戸大大学院文化学研究科博士後期課程)

11:00-12:30 セミナー1 (90分)    司会:米本弘一(神戸大)

  「ヒリス・ミラーの批評再考-ハーディーの詩"The Torn Letter"(「引き裂かれた手紙」)をめぐって」

  玉井暲(大阪大教授)

12:30-13:30昼食・休憩 (60分) ※会場付近の昼食場所は当日ご案内申し上げます.

13:30-15:00セミナー2 (90分)    司会:福岡忠雄(関西学院大)

  「David Copperfieldを読む-Ch.15のMr.DickとCh.17のThe Doctorの記述の比較-」

  富山太佳夫(青山学院大教授)

15:15-16:45セミナー3 (90分)    司会:深沢俊(中央大)

  「E.M.フォースターの教養」

  小野寺健(横浜市立大名誉教授)

16:50-17:00事務報告他   石川慎一郎(広島国際大)

17:00 閉会の言葉         辻裕子(京都女子大)

18:00-19:30懇親会(会場:京都パークホテル)



発表・セミナー概要

研究発表1 

「『哀れ』なる常葉-『平治物語絵巻』の常葉観と世界観」

加藤好広(愛知淑徳大学大学院研究生)

【概要】

『平治物語絵巻』の詞書において,常葉が旧宅に帰った際,「閉て納めてひとなし。何時しか荒れにけるも,哀れなり」との語り手の言葉が語られる.この詞書に類似する本文が『平治物語』第一類本において語られているが,「哀れなり」という言葉は存在しない.本論では,この「哀れなり」という詞書固有の言葉を中心として,詞書の語り手の常葉観,更には世界観を垣間見る事を目的としている。


研究発表2

「The Mystery of Edwin DroodをThe Moonstoneのパロディとして読む可能性」

宮川和子(神戸大学大学院文化学研究科博士後期課程)

【梗概】

Charles DickensのThe Mystery of Edwin Drood(以下EDと記す)が、Wilkie CollinsのThe Moonstone(以下MSと記す)のパロディとして読める可能性について論じたい。このパロディという概念については、Sander L. GilmanがNietzschean Parodyの中で詳しく論じており、Gilmanが述べるような現存するパターンを反復しつつも素材を暴力的に変更することでパロディになっている部分を指摘し論じたいと思う。
 まず、MSでは婚約→婚約解消→結婚というパターンが存在し、EDでは婚約→婚約解消というように反復されている。ただし、婚約解消の原因は大きく変更されている。MSでは金銭上の搾取が問題となっていたが、EDにおける主たる原因はEdwinがRosaを所有物のように扱っていた、ということである。こうしたEdwinに対する批判はMSで最後にRachelと結婚するFranklinにも当てはまるものであることから、MSのハッピー・エンディングの欺瞞性をも暴く効果をもつ。
 次に、MSでの阿片吸引により登場人物の無意識の状態が生み出されるという部分も、EDで反復される。ただし、MSではFranklinが意識下でも無意識下でもいわゆる「紳士」として振舞い、無意識が制度にとって都合の良いものとして飼い馴らされてのがわかる。一方、EDではJasperの無意識の形成物である夢を分析すると、欲動の化け物じみたエネルギーが観察され主体を脅かすものとして描かれる。DickensがCollinsとはまったく違う人間観をもつということが明らかとなる。
 最後に、EDのJasperは阿片を常用しているなど、MSのJenningsといくつも共通点をもつ。そのことでふたりのあいだの関連性が示唆される。ところがこの二人は根本的に異なる点もある。Jenningsが科学の力で謎を解こうとするのに対して、Jasperは非科学的な催眠術という方法を使って真理をゆがめようとする。MSにあった合理性尊重に対し、この世は理性だけではとらえられない不気味なものという独自の世界観がEDでは示されている。
 このように、EDにはMSに対する同化と批判の混合した状態が見られ、パロディとして読まれ得ることがわかる。


セミナー1 

「ヒリス・ミラーの批評再考-

ハーディーの詩'The Torn Letter'(「引き裂かれた手紙」)をめぐって」

玉井瞕(大阪大教授)

【梗概】

 脱構築批評の代表者ヒリス・ミラーがトマス・ハーディの詩をどのように読むのかを,具体的な試作品を取り上げて検証する.まず,ミラーがハーディの詩'The Torn Letter'(Satires of Circumstance(1914)に所収)を論じたエッセイ'Thomas Hardy, Jacques Derrida, and the "Dislocation of Souls"'を詳しく紹介する.これにあわせて,他の批評家がこの詩をどのように読んでいるのか,その読みの差異に触れながら,ミラーの読みの特質を考えてみたい.時間に余裕があれば,'In Front of the Landscape'(Satires of Circumstance)も検討してみたい.


セミナー2

「David Copperfieldを読む-Ch.15のMr.DickとCh.17のThe Doctorの記述の比較-」

富山太佳夫(青山学院大教授)

【梗概】

表記の箇所を出発点に,SwiftのGulliver's TravelやM.Sparkの作品などにも言及しながら,英文学に見る老人(介護)問題について考える.まず,辞書的にテクストを読み,次いでそれを文学史的に読み,再びテクストに立ち返る手順を踏む.


セミナー3

「E.M.フォースターの教養」

小野寺健(横浜市立大学名誉教授)

【梗概】

ファースターは一つには同性愛者として,生涯,弱者・少数者の意識を持ち続けた.ところが,それが時代の批判者としての彼の特徴とも強みともなった.おそらく寛容とユーモアがエッセンスだと言える彼の思想の成立と,それが社会に迎えられるにいたった時代的環境などを,改めて整理して考えてみたい.


テクスト研究学会第1回設立大会報告


●日時 2001年8月11日(土)

●会場 京都女子大学J校舎5階教室(守衛室:075-531-9000)

●参加者 約60名.

●プログラム

1時30分~ 研究会
講師(1) 玉井瞕氏(大阪大学教授)「新しい批評理論の功罪:ヒリス・ミラーの批評を批評する」
講師(2) 井上義夫氏(一橋大学教授)「川端康成『みずうみ』をよむ」

5時~設立総会

6時~懇親会(@京都パークホテル)

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